Ⅵ-彼女は霧を薙ぐ(1)

 朝の気の迷いが嘘のように、その日はいつも通りの──『普通』の一日を過ごした。遅刻についても、叱責されるどころか心配されたくらいだ。自分で言うのも何だが、普段の真面目な勤務態度が功を奏したのだろう。


 伊豆の方はというと、社に姿を現すことはなかった。



 もしかすると私は彼に対して、少し言い過ぎたのかもしれない。彼のその考えの浅さには嫌悪感すら覚えはするが、しかし彼は百パーセントの善意で私にああ言ったのである。伊豆に八つ当たり気味の説教を垂れた手前、そのような、人として如何なものかと思われる行動をしたというのは、些か決まりが悪かった。


 それに、つい錯覚しがちだが──感情の深淵を覗いたことがあるからといって、人生を熟知していることにもならないし、深みにいるわけでもない。色々なことを考えるきっかけくらいにはなるだろうが、その考え事だって一円にもなりはしない。全くの無駄なのである。無駄を誇るべきではない。当たり前のことだ。



 そんな悶々とした思いを抱えながら、今日もいつも通りいちご牛乳を買う。駅に着くまでにそれを飲み終え、満員電車に揺られ、コンビニで惣菜とまたいちご牛乳を買い、帰途に着く。


 一人暮らしの暗い部屋で、昨日電源を切らないままにしたパソコンの画面だけが光っていた。


 室内灯をつけ、コンビニのレジ袋をテーブルに置く。いつも通りの夕食だ。手癖でパソコンに手を伸ばす。


 ──『休んだっていいんですよ。ご自分のことを大切に──』


「…………うるさい」


 耳の中で反芻する言葉を遮る。


 私はただ毎日インターネットを眺めているだけだ。普通のことをしているだけなのだ。それだけのことが、増してやそこで友人の名を見かけることが、ストレスである筈なんて──あって良い筈がない。有名になった友人の活動を追い、応援するのも普通のことだ。その筈だろう。



 私は随分と久しぶりに、動画投稿サイトで京子のチャンネルを開いた。



 彼女の活動名義は『kiri』だった。件の部誌の時に使ったペンネーム『薙霧なきり』から一文字取ったらしい。今でも動画投稿以外の創作の場で『薙霧』名義を使っているのを、ごくたまに見かける。

 『kiri』名義の活動は主にDTMによる楽曲制作で、所謂ボカロPというやつである。動画投稿サイトの最盛期を築き上げた作曲者の一人なのだそうだ。


 ──これらは全て、京子以外から聞いた京子の話であり、私が知らない京子の──否、『薙霧』と『kiri』の話だった。



 京子、否『kiri』は、無責任な希望や救済を好んで歌った。異端や、少数派や、鼻つまみ者に、安っぽい救いの詩を書いていた。


 たぶん、時代に愛されるとはこのことなのだろう。『kiri』が動画投稿をするサイトの主な視聴者層は所謂ヲタク、つまりは今まで世間から白い目で見られ排斥され気味だった人たちだったし、『kiri』が有名になり始めたちょうどその頃、時代はマイノリティを尊び出した。


 『kiri』《京子》は今まさに、マイノリティの時代の先頭を駆け抜ける、ジャンヌ・ダルクそのものなのだ。


 そんな彼女のチャンネルを、下へ下へとスクロールしてゆく。しばらく見ない間に随分と動画本数が増えたものだ。最近は個人の楽曲制作以外にも、楽曲提供や他チャンネルとのコラボ、楽曲と小説を掛け合わせたマルチメディアプロジェクト等々、その活動はますます多岐に渡っているようだった。中には対談やら何やら、創作活動以外の動画もちらほら見受けられる。輝かしく、魅力的で、何より制作が楽しそうな、数々の創作物。京子の笑顔が脳裏をちらつく。


 精神がどんどん抉られるのが分かった。心臓に鈍い痛みが走る。彼女の創作を追うことが精神の自傷に当たることには、薄々気付いていた。こんなことがあって良い筈はないのに。友人の活動ならば応援出来なければおかしい筈なのに。彼女に対する罪悪感と引け目で視界が歪む。


 思えばこんな感情を抱えてまで彼女を友人と呼ぼうなんて、随分と滑稽な話だった。


 それでも更に画面をスクロールしていくと、彼女が他の動画投稿者と対談している動画を見つけた。顔出し声出しは避けたいらしく、どちらも上手い具合に編集されているようだ。何とはなしに、私はそれをクリックした。生身の京子が少し懐かしかったのかもしれない。


 少し間を置いて、動画が流れ始める。


 軽いオープニングのようなものを挟んだ後、二人の対談が始まる。程なくして話題は、自分たちの活動のことに移った。

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