けれど恋は知らない。

どれだけの時間が経っただろうか。


あの後からずっとベッドに横になっている。


毎日決めた時間に行っている将来のための勉強すら怠けてしまった。


こうしていると本当に静かだ。


広い土地の中心に立つこの家に、周囲から無駄な雑音が届くことは無い。


当たり前のことなのに、今はそれがすごく不快に思えた。


「国広様、よろしいでしょうか」


コツコツと戸を叩く音とくぐもった遠慮がちな声。


「こんな遅くにどうしたんだ」


起き上がり、外の暗さを確認しながら訊くと、淡々とした口調で彼女は答える。


「毎晩話を聞くようにと仰せつかっておりますので」


「………そうだったな。入ってくれ」


そう言えば数日前にそんなことを言ったのだった。


なにか明確な意図があった訳ではないのに、いつの間にか口にしていたものだ。


戸を開け、少女が広い部屋に入ってくる。


しかし扉のすぐ近くで立ち止まり、それきり動くことはない。


どうしたのかと思ったがすぐに気付く。


「近付くなと言ったことは気にしなくていい」


言うと、彼女はしずしずと絨毯を踏み締めながら近くへと歩いてくる。


やがて月明かりの漏れる、ベッドにほど近い窓際で足を止めた。


それから何かを待つようにじっとこちらを見つめてくる。


「今日は特に話したいことはない」


はっきりと告げる。


いまは、彼女の瞳が自分を見ていることに耐えられる気がしなかったから。


いつもであればそれだけで、模範的な返事と共に頷いて立ち去る。はずなのだが、彼女はその場を動かなかった。


やがてしばらく経ってから、少女はゆっくりと首肯する。


複雑な処理に珍しく時間がかかっていたのだろうかと思った。


しかし、


「私………」


部屋から出ていかずに、普段より随分と控えめに口を開いた。


「私、ずっと考えていました。さきほど国広様が食堂を立ち去られた時からずっと」


なにも反応をする事が出来なかった。


彼女が自分から何かを話すのは初めての事だったからだ。


「なぜ国広様は涙を流しておられたのかと」


でも、と続ける。


「私には分かりませんでした。どれだけ考えても心当たりが無いのです」


思わず視線を窓へと逸らしてしまう。


それは仕方のない事だ。


なぜなら彼女には探し当てるはずの心そのものが無いのだから。


「けれど分からないままではいけない」


だから、と。


「教えて欲しいのです。私のせいですか?私が、不甲斐ないからでしょうか?」


「お前はよくやっている。言っただろう、お前は悪くないって」


逸らしたままの視線の端に彼女を捉えながら、そう言うことしかできない。


「国広様はお優しいのですね」


それを聞いて、私は意識的に正面にその蒼い瞳を見据えた。


「私は優しくなんかない。宗谷家の跡取りにそんな感情は不要だ」


しばしの沈黙が流れる。


なぜ生まれた時間なのかは窺い知ることはできない。


「私が貴方様のお世話を命じられた理由をご存知でしょうか」


ふと、彼女はそんな事を言った。


「使用人の動員数を減らすための導入実験だろう」


聞いていた事をそのまま答えると、少女は首を横に振る。


「お父上はこう仰られていました」


それから大きく息を吸い、一息に言いきった。


「『うちには財産がある。金は幾らでも残せる。けれど温もりは1度も与えてやることができなかった。だからこのままでは、あいつは生涯を共にする者にも優しくはできないだろう』と。そのために私が亡くなった母親の代わりをしてやれと」


耳を疑った。


息子のことなど目にくれたこともないあの父親が、そんな事を言うなんて信じられなかった。


だがこの子には嘘をつくことができない。


「けれど、私はそうは思わない」


絶対に嘘をつくことはないと誓った少女は告げる。


「国広様はすでにとてもお優しい方です。人工知能である私を他の使用人の方々と同等に扱ってくださったり」


「さきほどの涙もきっと、私のためだということですよね」


確信しているような物言いで、このひと月で何度も向けてくれた、あの微笑みを浮かべていた。


「優しくなんかない。同等に扱った覚えなんてない」


「いいえ、して頂いています。それが国広様の優しさで」


「優しさなんかじゃない!私は………!」


私は跡取りで、彼女は人工知能で、道具とそれを使う人間の関係で。


なのに。


俺はもう、そんなことはどうでも良くなっていた。


ただ勘違いをされたままなのが嫌だった。


何より彼女自身にそう思われてしまうのが嫌だった。


「俺はお前が好きで、お前に恋をしていて、だからそういう態度をとっているだけだ。それを優しいだなんて言うな。そんな………!」


嘘に縋りたくなるようなことを、言うな。


「好き、とは。それは何かの間違いではないでしょうか」


驚いたように目を丸くする少女の言葉はあまりにも純粋に真っ直ぐで。


それを言わせてしまっている自分に腹が立った。


「お前の顔を見れば頬に熱が昇るし、お前の事を考えるだけで鼓動が早くなる。間違いなんかじゃない。これが恋以外のなんだって言うんだ!!」


思わず叫んでしまい、肩で荒く息をする。


知っているんだ、俺は。


これが初めてでも、そんなことは言い訳にならないくらいに想ってしまっていることを知っている。


そんなこと、始めから気付いていた。


「でも、それじゃあ私は…………」


胸の辺りに手を添えた少女は足の先から崩れ落ちた。


「国広様の寂しそうなお顔を見るだけでここの辺りがぎゅっと痛くなって。私がなんとかしなくちゃって、いつものお優しい笑顔が見たいって思って、気付かないうちに触れてしまっていて」


少女は顔を大きく手で覆った。


透き通るように蒼い瞳が隠れてしまうほどに。


「こんなの、こんなの知らない………っ!」


知らないと。


わからないと。


少女は繰り返した。


何度も繰り返していた。




………何が違うんだ。


目の前の少女はとっくに感情を知っている人工知能で。


俺は感情など不要だと言いながらも捨てきれなかった人間で。


一体何が違うっていうんだ。


その差を誤魔化すように、いつの間にか手を伸ばしていた。


顔を覆っている腕をそっと降ろしてやり、前に彼女からされた時のように包み込む。


これは間違っているのかもしれない。


けれど今だけは嘘をつきたくなくて。


そっと唇を重ねた。


肌の温もりも柔らかさも濡れた味も本物のようで。


差や違いなんて分からない。


初めてなのだからわかるはずもない。


だからわからないままでいい。


いつまでもわからないままでいれたらと、そう思った。

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金持ちの家で生まれた人間が、初めて恋をした話 火弥白 @kayashira_yuki

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