籐の武帝

 南方の勢力圏を籐に奪われた馬孫は、弁麗女王処刑後、東方や西方の勢力圏をも他の騎馬民に蚕食され始めた。最早彼女らに、往時の勢いは残されていなかった。そうして、処刑から四十年程で、馬孫は歴史の表舞台から姿を消すこととなる。

 劉雍は、最大の仇であった弁麗を処刑したことで、その内側で何かが切れてしまったのだろう。酒と少年に狂い、三年後に病を得て崩御した。子はなかった。馬孫の地では、彼の子を孕んだ女も何人かいたであろうが、少なくとも籐の後宮に、跡継ぎとなれる劉雍の子を産んだ者は一人もない。故に、彼の弟がその跡継ぎとなって即位した。劉雍は死後に、武帝、という名の諡号を送られた。

 新皇帝がまず真っ先に着手したのが、財政の再建である。度重なる戦争による戦費が財政を圧迫し、それを賄うためにかけた重税が、民に重く圧し掛かっていた。財政の立て直しを焦ることなく、まずは重税による民の流民化を防ぐために、税を軽くし、農村の復興に尽力した。また、宮廷内では奢侈を諫め、酒宴を減らし、倹約に努めた。増やし過ぎた軍馬についても、その一部を民間に売り払って保有頭数を減らし、これによって維持費を軽減し歳出を減らしたのである。幸い、先代が馬孫を討伐したことで武威が示され、騎馬民たちは籐を恐れて近づかなくなっていたのであるから、理に適った方策であった。

 さて、大司馬に昇った魏彪についてである。結論から言えば、彼は武帝、もとい劉雍の後を追った。劉雍の崩御から三日後、彼は自らの屋敷で、

「今すぐ、小臣わたくしもそちらへ向かいます」

 と言い、下僕たちの目の前で毒薬をあおり自害した。先帝の寵幸によって身を立て、軍権を一手に集めた彼が、そのことで次代の帝に睨まれて誅殺されることを恐れたのだ、という噂が流れた。何しろ、魏彪には霊帝を弑した罪がある。そのことを問えば、族滅にも処せられよう。だが、中には「先帝陛下と大司馬は夫婦めおとのように愛し合っていた。故に後を追ったのだ」と言う者もあった。武帝と魏彪の仲がただならぬものであることは漢安中の者の知る所となっていたし、そう言った解釈がなされることもまた、無理からぬことである。しかし、いずれにせよ言えるのは、死人に口なし、ということだ。本人がこの世の者でなくなってしまった今となっては、その真意は明かしようもないのであった。

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草原の厭夜 武州人也 @hagachi-hm

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