Ⅰ-遍く通じた彼女について
◆
「お先に失礼します」
そう一声かけて職場を後にする。残業に励む何人かが「お疲れ様ですー」と木霊のように返した。基本的に残業もなく悪質な上司がいるわけでもなく、良い労働環境だと思う。バブルが弾けて就職氷河期に入った時はどうなることかと思ったが、自分たちが就職活動をする頃には、バブルの頃ほどとはいかないものの売り手市場に戻りつつあった。幸運なことだと思う。なるべく低コストで「普通」を維持していたいからだ。
職場を出たところにある自販機で、毎日いちご牛乳を買う。ガコン、という音は仕事が終わったという実感を与えてくれる。この安っぽくて不健康な味は高校生の頃から好きだったが、就職してから飲む頻度は増した気がする。着色料と香料でできたこの飲み物が、なぜか私の中の仄暗いものを満たすような気がしていた。
大抵はその不健康な飲み物を飲み終わる頃には駅に着き、そのまま満員電車に詰め込まれて自宅最寄り駅まで運ばれる。一人暮らしであるため駅近くのコンビニで適当な晩ご飯を買い、ついでにまたいちご牛乳を買う。そして帰途につく。パソコンを開いて、スーツのまま味気ない夕食をいちご牛乳で流し込む。それだけだ。それだけの毎日だ。
夕飯の時間は嫌いだ。……いや、パソコンを開くのがいけないのは分かっていたのだが、どうしても一人の時間が手持ち無沙汰で、ついついそうしてしまう。
インターネットに接続して動画共有サイトを開けば、どうしたって見たくもないものが見えてしまうというのに──。
「…………京子」
高校生時代の、唯一の友。
今はすっかり遠い存在になって、私の知らない姿しか見えなくなった、友。
インターネットで彼女の名を毎日のように見かけるたびに、腹の底に黒いものが溜まって、厭な感覚が渦を巻いて、得体の知れないものが心臓を掴んで、圧倒的なものが自分を世界一惨めな存在に変えて、厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で厭で仕方なくて──。
バタン、と音を立ててパソコンを閉じた。二度と見たくない。毎日そう思う。出来ることなら彼女の存在ごと忘却の彼方に追いやって、そのまま永遠に思い出したくなかった。
私は望んでこうなった。この平坦で平凡で誰からも排斥されない「普通」を選んだ。自分で選んだのだ。だから、私が惨めになる理由なんてないのに、それなのに、どうしてこんなにも彼女に憎悪にも似た何かを抱くのか。これ以上私を惨めにしないでくれ。これ以上私を情けない存在にしないでくれ──。
世に『普く通じた』彼女の姿。もう長いこと会っていないし、彼女の方は私のことなど覚えていないのだろう。同じようにインターネット上で有名な人たちと交友関係を築いて、高校時代のことなど毛ほども気にかけることはないに違いない。どうして私だけが毎日こんな思いをしなければならないんだ。どうして私だけが彼女に遣り場のない感情を溜め込まなければならないんだ。
──どうして私は、彼女になれないんだ。
残っていたいちご牛乳を、一気に飲み干した。この不健康な飲み物は、惨めで平々凡々で一生何者にもなれないままの私のくだらない余命を、毎日少しずつ縮めてくれている、そんな気がする。
──京子が有名になってから、私は中毒患者のようにいちご牛乳を手放せないでいた。
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