Ⅴ-伊豆太一という男(2)

「『おはようございます』じゃありませんよ……何考えてるんです、天津さん。びっくりしましたよ、僕は」


「お騒がせしてすみません。……あの、伊豆さん、仕事は」


「休みます。有給溜まってたしちょうど良かった。天津さんも有給溜まってる筈ですよね、使ったらどうです?」


「有給って当日そんなぱっと使えるもんなんですか?」


「さぁ?」


「さぁって……」


 駅のホームに置かれたベンチに、私と同僚は並んで腰掛けていた。


 彼とは仕事上特に接点があるわけでもなく、きちんと話したことがあるのは忘年会などの飲みの席くらいだ。私は伊豆のことなど何も知らないし、彼も私のことなど知らないであろう。

 そんなよく知りもしない男に根掘り葉掘り色々聞かれるなんて、まったく御免だった。適当な理由をつけてさっさと立ち去るのが吉であろう。


「助けていただきありがとうございます、伊豆さん。このことは、出来れば会社には内緒にして頂けると。では失礼します」


 そう言って立ち上がりかける。──が、ぱしと腕を掴まれた。


「ちょ、待ってくださいよ天津さん!」


 ……やはり、ぱっと見自殺未遂の人間をそう簡単に逃がしてはくれないか。

 渋々、私は椅子に座り直す。


「……なんですか、伊豆さん」


「そ、そんな渋い顔しなくても」


 あからさまに不機嫌そうな私の顔と口調に、気圧された様子の伊豆。

 不機嫌になるのは当たり前だった。あれほどまでに『普通』を遵守していたのに、自殺未遂だなんてどんなに大目に見たって異常な人間の行動だ。京子との約束を──「自然体って意味での『普通』でいよう」という約束を、破ることになってしまう。


 考えてみれば、未だ私だけが律儀に京子との約束を気にしているなんて、ちゃんちゃらおかしな話だが。


 しかし、私が『普通』でいる理由を一番手っ取り早く説明できるのはこの約束だったし──私が『普通』でいることに私自身が一番手っ取り早く納得できるのも、この約束なのだった。


「……あの、天津さん。どうしてそう、平然としていられるんです? さっきまで……その、死のうとしてたのに」


 言いづらそうに、伊豆が尋ねてくる。


 この人は、自死というものについて、当事者意識を持って真剣に考えたことはきっとないのだろう。

 ……いや、私だってありはしないが。そんな『普通』でないことを考えたりはしていない。そもそも能動的に自死を検討するほどの苦境に居るわけではない。だから仮に考えたことがあったとして、京子の思考遊戯に付き合っただけの筈だ。

 ──その筈、なのだ。


「どうしてでしょうね。よく分かりません。……私も別に、死にたかったわけじゃないので」


「死にたかったわけじゃない……? じゃあなんであんなことを……」


「分からないって言ってるじゃないですか」


「で、でもあんなこと──何かすごく辛いことがあったんじゃ」


「しつこいですよ」


 ……ああ、なんて腹立たしい。

 私の発言が一から十まで分からないというその態度、話せば理解できると思い込んで詮索しようとするその姿勢。まったくもって所謂「真っ当」な人生を歩んできたに違いない。冷え切った鉄球の中に黒い炎を飼うような嫉妬も、心臓の内側がどろりと溶けて息ができなくなるような消えたい夜も、彼は知らないと見える。喉につかえる塊を、義務のような自己嫌悪を、液状化現象より悪質な感情の深淵を、彼は知らずに済んでいると見える。私とは全く異質で、どんなに言葉を交わしても一生分かり合えない深い溝があるような、そんな存在。


 しかし、だ。


 彼こそが『普通』だというのなら──私は一体、何なのだろう?


 才能などない、何者と名のつく何かになれるような力も熱量も努力も持ち合わせていない。かと言って、世が思う『普通』の定義の内側に留まり続けることができるわけでもない。


 もしかして、私は、ただの──


「もういいでしょう。失礼しますよ」


 繋がりかけた思考を無理やりに切って落とすように、そう言って立ち上がる。慌てたように伊豆がこちらを見上げるが、今度は腕を捕まれはしなかった。


「どこへ行くんです……?」


「会社です。今ならまだ若干の遅刻で済みます。私は今まで無遅刻無欠勤なのでそれくらいなら許されるでしょう」


 今ここで『普通』のレールを外れてはならない。もしここで諦めれば──『普通』にも『才能』にもなれない、自分の無能を認めることになる。


 私は『普通』の人間で在らねばならないのだ。京子と違って、才能になどなれはしないのだから。


「こんな時まで会社になんか行かなくたって……良いじゃないですか。無理しなくていいんです。休んだっていいんですよ。ご自分のことを大切に──」


「伊豆さんは何か誤解なさっているようですが」


 伊豆の言葉をぴしゃりと遮る。


「ほぼ初対面のような何も知らない相手を、そんな型通りの言葉で救えると思ったら大間違いですよ。貴方はあのまま何もせず立ち去れば心苦しかったでしょうけど、貴方の行動は貴方の心苦しさを解消しただけです。貴方の我儘の域を出はしない。私にはただの迷惑にしかなりません。──それと、くどいようですが、私は死にたかったわけじゃありませんから」


 そこまで一気に言い切ると、私は伊豆を一瞥する。


「では、今度こそ失礼します」


 そして、唖然とする伊豆を放ったまま、ハイヒールを駅のホームに打ち付けてその場を後にしたのだった。

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