EP8 作戦

 秋の夕方。西に傾いた太陽に照らされながら、リーアは一人帰路に立っていた。ふわふわと揺れる、亜麻色のボブヘアーと黒の紐リボン。ハーフアップにしたその髪は、冷たくなってきた北風を含み、マフラーを巻いていない彼女を震え上がらせた。自然と家への足が早まる。


 チリエ・マクウォールの保護から早二週間経つが、置かれている状況は何も変わっていない。【秘匿のメシア】に関する新情報も何もなく、向こうも向こうで動きはない。街中を信者達が歩き回ってはいるのだが、本当にチリエの捕獲以外の目的は無いようで、他の新興宗教よろしく一般人を拉致して強引に入信させるなんてことはしない。


 そんな状況だからか、軍内部からは「このまま隠し通せば向こうも諦めるんじゃないか」という、言ってみれば我慢比べをするという案が出てくる始末だ。しかもその意見への賛同率が高いとなると、このまま軍とメシアの間での我慢比べが始まるのも時間の問題だろう。


「でもそうは言ったって……」


 リーアとしてはその流れには乗りたくないと思っている。それはきっと、部屋に閉じ込められっぱなしのチリエの姿を知っているからだろう。


 無言で部屋の鍵を開け、中に入る。体に合っていない、ぶかぶかの黒いワンピース姿のチリエは、鍵の音を聞くなり玄関の方に顔を向けた。


「……おかえりなさい」


 下ろされた薄ピンクの髪は肩甲骨に届くくらいの長さがあったが、毛先は揃っておらず、ボサボサのまま。眼帯で隠されていないシトリンの左目は、退屈そうに伏せられていた。


「遅くなってごめんね」

「いいよ。お仕事、忙しいんでしょ?」


 少女の声は素っ気ない。


「……チリエこそ、部屋の中にいて退屈じゃない?」

「別に。慣れてるから」


 こんな彼女がまだ十年しか生きていないと言って信じる人は、果たしてどのくらいいるのだろうか。そのくらい、この部屋に暮らすようになってからの彼女の反応は、やけに大人びている上にやや反抗的だった。そんな彼女に、リーアは辛抱強く話しかける。


「ご飯はちゃんと食べた?」

「食べたよ。お皿も水に浸けてある」

「あ、そこまでしてくれたの? わざわざありがとう」

「どういたしまして」

「あ、そういえばずっと訊いてなかったけど……チリエは昼間は何してるの?」


 その質問で初めて、少女の返答に一瞬の躊躇いが生まれた。


「――お歌歌ってる」

「歌?」

「うん」

「なんて歌?」

「……分からない。けど、昔ママがよく歌ってたの。あたしが眠れない時に、いつもこの歌を歌ってくれて……」


 そう言うと、彼女は徐に窓の外を見ながら、小さくゆっくりと歌を口ずさみ始めた。



 月が照らす 静かな野原に

 小さな花が 一つ寂しく咲いた

 月光の下 小さく笑って

 花はゆらりと 風に揺れる

 側の水面に さざなみ一つ

 けれどもそこには 何もない

 静か 静かに 揺れる花

 夜露に濡れた 桃色の花

 人に知られずに 凛と咲き

 そしていつかは 優しい

 誰かに摘まれ 愛でられる



 ……てっきり子守唄のようなものだと思っていたリーアは、その歌詞に衝撃を受けてしまった。


 呆気にとられているうちにどんどん日は傾く。やがて空は紺色に染まっていき、通りにはポツポツとガス灯が点き始める。

 その間で歌を二回繰り返して口ずさんだチリエは、やがて歌をフェードアウトさせると、小さくこう呟いた。


「……ママ……逢いたいよ……」


涙で潤む黄色い瞳。漏れた声は今までとは打って変わって弱々しく、今にも泣き出しそうに震えていた。

 その言葉に何を返すべきか咄嗟に浮かばなかったリーアは、思い出したかのように部屋のランプを点ける。


「ねぇ、リーア」


 歌い終わった後暫く外を眺めていたチリエだったが、ふとリーアの方に顔を向けると何気なく話しかけてきた。目はまだうるうるしているが、声は普段と同じ、感情を殺した淡々としたものに戻っている。


「リーアはママに逢いたいって思うこと、あるの?」


 リーアは一瞬返答に困ってしまった。だが気まずい空気にならないようにと、必死に頭の中から捻り出した答えはというと――


「……少しだけ、思うかな」

 という無難な返答。一瞬泳いでしまったリーアの視線に気付いてか気付かずか――


「そっか」


 と素っ気ない反応をして、チリエはまた窓の外に視線を向けてしまった。


「チリエはどうなの? お母さんに会いたい?」


 何気無く振った質問だった。


「そんなの、会いたいに決まってるじゃん!」


 しかし、突然リーアの方を向いて声を荒げたチリエは、そのままカーテンを閉めてこう続けた。


「ママには生きてて欲しかった! まだ歌を聞かせて欲しかった! あの時ママが死ななければ……まだなんとか生きていたら! パパの気が狂うこともなかった、あんなクソ宗教なんて存在すらしなかったはずなのに! アイツのせいで……アイツのせいで全部台無し! ノーブルはおろか誰にも会えない、あの部屋でずっと静かに暮らしてなきゃいけないとか……もう嫌なの、限界なの!」


 突然炸裂した鬱憤。その内容に申し訳なさを覚え、謝罪の三文字を言おうとしたリーアだったが、続いた少女の声に遮られてしまう。


「だからってリーア達が悪いわけじゃないよ。今の生活の方がずっと楽しい。部屋にいなきゃいけないのにも理由があるし、夜になればリーアと話せるし、紙とペンがあるから絵とかも描ける。……でもあそこには何も無かったよ。本もペンも、ぬいぐるみも……閉じ込められなきゃならない筋の通った理由も」

「……チリエ」

「だからありがとう、リーア。あの時あたしを救ってくれて。部屋に入れてくれて」


 ニコリと笑う彼女を、リーアは直視出来なかった。ポツリとこぼした言葉も震えてしまう。


「――救えてないよ」

「救えてるよ」

「救えてない! だってチリエにまだ自由は無いんだよ? ことが済むまでずっとこのまま……」


 本当なら自由に外に出たいはずなのに。半泣きで思わずそう言ってしまったリーアだったが、被せるように吐き出されたチリエの言葉の衝撃で、続けたかった二の句を見失ってしまった。


よりは断然マシだよ、そんなこと」


 ……リーアには、その一言を噛み砕くのはあまりに困難だった。


「――どういうこと?」

「さぁ? あたしもわかんない。そもそも、あいつらはあたしの意見なんてどうでもいいみたいだし」


 双方、笑顔が引きつる。異様な空気、頭の中で咀嚼しきれぬまま巡る言葉。重苦しい静寂が、二人の間に流れた。


 当の本人すら概要を理解できていないと、長らくの監禁の理由。筋の通らぬ発言を繰り返す信者達。そして、今以上の信者を増やす気がないらしい【秘匿のメシア】の教祖に関する一切の謎。

 あれから経った時間の割には、あまりにも不明点が多すぎる。雲を掴むような状態で一向に進展しない調査も相まって、リーアの頭の中の思考回路は更に混沌と化していた。


 何とかして、事態を打開したい。軍の誰だってそう思っているはずだ。しかしそれを実現できそうな策がない。

 ……いや、リーアの頭の中に無いことはないのだが、それを誰かに言うのはまだ抵抗があった。

 士官学校を出ていない一般兵は、作戦への口出しは愚か作戦自体の提案すら許されていない。士官学校卒の士官兵からの「生意気な口をきくな」の一言で抹殺されてしまうのがオチだ。


「……ねぇチリエ」


 それでも、この作戦をどうにか実行させてみたい。彼女をもしかしたら、本当の意味で救えるかもしれないから。


「私に考えがあるの」


 リーアは意を決して、頭の中で浮かんだとある作戦を、チリエに話すことにした。


「……考えって?」

「【秘匿のメシア】の教祖――貴女のお父さんを、止める方法」



「……随分と危険な作戦だな」


 翌日、リーアはこっそりとジャックスを建物裏に呼び出して、昨晩チリエに話したものと全く同じ内容の話をした。そして返ってきたのがこの反応なのだが、これはリーアにとってはまだ想定の範囲内だった。そんなことは重々承知の上での提案だからだ。


「ですがこれ以外には浮かびませんでした」


 ジャックスは重い溜息をつくと、意を決したようにこれまた重い口を開く。


「ずっと言いたくても言えてなかったんだが、お前の策って何というか……エゴの塊だな」

「――へ?」

「周囲への影響や後先を考えてなさすぎる」

「そ、そんなこと」

「あと、軍の権力を過信しすぎだ。さっきの作戦、もし失敗すれば軍の顔は泥まみれだ」


 淡々と冷酷にぶつけられる反論。少佐の無感情な言葉、最低限の抑揚しかない低い声。その一つ一つにかかる重さは尋常ではなく、少女一等兵の心はそれに耐えきれずにどんどん萎縮してゆく。思わず視線を外して俯いてしまったが、それでも口はまだ何とか動いた。


「で、でも――」

「まだ何か言う気か」


見下ろされる視線が、彼女には巨大な氷の槍に思えてしまう。半端でないプレッシャーに完全にリーアの心は折れ、とうとう黙りこくってしまった。


「とにかく、俺はその作戦には反対だ。今のは聞かなかったことにしてやるから、とっとと仕事に戻るぞ」


 指導役に歯向かうこと自体間違えているのだと言わんばかりに部下に冷たい言葉を突きつけ、ジャックスはその場を立ち去ろうとした。だが――


「……あの子はどうなるんですか?」


リーアのこぼした言葉に、足が止まった。


「このままずっと自由がないまま大人になるんですか?」

「そうなるな」

「気が狂った親のせいで⁉︎」


 声を荒げ、顔を上げた彼女の瞳は潤んでいた。感情的な言葉はまだまだ続く。


「このまま【秘匿のメシア】がチリエ探しを諦めなかったら? 軍もメシアも、どちらも諦めないまま時間が経ったら⁈ あの子の将来はどうなるんですか、友達にも会えないまま孤独に過ごせと⁈」

「不可抗力だ」

「そんなのあんまりじゃないですか‼︎ ……チリエ泣いてましたよ。友達に会いたいって、学校に行きたいって。他の子供達と同じ生活に戻りたいって! だからあの策を提案したんです」


 つっと、リーアの頬を涙が伝う。しかしジャックスはそれを気にも留めなかった。深緑の瞳は冷ややかに彼女を見下ろし続ける。


「……たったそれだけで?」

「えぇ、それだけですよ。私はただ彼女の願いを叶えてあげたいだけなんです。その為にも教祖の考えさえ変わればいいんです」

「願いの割にハイリスクなことしか提案出来ないんだな、お前」

「ハイリスクハイリターンなことしか私は提案しません」

「どっちにしたってさっきの案は却下だ。まだ聞き入れようとしてもらえただけでもマシだったと思え」


 無情にも部下を切り捨てて、今度こそジャックスはその場から離れようとした。

 だがこれも失敗した。思わぬ先客がいたからだ。


「おいジャックス、女を泣かせるとはいい度胸だなぁ、えぇ?」


 建物の陰からぬっと現れたのは、そういえば朝から姿が見えていなかったストックだった。さっきまで一服していたのか、周りに紫煙を纏う彼は、ジャックスの肩を掴むとこう続けた。


「話は丸っと全部聞いてたぜ。俺はなかなか面白えと思ったけどな、その作戦」


ジャックスの目つきが険しくなる。


「お前正気か?」

「てめえの器が狭えだけだよ、この堅物が」

「不真面目野郎に言われたくない」

「しっかし、リーアも運が悪りぃよなぁ。こんな奴が指導役とか、息苦しくてたまらんだろ」

「これ以上口を出すようなら殴るぞ」

「おう、殴れ殴れ。殴ったところでお前の手が勝手に複雑骨折するだけだ」

「……この野郎……」

「よしリーア、その作戦俺にくれ」


突然向けられた話の矛先に、リーアは暫しポカンとしてしまった。あまりに急展開すぎる。


「……えっ、と」

「つまりは、その作戦案を俺考案ってことにさせろってわけ」

「え」

「でないと上に通らないしな」

「え、えぇ……」

「要求を飲まなかったらお前の案は抹殺されるぞ?」

「うっ……」


 自分の脳を売るか、チリエの未来を売るか。両者を天秤にかけるまでもなく、リーアの決断はかなり早く固まった。


「――分かりました。中尉にこの策は渡します」

「はぁ⁉︎」


 珍しくジャックスが素っ頓狂な声をあげた。


「よしきた。賢い選択だな」

「おいストック、お前……!」


 ストックの胸ぐらを掴んで引き寄せ、睨みつけるジャックス。一方の掴まれた彼はというと、飄々とした態度を全く崩さない。そしてこんなことを話し始めた。


「なぁジャックス。元はといえばこの件を軍に持ち込んだのは俺ら三人だろ?」

「――何だ突然」

「リーアに小娘の保護を命令して、信者を足止めしたのは俺。リーアは命令通りガキを保護したし、しかもお前も俺と一緒に信者の足止めをしてたじゃないか」

「なっ……」


 思わず手を離して後ずさるジャックス。それを見てストックは含み笑いを浮かべた。


「即ち、俺らはこの件に関してはってわけだ。自分らで持ち込んだ事件くらい、自分達で処理しようぜ」


 明るい声、輝くオッドアイ、不敵な笑み、そしてやけに乗り気な態度。


「……お前……」


 無気力だったストックに活力が宿るのはいつぶりだろう。ジャックスは頭の片隅でそんなことを思い始めていた。そしてその光景を見ていたリーアもまた、正直今まであまり尊敬の念を抱いていなかった中尉の変化に気づき、そして驚いていた。


「とっととこんな状況、ひっくり返そうぜ」


 言いながら、ストックは手に持っていた吸いかけのタバコを音もなく微粒子レベルにまで粉砕した。だがその間、手は全く動いていない。


「――あの作戦、中尉の能力があれば成功率が上がりますしね」


 微笑みながらリーアがフォローを入れる。


 中尉の能力――それは直接的な動作を与えずして物を破壊できる能力、通称【遠隔破壊】。上手くやればかなり強力な武器となり得る、攻撃性の高い力だ。


「お、なら尚更やらないとだな。……てめえもやろうぜ、ジャックス」


 すっかりやる気な二人とは対照的に、ジャックスはまだ渋っていた。


「……中尉の癖に生意気な」

「おいおい、同期の意見は聞けねえってか?」

「リスクが大きすぎるのを承知の上で言ってるのか? あまりに決断が安直過ぎる」

「誰かが動かないと何事も解決しねえんだよ。我慢比べなんて最悪の方法だ。それともあれか、その我慢比べを提案したのって実はてめえだったりすんのか?」

「――俺がそんな愚策を提案するとでも?」

「なら俺らに協力しろよ。その方が、現時点で最良の選択だと俺は思うがな」


 じっとジャックスを見つめる赤と緑、そしてシアンブルーの瞳。ライター二人に決断を迫られた彼の深緑の目が、すっとまぶたに隠された。

 そして、吐き捨てるように彼の薄い唇からこぼれた言葉は。


「――勝手にしろ」


 やはり淡々としていた。そのまま立ち去ってしまった相手に困惑するリーアとは裏腹に、ストックは嬉しそうだった。


「おぅ、じゃあ勝手にてめえも巻き込んで話進めるからな!」

「え⁉︎ いいんですか中尉⁉︎」

「勝手にしろっていうのは、つまりはそういうことだ」

「えぇ……」


 強引すぎないかと思ったリーアだったが、兎にも角にも、こうして【計画】は人知れず始動することとなった。


 全ては、この現状を打破するために。

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