EP7 信じれば
リーア・ヴォストがチリエ・マクウォールを保護してから、早数日が経った。軍服姿のリーアは、まだ黒いネグリジェ姿のチリエに一声かけてから、自分の部屋のドアを開ける。振り向きざまに見えた、少女の寂しそうな表情には胸が痛んだが、職場に部外者を不必要に入れるわけにもいかない。
「……お仕事、頑張ってね」
笑顔を取り繕ってそう言う少女に微笑み返すリーア。後ろ髪を引かれる思いに気づかぬふりをして、彼女の足は駐在所の方角へと向けられた。
自己責任で少女を保護し始めたのはいいものの、結局のところ彼女に大した自由はない。部屋から出ること以前に窓を開けてもいけない。実家でも軟禁――もしかしたら監禁かもしれない――状態での暮らしを強要されていたという彼女を、また別の籠の中に移しただけという今の状況は、殆どがリーアの推測ズレの結果もたらされたものだった。
その、彼女の推測ズレというのが……。
「貴方、何してるの?」
【秘匿のメシア】の信者達の活動範囲の拡大。今まで郊外の集会所周辺にしか出没しなかった信者達が、チリエの脱走以降、それなりに離れた場所なはずの市街地にまで出没するようになったのだ。
現に今、軍の集合住宅の正門付近にも、子供の信者が一人。
「通りがかっただけだよ?」
「嘘つかないで。さっきからずっとここに立ち止まってるよね?」
「あぁ、その……大きい建物だなぁと」
その信者は、白ローブにガーターベルト付き黒ソックス、茶色いアンクルベルト付きシューズという信者達の共通衣装に加えて、自分の目元を白い薄手のヴェールで隠していた。うっすらと見えるその目は三日月を形作り、口元も綻んでいるあたり、どうやら本心から来た言葉らしい。暗い青色の髪はきっちり整えられ、どこか育ちの良さが窺える。
「ご両親は?」
「いるけど、場所は違う。ボクはここら辺を任されただけ」
「あぁそう。これ以上ここにいても怪しまれるから、早く立ち去って。ほらほら」
リーアが手で彼を追い払うようなハンドサインを示すと、少年はあっさりと、諦めたように踵を返した。彼が四つ角の向こうに消えるのを見届けると、彼女もそのまま自分の職場へと向かう。
未だにまともな実態が掴めない、【秘匿のメシア】という団体。今のところ分かっている事実といったら、【メシア】と呼ばれる誰かを崇拝する、先述した少年のような白装束姿が特徴的な、密教型の新興宗教であるということだけだ。
……ここで誤解しないでほしいのだが、こんな現状に陥った理由は、軍の調査が怠慢だったからだとか、そういうわけではない。とにかく情報が外に漏れないのだ。信者達の口も固く、本拠地である集会所周辺にはそもそも近づけさせてすらくれない。どうやら彼らにとって、陸軍は教祖の娘を誘拐した非道な連中という認識らしく、ここ最近の彼らは軍に対して敵対的になっていた。
道中、視界に度々入ってくる、白ローブ姿の人達。あの少年のようにヴェールを被っているのは、やはり幼い子供達。ヴェールを被らない大人達の中には、ナイフなどの武器をありありと持って警戒する者もいた。しかも、日に日に町に出ている信者の人数が増えている気がする。
リーアの周囲の張り詰めた空気は、普段のトルプの街から考えても、明らかに異様だった。
*
「それで? あの子供の様子はどうなんだ」
出勤してすぐ、挨拶もそこそこに、ジャックスが向こうからそう声をかけてきた。子供のことは好きでも嫌いでもないと言っていた彼だが、やはり心配にはなるらしい。それに答えるリーアの声は、どこか暗い。
「特に異変はありません。ただ……」
「ただ?」
「……異変があるとすれば、チリエじゃなくて信者達の方ではないかと」
その言葉に、ジャックスの深緑の瞳に影が落ちる。
「それは俺も同感だ。事実、拳銃を無許可で所持していた信者達が、昨日まででも十人近く逮捕されている。さっき会ったフィルグランド中佐も完全に疲れきっていた」
「まだ朝ですよね?」
「『彼らの変な発言を今日も聞くとか流石にもう飽き飽きする』って、さっきボヤいていた」
「えぇ……」
どうやら、あの晩
「……何なんだろう」
ここ数日間、軍内部にも流れる張り詰めた空気。加えて自分に向けられる視線が冷たく感じるのは、ただの拗れた被害妄想だろうか。何となくその場にいるのが苦痛に感じた彼女は、側から見たらジャックスを追いかけるかのように、足早に部屋を後にした。
人の少ない廊下を歩きながら、彼女は思考を巡らせる。
……私の判断は間違っていたの?
私があの時、彼女に別の言葉を伝えていたら?
もっと冷たい言葉で、彼女に変な期待を抱かせるような文言のないものだったら?
あの時彼女の主張を無視して、教団に身柄を引き渡していたら?
そうしたらこんな面倒なことにはならなかったの?
分からない。自信がない。
私の良心からの行いは、結局のところ誰も救えていない。むしろ軍の仕事を増やし、彼女を自由にするどころか縛りつけている。
誰か、誰か教えて。
私の行いは……。
「……私の判断は……正しかったの?」
そんな自問自答を繰り返しながら、自然と俯き、周りの音が聞こえなくなっていたらしい。
「――リーア?」
前から近づいてくる人物の存在に、かけられた声に、リーアは気づかなかった。
「止まれ、リーア・ヴォスト!」
肩を掴まれ、厳しい声で制されて初めて、彼女ははっと我に帰った。立ち止まって見上げた先にいたのは、職場で一番関わりのある佐官であり指導役……ジャックスだった。
「一体何があったんだ」
普段と変わらぬ無表情。まるで仮面のようだと初対面の時に思ったそれからは、全く彼の本心が読み取れない。
「……何もありません」
だから、自分もそうあろうと思いそしてずっと実行していた。いつも善人の前では微笑みを浮かべて、愛想良く他人と接していた。それが正しい生き方だとばかり、この二年ほどの間、ずっと思っていた。
だが。
「何もなかったら、どうしてお前はあんな追い詰めたような表情をしていたんだ」
そんな取り繕った仮面は双方、無意識のうちに剥がれ落ちていた。眼鏡のレンズの向こう、こちらを見据える深緑の目の奥に見えた、心配の色。そして一方で、まるで泣きたそうに震える少女兵の唇からは、あっさりと本心が吐露される。
「……自信が、なかったんです」
「何のだ」
「……自分の下した、判断に」
「あの子供……チリエのことか?」
「――はい」
自信なさげに俯くリーア。まだ十八歳である彼女には、この問いはあまりに難しく、そして重すぎた。一人で抱え込むには、とても無理がありすぎた。
そんな、身の丈に合わない荷物を抱える彼女の肩を、齢三十の少佐は軽くポンポンと叩くと、こんなことを言った。
「それは俺も一緒だ」
驚きであげられる、リーアの顔。彼女のシアンの瞳に見つめられる中、彼は素知らぬふりして言葉を紡ぐ。
「あの時お前に少女捜索の許可を出さなかったら今頃どうなっていたのか、実はさっきまで考えていた。もしそうしていたら、俺たちの仕事は増えなかったかもしれないが、チリエは街中で孤独に夜を明かしたかもしれない。最悪の場合、教団に見つかって、また自由のない暮らしを余儀なくされていたかもしれない。……でもな」
「でも?」
「俺達の判断が正しかったかなんて、今すぐに分かるわけじゃない。ならそれが分かるまでは、自分達の行いは正しかったと信じればいい。昔言っただろ、『自分の良心、正義感に従え』と。それに、さっきフィルグランド中佐から聞いたが、『リーアに保護されることになったと知らされた時のチリエの表情は、とても嬉しそうだった』らしいな。だから気に病むな。お前のしたことは何も間違っていない」
表情はどこまでも無を貫き、一切の感情が読めない。だが、彼の口から吐き出された、淡々とした響きを持つバリトンボイスには、ほんの少しながらも励ましの感情が含まれていた。そして普段にも増して紡がれた単語数からも、それが垣間見える。
その微かな変化に気づき、彼の言葉が彼女の耳を撫でたその刹那。
亜麻色の髪に隠されていない、彼女の蒼の瞳が、確かに輝いた。
「……はい!」
元気な声、安堵の笑顔。それを見たジャックスは、静かに一つ息をつくと、そのままリーアの肩から手を離し、向こうの方へと行ってしまった。そろそろ朝の点呼の時間だ。
「……自分の行いを、信じる……」
自分に言い聞かせるように、彼の言葉を反芻する。深く深呼吸をし、詰襟を正し、改めて一人、気合を入れ直した。
「――行こう」
踵を返したその瞬間、朝の召集ベルが館内に鳴り響いた。
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