近くて遠いということ
彼女が使用人の1人として我が家に招かれたのは、ほんのひと月ほど前。
導入実験ということで、父から私個人に与えられたものだ。
「つまり、AIに惚れてしまってどうしていいか分からないと?」
苑山は悠々と部屋の真ん中であぐらをかきながら欠伸を漏らす。
わざわざ家に入れて見せたにも関わらずこの体たらく。どうやら事の重大さを理解していないらしい。
「そんな単純な話ではない」
私はこの家の主だ。将来多大な財産を継ぐ身だ。
「そもそもAIを好きとか、そのような目で見ること自体が常識的に考えておかしいだろう」
「何いきなり常識的とか言ってるんだ。そんなの宗谷が言っても似合わねぇよ。それに、」
言いかけて、苑山はふと言葉を切る。
「それに、なんだ?」
「………いや、やっぱなんでもない。俺の出番はもう無さそうだからそろそろ帰るわ」
「ちょっと待て、まだ何も解決していないだろう!」
呼び止めるのも構わず、いよっと立ち上がった苑山は手を振ってさっさと部屋を出ていく。
勝手に言いたいことだけ言って、本当に茶すら飲まずにあいつは。
「くそっ」
漏れた呟きは音の無い部屋に静かに響いた。
「国広様、大丈夫ですか?」
突然、強く握りしめていた拳に緩やかな温もりが広がる。
包みこんできた両手の感触にはひとつの違和感もなく、まるで本物の人肌のようで。
「問題ない」
その手を払いながらの言葉は、随分と乱暴になってしまったのを自覚する。
これもプログラムによるものなのだと分かっている。
だから私がとった行動で彼女が悲しそうに瞳を伏せても、何も思うことは無い。
思う必要はないのに。
「………すまない。八つ当たりだ」
「気にしておりません、国広様」
微笑みながらのそれは、実に使用人らしく模範的な回答。
さらに言えばそれから胸に秘めた感情すらも排除したものだろう。
「お前には、何かやりたいことは無いのか?」
ここ数日で何度も訊いている質問に、彼女は深々と頭を下げる。
「宗谷家の跡取りである貴方様のお傍に、いつまでも居させて頂きたいと思っております」
何度問うても、彼女はこの答えしか導き出すことはない。
「嘘はついていないんだよな」
「はい、私が国広様に嘘をつくことなどありえません」
これも、いつも通り。
分かっている。彼女がひとつも嘘を吐いていないことは。
そんなことは最初から許されていないだろうから。
最先端の技術で設計されている時点で、人の不利益になるピースは排除されているに決まっている。
道具やそれを使う者に感情など不要なのだから。
「そろそろお夕食になさいますか?それともお父様のお帰りをお待ちしますか?」
定められた時刻に近付いたからか、少女は言う。
「いや、すぐに食堂に向かう。どうせいつ帰ってくるかも分からないんだからな」
「畏まりました」
一礼をしてから、部屋の入口へと音もなく向かい軽やかに扉を開いた。
廊下へ出ると一定の距離を保ってすぐ横についてくる。
ちらと見やれば、頬を少し上げてほわりと微笑む。
柔和で優しげな絵に描いたような笑顔。
薄く唇を噛み締めてしまい、気付かれないように視線を外した。
間もなく食堂へつくと、すでに使用人たちが夕食の用意を始めていた。
席に着くと間もなく食事が運ばれてくる。
その全てが1人分。
すぐ隣に立つ少女に視線を送る。
「どうぞごゆっくり召し上がってください。私はいつでも近くにおりますので」
食事も食器も飲み物すらも、彼女には必要とはならない。
メンテナンスも不要で、着用する服の替えさえあれば何も問題はない。
簡単な命令をするだけで言うことを聞く。
いつまでも従順な道具。感情は不要。
スープを啜り、全てを流し込もうと努力する。
「…っ!ごほっごほっ!」
勢いよく啜りすぎたせいでスープが入るところを誤って、思わず噎せてしまう。
すると彼女は驚いたように駆け寄ってきて、慌てて背中をさすり始める。
「大丈夫ですか。ゆっくり深呼吸をしてくださいね」
呼吸に合わせて手を動かしながら、吸って吐いてと言葉でも繰り返してくる。
同い年ぐらいに見える少女にまるで母親にされるような扱いを受け、羞恥で顔が赤くなるのが分かった。
「い、いい。大丈夫だから」
「ですが、万が一何かあっては困ってしまいますので」
その言葉で、ずしりと重い何かが体にのしかかった気がした。
真剣な彼女の蒼色の瞳には私の顔が確かに映っている。
けれど、他には何も無い。
まるでそれが自分の全てであるかのように。
「………困る、か」
これもまた、八つ当たりだ。
「それは命令する人間がいなくなるからか?」
少女は何も分からないと言うように首を傾げる。
それが酷く物悲しく思えた。
思うだけなら、まだ良かった。
「国広様。どうか、なさいましたか?」
気付けば、スープの皿に一滴の雫が増えていた。
「何か困ったことがございましたか?私が何か誤った事をしてしまいましたか?」
心配そうに揺れる瞳と、伸びてきた手が触れる前に俺は立ち上がった。
「近付かないでくれ」
命令を受け、ピタリと少女の動きが止まる。
分かっている。彼女は何も悪くない。
人を動かす人間に必要なのは理屈であり、感情など不要の産物だ。
「………大丈夫だ。すまない、お前は何も悪くない」
出来うる限り取り繕って声をかけてから、食堂を出る。
そこから自室まで続く廊下は、果てしなく遠く感じた。
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