EP14 メシアの娘(後編)
隠されていた螺旋階段は、薄汚れている上に薄暗かった。隠されている割に暗くなかったのは、上に汚れた天窓があったからだ。転ばないようにゆっくり降りていくチリエに合わせて、後ろに続く軍人三人の足取りも自然と遅くなる。
この階段を降り終わるまで、四人の間に会話は一切無かった。足元がおぼつかないのもあったが、何より誰も何も話したがらなかったのが、理由としては大きいだろう。そして入り口も勝手に閉じてしまって後戻りできない今、彼らは前に進むしかなかった。
「……なぁ」
階段を降り終わり、石張りの硬い地面に四人ともが足を付けた時、ストックが徐にチリエに声をかけた。
「何?」
立ち止まって振り向き、ストックを見上げる幼い少女の声は、まだ淡々としている。向けられた黄色い左目にもまだ生気は戻っていなかったが、彼はそれを気にも留めずに少女にこんなことを訊いた。
「本当にこの先にメシアはいるんだな?」
今更何を……とでも言いたげな表情に一瞬なったチリエだったが、すぐにそれは打ち消される。
「うん、いるよ。……でも信者達の声が聞こえないってことは、まだ神託は降りてないのかな。まぁ、その方がいいや、やりやすいから」
ボソッと吐き出した最後の一言は、恐らく独り言だったのだろう。チリエは視線を元に戻すと再び先導し始めた。
暗い、トンネルじみた通路。進むほどに天窓の光はだんだんと届かなくなっていき、代わりの灯りとして、壁の燭台に置かれた蝋燭に灯された火が真っ直ぐ立っている。石畳の硬い音といい、何処となく恐ろしげな空気が辺りには漂っていた。
そして、目の前で揺れる薄ピンクの髪を見ながら、黙ってついていくリーアは一人、考え事をしていた。ここ最近しつこく思い出されるのは、あの日彼女に言った言葉。
『私が貴女を護るから』
……有限不実行にも程がある、と思わず自嘲してしまう。だがそれは事実だ。目の前の少女は、もうリーアが知る、歳不相応にませた、大人に反抗的なチリエ・マクウォールではない。目の前にいるこの少女は……【メシアの娘】として父親に踊らされる、チリエ・マクウォールだ。
自分の不甲斐なさに押しつぶされそうになる。無意識のうちに下唇を噛み、前髪を掴んでしまう。
信者達に進路妨害されたあの夜は何とか踏み止まったが、今はもう踏み止まれるような精神状態ではない。
なら、今ここで精神を変えてしまえば。アヴォストに身体を任せてしまえば。そうしたら、もうこれ以上心が傷を負わなくて済む。それにアヴォストの手にかかれば、多少雑な手段になろうともチリエを正気に戻せるかもしれない。少しばかり彼女の身体は傷ついてしまうかもしれないが、それで元に戻ってくれるのなら。
……しかし彼女の頭の中では、アヴォストが必死になって首を横に振っていた。今は自分が出る幕ではないと、とにかく入れ替わりを拒絶する。思わず滲んだ涙を誤魔化すように、リーアはふっと目を伏せた。
リーア精神は、弱かった。周りが思う以上に、彼女の心は脆かった。自責の念にかられただけで、かつてのようにアヴォストに身体を任せてしまいたくなるほどに。昔からそうだった。ほんのちょっとのミスをしただけで、少し相手が不機嫌になっただけでも罪悪感で泣きたくなる。そのくらい、彼女は繊細で泣き虫だった。
それなのに、今まで誰にもそれを悟られなかったのは、彼女が常日頃から浮かべていた微笑みの所為だろう。彼女の微笑みは、一種の仮面だ。指導役であるジャックスの無表情と同じ、本心を隠して物事を円滑に進めるための仮面。その仮面の裏で、彼女は今まで一人、幾度となく泣いたのだ。誰の目も自分の方に向いていない、誰も自分を気にも留めない、今みたいな時に。
体感時間はやけに長かった。しかし軍人達が思っていたほど、この廊下も長くはなかった。
真っ直ぐなその廊下を暫く歩いていると、やがて目の前に扉が現れる。その扉から数メートルほど離れた場所で、チリエは歩みを止めた。他の三人もその場で立ち止まる。
両開きの木製の扉は白く塗られ、ドアノブは新品かのように金色に輝いていた。
だが何故だろう、チリエはそのドアに近付いて触れようとしない。俯き、その場で静止している。
「どうしたの?」
一般兵の声かけにも彼女は反応しない。本当にどうしたのだろう。顔を見合わせる軍人達だったが、そんな彼らの背後から声が聞こえた。
「お前らそんな所にいたのか」
耳に響く低い声にビクッとして振り向くリーアとストック。ワンテンポ遅れて一般兵も声のした方を向いた。
蝋燭の火が照らす廊下の先――先程自分たちが降りて来た螺旋階段の近くにいたのは、ジャックスを始めとした第一班のメンバー四人だった。そういえば突入以降は個人行動になっていて、まだ再合流していなかった。
「……どうして皆さんがここに?」
此処の入り口は、外からでは分からなかったはずなのに。リーアは思わずそう訊いてしまう。彼の口から返ってくる言葉は、いつも通り単調だった。
「たまたま壁に寄り掛かった奴がいてな、その時に仕掛けが発動した。――だがそんなことはどうでもいい」
言いながら手招きをするジャックス。一体誰を呼んでいるのか判断に迷うが、視線はストックの方に向けられている。リーアは出しかけた右足を元に戻し、ストックは心底面倒くさそうにジャックスの方へ向かった。
士官兵二人が声を潜めて話し込んでいる最中、一般兵がただ棒立ちで待っているのも時間の無駄だ。ジャックスについてこちらに来ていた第一班の一般兵トリオが、リーア達の方にやって来た。
「君たち、こんな所にいたんだね」
「ごめんなさい、何も言わなくて。上の階の様子を見に行ったら流れでこんな所に来ることになっちゃって――」
「それで、此処は一体どんな場所なんだ?」
「地下室があるだなんて聞いてないよ?」
「ええと、それは――」
「うるさい」
冷たく高い声。一般兵達の会話を遮ったのはチリエだった。音もなく振り向き、こちらを睨み付けている。
「あぁ、ごめんね」
「何も話さないで」
チリエの声が通路に響く。情報交換中だった士官兵二人の口も止まってしまった。邪魔するなと言いたげに二人はチリエを睨み返す。
その時だった。
「メシア様⁉︎」
「どうなされたのですか⁉︎」
「おい誰か聖水持ってこい!」
突然扉の向こうが騒がしくなった。バタバタという物音と喚きと怒声が混ざった、とにかく五月蝿いノイズが、扉の隙間から否応なく響いてくる。通路にいた軍人達の表情も思わず固まった。
「――お父様?」
唯一表情が微動だにしなかったチリエはというと、そう呟きながらとうとう扉に手をかけた。
「チリエ、何を――」
止めようとリーアが伸ばした右腕は、少女の肩に届く前に誰かに掴まれてしまう。振り返ると、その手はさっきチリエの発狂に共に出会した一般兵のものだった。諦めたような表情で首を横に振る。
「やめた方がいい。下手に動かない方が……」
「でも」
「リーアさん、落ち着いて。自分の立場を思い返してよ」
そうだ。彼女はまだ一等兵かつ指導役付き。本来なら、上からの許可なしで安易な行動をとることは許されない存在だ。だというのに、【秘匿のメシア】に乗り込んでからの彼女の行動は、側から見たら身勝手過ぎた。恐らくジャックスもかなり彼女を探したに違いない。
既に指導役の下からは外れている歳上の彼に宥められ、リーアは力なく腕を下ろした。
「……すみません」
そのリーアの謝罪の言葉とほぼ時を同じくして、いよいよチリエは両開きの扉を押し開ける。そして、パニック状態の信者達に向けて、こんなことを叫んだ。
「静まれあんたら!」
よくよく考えると半分暴言であるその言葉に、信者達の動きは一斉に止まる。そして関係ないはずの軍人達もそれに驚き、咄嗟に壁に背中を付けるようにして気配を消した。恐らく何人かは向こうにも見えているだろうが、今更だ。
「ドーター様」
「ドーター様だわ」
「どうしてこちらにおられるのかしら」
「メシア様はお呼びになっておられないというのに」
「婚姻の日もまだ決まっておられぬというのに」
数秒の静寂の後、信者達がコソコソとそんなことを話し始めた。だがこの空間が音楽ホールかと思うレベルで響く為か、そのヒソヒソ話は通路にいる軍人達にも筒抜けである。しかしそれに構わず、メシアの娘は言葉を続ける。
「お父様の様子が何やら変なので来て欲しいと、レフィナから頼まれたから来たの」
信者達の視線は、一斉にとある女性の方に向いた。
「え? わたくしはそんなこと――」
青みがかったウェービーミディアムヘアーをまとめて左肩に流しているその女性――レフィナは少女の言葉に困惑した。しかしチリエはそれを気にも留めず、むしろ相手が口籠ったのをいいことに更にこんなことを言ってのける。
「言ったよ、確かに。それとも何? おくすり使ったから記憶が吹っ飛んだとでも?」
その場の空気が一気に凍りつくが、彼女の口は止まらない。
「ねぇ、お父様の所に行ってもいい? いいよね? もう三年も会ってないんだからたまには会わせてよ」
「ド、ドーター様……」
レフィナがチリエの手首をやんわり掴んで止める。が、チリエは彼女の手を振り払うと、大広間の奥に下がる布の方へと向かっていった。
信者全員の意識が、突然この場に現れたメシアの娘に向けられているちょうどその時、通路で様子見をしていた軍人達が何もしていなかったといえば嘘になる。
ちょうどその時、他メンバーから離れたストックは一人、またあの螺旋階段を登っていた。建物の二階から地下の空間への直通経路であるそこは、地下空間への現時点での唯一のアクセス経路でもある。
「……たまにはこの力も役に立つかね」
階段を登りきり、ストックは二階の踊り場に立つ。そして徐に右手を差し出し、開いていた掌をぎゅっと握った、その瞬間。
バキバキともメキメキともどちらともとれる音を立て、隠し通路を塞いでいた壁があっという間に崩壊した。瓦礫は残ったが、これは彼が意図的に残したものだ。何かしら証拠が隠されている線もあり得たからだ。
突然鳴り響いた仕掛け作動時以上の轟音に驚いたのか、兵士が数人二階に登ってきた。見るとストックが率いる班のメンバーもいる。というか全員それだ。班員の一人が目の前にいる自分たちのリーダーの姿に驚いて声を上げる。
「何があったんですかディラー中尉⁉︎」
「話は後だ。静かにこの階段を降りてこい。そうすれば俺がわざわざこんなことをした理由も分かる」
ニヤリと笑いながら階段を指差すストック。
「え、え?」
尻込みする班員達を他所に、彼はまた階段を降りていく。
思いついた限りでやるべきことはやり尽くした。後は状況次第で考えるとしよう。そう考えながらストックは気持ち駆け足で階段を降りていた。
だが、思ったよりも早く事態は動いてしまっていた。
下の階から響く発砲音と悲鳴。それに混じって、下に残した軍人達の誰でもない男達の怒声も聞こえてくる。
「……嘘だろ」
何があったのか薄々察してしまった彼は咄嗟に階段を振り仰ぎ、叫ぶ。
「おい後ろ二人! 増援呼んでこい!」
「は、はい!」
取り敢えず部下に増援を呼ばせ、自分は更に下りる速度を上げていく。ついて来ている部下達の足取りはかなりおぼつかないため、合流にはもう少し時間はかかりそうだ。
そして再び地下空間にストックが足を踏み入れた時、彼は思わず、その光景に恐怖を覚えた。
通路に並んで武器を構えてさえいるが防戦一方の第一班と一般兵一名。
そして部屋の内外で、げっそり痩せた化け物じみた顔を外に晒し、発狂しながらライフル銃を乱射する男の信者達。
【秘匿のメシア】の総本山の地下。奥にカーテンがひかれたその場所は今、狂気に満ちた空間と化していた。
「――クソが」
ストックは小さく舌打ちしながら、腰につけたホルダーから銃を引き抜くのだった。
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