劉雍と魏彪

 劉雍は、鼻をつく焦げ臭い匂いで目を覚ました。

「……!」

 跳ね起きた劉雍は、すぐに何が起こったのかを理解した。

「火を放ったのか……」

 自分の穹廬が、燃えている。劉雍はすぐさま脱出した。そのまま寝ていたら、煙を吸い込んでいたかもしれない。

 外に出てみると、王庭にあった穹廬の、その殆どから黒煙が上がっていた。恐らく、馬孫は敗れたのだ。きっと女王とその配下は、この王庭を棄てて、もっと北の村落に逃れたのだ。

 ということは……

「籐軍が来る……」

 劉雍は南に向かって走った。煙を避けるように前かがみになりながら、必死に走った。籐軍に見つけてもらえば、自分は再び祖国の土を踏むことができる。この機会は逃せない。

 王庭を出ると、その視線の向こう側に騎兵の姿が見えた。その騎兵が帯甲していることから、籐兵であると分かった。

「僕だ! 籐国の皇子、劉雍だ!」

 劉雍は叫んだ。久しく使っていなかった籐の言葉を使って、声を振り絞った。叫ぶ劉雍の目には涙が溜まった。籐の言葉を自分が使っていることに、懐かしさを覚えたからだ。

 その言葉に気づいたか、一騎の騎兵がこちらへ近づいてきた。

「お前は……」

「ああ、皇子殿下……」

 劉雍の目の前の騎兵は、魏彪その人であった。浅黒い肌に、長い睫毛、端正な目鼻立ち。少しばかり背が伸びたこと以外、何も変わらない。

 天は、我に味方した。劉雍は咄嗟にそう思った。

「魏彪、僕に従ってくれるか」

「はっ、皇子殿下の仰せとあらば」

「それなら……」

 劉雍はそっと、魏彪に耳打ちした。


 周武亮と李慶の軍は、国都漢安の王城に戻っていた。女王を討ち取ることこそ叶わなかったものの、剽悍ひょうかんな侵略者たちを打ち破り、籐の北辺に接近していた王庭を棄てさせた功は、漢安中を湧かせているようだ。将兵たちは、拍手喝采を以て迎えられるであろう。

 だが、

「おかしい、魏彪の兵が消えた」

 魏彪麾下の騎兵千五百が、忽然と消えてしまったのだ。

「偵騎を出せ。周辺を探し回らせろ」

 周武亮は部下に命じた。脱走は重罪であり、可及的速やかに魏彪とその兵を捕らえねばならなくなった。しかし、考えてみれば妙だ。魏彪たちは罰を受けるどころか寧ろ武功に報いる恩賞を賜ってもいい立場であるのに、どうして脱走などしたのだろうか。不可解極まりない部下の暴挙に、周武亮は首を傾げた。

 昨晩、魏彪は馬にばいを噛ませ、こっそり味方の隊列を抜けて先行していた。

「明朝には突入できます」

「首尾よく行ったな。頼んだぞ、魏彪」

 劉雍は輜重しちょう車の中に隠れて、こっそり魏彪と共に移動していた。素直に戻る気など、劉雍にはさらさらなかった。年若いながらに、彼は狡知を働かせていたのである。


 明朝、魏彪とその一隊は、漢安の外壁の北側にある玄武門から、城内に突入した。

「進め! 」

 魏彪隊は抵抗らしい抵抗を受けないまま疾駆し、あっという間に宮殿の門を抜いて突入した。

「何だ貴様! 許可なく立ち入るとは斬刑に値するぞ!」

 下馬した魏彪隊の前に、衛兵が立ち塞がった。流石に異変に気づいたのだろう。だが、魏彪は物も言わずに衛兵を射殺した。この瞬間、魏彪隊は反逆者となった。

 衛兵の内の一人が、皇帝の元へ走った。

「反乱です! 陛下、今すぐお逃げください!」

「何だと!? どこの誰が……」

「不明ですが、我が軍の者かと……」

 いきなりのことで、衛兵側はろくな情報を掴めていなかった。一つ分かるのは、皇帝に弓引く者が、すでにこちらの懐深くにまで侵入してきており、事態は急を要するということである。

「お覚悟!」

 その言葉を聞いた皇帝は、時すでに遅し、ということを悟った。

「何故、ちんに弓を引く」

 皇帝は反乱軍の兵士に問いかけた。だが、兵士は答えない。

「放て!」

 その後方にいる、褐色肌の少年の号令を合図に、矢が皇帝の玉体ぎょくたいを貫いた。皇帝はそのまま床に伏して事切れた。あまりにも呆気ない、最高権力者の最後であった。

「やった……やったぞ!」

 その後方の、色白の美少年、劉雍はほくそ笑んだ。見開かれたその目はぎらぎらとした光を放ち、口角は目いっぱい吊り上っていた。


 こうして、兄を倒した劉雍は、籐の七代目の皇帝として新しく即位した。兄である先帝には、霊帝れいていという諡号しごうが送られた。

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