Act1

EP1 何気ない日々

「おはようございます、少佐!」


 とある秋の日。カリト中部の陸軍中央駐在所に、元気な女性の声が響く。声の主は、現時点で陸軍唯一の少女一等兵……リーア・ヴォストだ。右目を隠すほどの長い前髪が醸し出す陰鬱さをかき消す、明るい中に優しさが垣間見えるメゾソプラノボイスは、部屋にいた兵士のほぼ全員の視線を、彼女の方へ集めることとなる。


「おはよう」


 そんな、まさしく朝に相応しい爽やかな挨拶をされた軍人達の中。独特なヘアスタイルの紫髪と眼鏡が特徴的な陸軍少佐……ジャックス・ティアーは、相手の声とは対照的に低く、静かな返事をする。

 リーアは出勤すると、決まって最初に彼に挨拶をするのだが、返ってくる返事はいつもああいう風に素っ気ない。だがそれでも嫌われているわけではないということは、二年近く一緒に仕事をしていれば自ずと分かってくる。一部兵士から「堅物」と敬遠されているのに嘘偽りなく、あくまで彼はそういう性格なのだ。


「おはよう、リーアちゃん。今日もかわいいね」

「あ、おはようございます」


 他の兵士から、社交辞令なのか口説きなのか判断のつかない一言を伴った挨拶をされる。

 最初の頃は、最後の蛇足にいちいち突っかかって、それが可愛いだなんだと評されていたのだが、指導役として何かと彼女の近くにいる堅物少佐に何か吹き込まれたのか、ここ最近は突っかかることは無くなっていた。……彼女は早くもスルースキルを会得してしまっていたらしい。

 先程声をかけた兵士は、「面白くないなぁ」とでも言いたげな表情を浮かべていた。


 そんな、いつも通りの挨拶を交わしていた時だった。


「ところでリーア。今晩の夜間巡視は俺らが当番だってこと、覚えてたか?」


 突然のジャックスからの一言に、彼女の蒼い左目がパチクリと見開かれる。


「……え? 明日の夜じゃありませんでしたっけ?」

「掲示板には今晩の当番、第七って書いてあるが」

「冗談ですよね?」

「俺が冗談を言ったことがあったか?」


 言われてすぐ、弾かれたように掲示板を見ると、確かに今晩の夜間巡視の当番は[第七中隊]と、はっきりされていた。端に同じく印刷された日付も今日のものだ。この隊のメンバーにはリーアとジャックスも含まれているが、本当に今晩は自分達が担当なようだ。記憶違いというものは実に恐ろしい。


「本当だ……」

「まぁそういうことだから、くれぐれも忘れるなよ。みたいな行動は取らないように」

「……はい」


 ジャックスは部下のやや戸惑い気味の返事を無表情で聞くと、書類をまとめて突っ込んだ鞄を抱えて、そのまま脇目も振らず退室してしまった。揺れる紫の三つ編みがドアの向こうに消えるのを見送った後、彼女は一人、はてと首を傾げる。


「昨日は第五(中隊)だったはずじゃあ……?」


 さっきからずっと引っかかっている違和感。もし彼女の昨日の記憶が確かならば、何故本来なら間にあるはずの第六中隊が抜けてしまっているのだろう。彼女の頭に浮かんだ一つのクエスチョンマークは、その後すぐに鳴った朝の召集ベルの音で、呆気なく引っ込んでいってしまった。



 陸軍と銘打ってはいるが、仕事内容は他国でいう警察のそれと遜色ない。カリト国内の警備、及び国境である城壁と関門の警備が、彼らの主な仕事だ。

 大戦時の代表的な存在であった戦車や戦闘機などは、今では殆どが既に廃棄処分され、一部倉庫内や各地駐在所に残されたそれらは、多くがイベント時にのみ日の目を見ることになっていた。


 昼間の巡視前。正面入口付近の広場に鎮座する、現存する数少ない国産の小型戦車を見て、リーアはあることを考えていた。今ではモニュメント的な存在と化したそれが、つい数十年前までは圧倒的な力を誇る殺戮兵器だった。こんな兵器が、残虐な理由では必要とされない時代、それ即ち。


「平和、かぁ」


 こんな鉄とオイルの塊が動かなくて済むのが、平和ということの何よりの証なのだと、いつだったか同じ隊の誰かが言っていた記憶がある。

 ……けれど、と彼女の中でまたもや疑問符が踊る。


「それって、本当なのかな?」


 今のこの国は、本当に平和なのだろうか。大戦の時ほどではないにしても、今の国内はあまり安定しているようには思えないのだが。

 そんな、自分で考えていても答えなど出ない問いかけを何度か繰り返していると、向こうの方から耳慣れた低い声が聞こえて来た。


「リーア、早く行くぞ」

「あ、はい」


 指導役と部下という関係上、二人は一緒に行動する機会が多い。そして然るべき時が来るまで、この関係は暫く続くこととなる。

 この二人の関係をとやかく言う者は、軍内部には誰一人としていない。あくまで仕事上の関係だからと皆割り切っているからなのか、それともまた別の理由があるのは定かではないにしろ……。そんな周りのささやかな配慮に心の中で感謝しつつ、彼女は風で乱れる長い前髪を整えながら、門前で待つ少佐の方へと駆けて行った。



 何気ない日常。いつも通りにこなす仕事。

 ずっと安定して続くと思っていたそんな日々が一転したのは、意外にも早く、その日の夜のことだった。

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