Ⅳ-伊豆太一という男
◆
果たしてその翌朝は、地獄のようであった。
電気を消さぬまま寝たこと、スーツのまま寝たこと、硬い床で布団もかけずに寝たこと等々、全て自業自得ではあるものの、もうそんなに若くもないのだと実感してしまう。手元に何も残っていなかったのに、若さまで失われてゆくか──などと朝から鬱屈とした気分になる。
駅のホームで電車を待つ。毎日同じ時間の通勤快速、その一番後ろの車両に乗る。電車がホームに滑り込んで来るのを見るのが好きなのと、単に改札から近いのだ。
自分が乗る一本前の各駅停車を見送るのも日課だ。電車と共にホームに訪れた風が髪の毛を舞い上げる。改めて見ると、電車がホームに入る時の勢いというのは通過列車でなくとも割に速いもので、
例えば人なんかがぶつかればひとたまりもなさそうだった。
──例えば人なんかがぶつかれば、ひとたまりもなさそうだった。
ちっとも抜けない疲労を抱えた身体、この先何の展望もない人生、親が望んだであろう道であり私が自分の責任で選んだ道。何も能動的に終わらせるほどの何かがあるわけでもないが、いつ終わりにしたって何も変わりはしない。それが、今であろうとも。
ぼうっとして半分もはたらいていないような脳味噌は、これが案外欲求に素直だったりするものだ。今の私には、数歩先に見える線路が何やらとても魅力的に思えた。
次に来る通勤快速の前に躍り出れば、なんと今ここで、この惨めな人生を、劣等感に塗れた日々を、私という凡庸な人間を、大好きだった彼女たちに抱いた穢い感情を──終わりに出来るというのだ。ついでに今日会社に行かずに済むというのも結構魅力的だ。
駅のホームにアナウンスが流れる。
電車が迫る音がする。
今だ、今ここで黄色い線からたった二歩、踏み出してしまえ。
そうすれば、あの日奪われた私の『普通じゃなさ』は返って来る──
「何やってるんですか!」
ぐい、と強い力で腕を引っ張られ、ホーム側に引き戻された。
聞き覚えのある男の声。
よくも、よくも私の終劇を邪魔してくれた──ありったけの呪詛を込めて声の主の方を振り返る。
「……あ、伊豆さん」
そこに居たのは、職場の同僚だった。
「おはようございます」
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