騎射の名人・魏彪

 籐の副都、成梁せいりょう。その郊外の練兵場では、騎射の訓練が行われていた。

 籐軍の上将軍じょうしょうぐん周武亮しゅうぶりょうは、騎兵たちの騎射の様子をじっと観察していた。この周武亮という男、元服してより戦いに身を投じ、数々の武功を挙げて出世を重ねた歴戦の将である。齢も六十を過ぎたこの白髪の武将は、今なお軍の第一人者であり続けている。

 彼は、皇帝より命じられていた。

「馬孫を滅ぼす、強い軍を作れ」

 それは、殆ど無理な注文であった。軍の主力が徴発された農民兵である籐に対して、馬孫はその女たちの全てが幼い頃より馬に乗り弓を引いて暮らしてきた生粋の戦士なのである。動員できる兵力は籐の方が多いとは言っても、兵の質で大きく後れを取っている。

 籐と馬孫は和議を結んでいるが、それでも、比較的小規模な集団が籐の北辺に侵入しては略奪を働くようなことは止まなかった。籐の方はそれに対して受動的に迎撃するしかないのであるが、それでも馬孫の兵は強い。北辺の吏は殺され、人民は掠められ、家畜が劫掠される。北辺に駐屯する地方軍の将たちにも、彼女らの凶矢の前にたおれた者は少なくない。

 先代の帝はこのような状況を嘆き、雌伏しつつも密かに馬孫に対する反撃の機を窺っていた。軍馬を育て、騎兵部隊を増設し、さらに密偵を繁く放って情報を集めた。その路線を、今上皇帝も引き継いだ。

 確かに、馬孫を滅ぼす強い軍を作れ、などというのは至極困難な命令である。だが、見込みのある者は確かにいた。

魏彪ぎひょう

「はっ」

 周武亮に呼ばれて参じたのは、褐色の肌をした少年であった。

 今年で十五になるこの少年、魏彪は、放牧を営む一家に生まれ、北辺の城塞外の農村で暮らしていた。幼い頃から北辺の騎馬民と交わり、弓馬の術に通じていたこの少年は、先代帝の北部行幸の際に、それに随行していた皇子劉雍の目に留まり、その近侍の武官として取り立てられた。劉雍が馬孫に送られる、その一年のことである。劉雍が馬孫へ送られて以降は、校尉として騎兵二千を率いる立場になったのである。

 彼は並外れた騎射の腕を持ち、若いながら他の士たちにも慕われていた。その武技もさることながら、彼の持つ異国風の美貌は、人々の目を引かずにはおれなかった。魏彪の母親は越安えつあんという南方の部族の出身らしく、彼の浅黒い肌はその血に由来するものである。

「また腕を上げたな。其方そなたには期待しているぞ」

「必ずや、夷狄どもを倒して見せましょう」

 褐色肌の少年の双眸は、自信に満ち溢れていた。


 穹廬の中で、劉雍は一人の少年のことを考えていた。

「魏彪……助けに来てくれ……」

 農村の牧人の息子に過ぎなかった魏彪を取り立てたのは、この劉雍である。まだ年若いのにも関わらず騎射の名人として名を馳せていた魏彪に興味を持った劉雍は、自らの所へ彼を召し出した。彼の麗しい容貌と、華麗ながら勇壮な騎射姿に、劉雍は大いに惚れ込み、彼を近侍として仕えさせたのである。

 魏彪なら、馬孫を討伐して、自分を助けてくれる。劉雍はそう信じていた。そう信じていなければ、心を保てなかった。

 王庭は、今までにない程に南に移動しており、籐の北辺に接近している。それ自体が、馬孫の籐に対する驕慢を現わしていた。これは、劉雍にとっては絶好の状況であった。籐が和議を破って攻めに転じるのであれば、王庭が籐の北辺に近づいている今しかない。偽りの平和なんか、壊れてしまえばいい。劉雍はそう考えていた。平和のための犠牲に選ばれた身であるからこそ、導き出すことのできた考えであった。もしそうなれば、和議を破った怒りから、自分は馬孫に殺される可能性もある。でも、このような日々から逃れられるのであれば、それでも良い、とも思った。とにかく、この現状を何としても打ち破りたい。そう劉雍は願っていた。

 しばしば、劉雍は自らの心を慰撫するために、空想に耽っていた。先程自分を辱めた女が、王庭に攻め込んできた魏彪の矢によって貫かれる様を想像しては、密かに顔を綻ばせた。そうだ、皆死んでしまえばいい。自分を玩具にしたこの者共など、皆魏彪が殺してくれればいい。そのような甘美な空想を、穹廬に踏み込む足音が中断した。

「何だ、お前。気色の悪い笑顔を浮かべて」

 入ってきたのは、名目上、伴侶ということになっている弁麗であった。劉雍の表情は、途端に強張った。まるで蛇に睨まれた蛙である。

 弁麗は無言で劉雍の胸倉を掴むと、寝台の上に放り投げた。

「お前たちは我々を野蛮だと言うがな、これが現状だ。いくら我々を蔑んだとて、お前たちは敗者で弱者だ」

 言いながら、弁麗は氷の如き冷たい眼で劉雍を見下ろした。劉雍は何も言い返さなかった。悔しいが、その通りだ。少なくとも、今の内は。その劉雍の頬に、弁麗の平手が飛んできた。

「お前、目が反抗的だな。教育せねばなるまい」

 弁麗は、鞭を掴み取った。劉雍はほぼ反射的に後ずさったが、この狭い穹廬に、逃げ場などあるはずもない。

 空気を切り裂きながら、劉雍の白い肌に鞭が飛んできた。

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