Ⅲ-彼女がああなったのは
◆
インターネット上で京子の名を見かけるたびにこんな回想をするせいで、この忌々しい記憶はいつまで経っても色褪せず昨日の事のように再現される。どころか、何度も再生されるうちにその記憶の忌々しさの部分だけがどんどん膨らんで質量を増しているように思えた。
彼女に創作を教えたのは私だった。あの時私が彼女に文芸部の話を持ち掛けさえしなければ、私の日々がこんなに惨めになることはなかった。彼女に創作など教えなければ──……否、きっと私が教えずとも彼女は創作と出会っていた。彼女は『本物』なのだから。
彼女のことが大好きだった。高校時代唯一の良き友人だったし、日々考えた由無し事を何でも話せた。彼女のことをずっと好きでいたかった。こんなどす黒い感情の塊を抱くことに対して覚える罪悪感が、より私を惨めにする。こんな心の攻防を、人生を狂わせた攻防を、京子は微塵も知りはしないのだ。京子に創作を奪われた──なんて理不尽な怨みを抱えていることを、京子は微塵も知りはしないのだ。
もはや私は彼女と対等な友達でなどいられない。彼女を好きでいようと彼女に抱える巨大な劣等感に抵抗するのにも、もう疲れてしまっていた。
──そんなことを思いつつ、ふと携帯電話を見る。姉からメールが一件届いていた。
『
季節の変わり目なのでそろそろ値下げをしようと思います。良かったら燈子も、今度うちのお店に遊びに来て欲しいな。
元気してる? などとは聞くまでもない頻度でメールを寄越す癖に、姉のメールはいつもこの一文で始まった。新しい物好きの彼女は、最近発売された二つに折れない携帯「スマートフォン」に早々に乗り換え、それをいじるのが楽しくて仕方ないらしい。私とのメールはメモ帳代わりかと思うほど些細なことでメールを送ってくる。
──彼女の存在もまた、私が抱える大きな劣等感の一因だった。
同じ環境で育った筈なのに、姉は私と違っていつも周りに人がいた。知らないことは知らない、やりたいことはやりたい、誰が相手でもはっきりそう言える性格故なのだろう。
彼女がいるせいで私はずっと、こんな自分を両親のせいと言い切ることもできず、ただ惨めな生活を送るより他なかった──などとは、口が裂けても言えない。言える筈がなかった。姉がそのための努力を惜しまなかったのをよく知っているからだ。それが誰にでも出来ることだとは思わないが、少なくとも姉に対してはそんなことが言えよう筈もなかった。
姉には夢があった。自分のアパレルショップを持ち、経営することだ。五歳違いの姉は私が小学生の頃からずっとその夢を語っていたし、高校を出たら服飾の専門学校でその業界のことを広く学んでみたいのだとよく私に話してくれた。
しかし時はバブル崩壊直後の大不況で就職氷河期だ。昔気質な父親は反対したし、父よりも保守的な母はもっと反対した。就職に有利な四年制大学に行くかさっさと就職するかの二択を迫ってきた両親に、しかし姉は、ならこんな家は出て行く、と言い放ち、さっさと家を出て行って一人暮らしの友達の家に転がり込んだ。私が中学二年生の時のことだ。
それから彼女は必死に働いてお金を貯めた。ある程度稼いだら夜間の専門学校に入学し、学費と将来の開業資金を稼ぎながら勉強に励んだ。よく当時の姉の居候先に遊びに行ったが、彼女はそんなハードワークをこなしながらもいつも笑顔だった。すごいバイタリティだな、と思い尊敬すると同時に──私には、幾ら好きなことだとしてもこんなに笑顔のまま頑張れる彼女のことが、心底理解できなかった。
姉は三年前に念願の自分の店を持つことが出来た。彼女の努力をたくさんの人が見ていて、彼女はたくさんの人に祝福された。両親ですら、呆れながらも祝いの手紙を送って寄越したらしい。
対して私には、何もなかった。創作もやめてしまっていた。奪われたと言うのは簡単だが、そうでないのは結局私自身が一番よく分かっていた。『本物』だ何だと言っていたが、ただ単に私が圧倒的な才能を前にして逃げ出しただけなのだ。
世に普く通ずる存在になった京子。夢を追い、叶えた姉。
何者にもなれないまま、ただ淡々と好きでもない仕事で食いつなぐだけの私。
毎朝満員電車に詰め込まれ、会社まで輸送され、そこで得た金で不健康な飲み物を買ってはちまちまと寿命をすり減らすような真似をする。かといって酒や煙草をやるわけでもなく、それらに対する漠然とした抵抗感は保守的な両親に植え付けられたものだと気付いてまた虚しくなる。
親のせいにするなとよく言うが、逆に親のせいでなくて何のせいだというのだろう。
誰もが姉や京子みたいになれると思うな。
私は平々凡々な人間だ、私を基準にしろ──。
……なぁ天津燈子、何が楽しくて生きているんだ?
散らばる思考をそのままに、スーツを着替えもせず床に寝転んだ。疲れなど取り切れなければいい。翌日に響けばいい。朝起きたら体の節々が痛くなっているといい。
そんなことが積み重なって──余生が、また少し縮んでしまえばいい。
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