第7話 成長のとき
「久しぶりだな。堅苦しいのは嫌いだ」
男の書斎だと思われる部屋で、テンはソファに無理やり座らされていた。
「俺の名前を呼んだんだ。覚えているんだろ?」
「でも……」
覚えているのはコガイという名前。しかしこの屋敷内でその名前を口にすることは許されず、また彼はその名前で呼ばれてはいないのだと学んだばかりだ。
「俺の本当の名前はイペック。イペック=ハウ=シルキーだ。コガイはもう滅びた親族の名で、この家の汚点だと思ってくれりゃいいさ」
イペック。新しく紹介されたその名前を頭の中で繰り返すが、一向になじむ様子はない。広大な屋敷の中で高価そうな服を身にまとった、不器用な笑みを浮かべた男はイペックで、裏路地で共に過ごしてきた、自由を謳歌するような男はコガイ。たとえそれが同一人物であっても、コインに表と裏があるように、その二つの名前は背中を合わせた全く異なる側面を示す。決して混じり合うことのない側面に、慣れることなどあるのだろうか
「汚点だから、口に出したら怒鳴られるってぇことだ」
「どうして……」
テンの言葉にイペックの眉がピクリと動く。最初から本当の名前を教えてくれれば、こんな状況にならずに済んだ。少なくともその名前でなければ、旦那様が怒ることはなかったはずだ。
「詳しくはまだ言えねぇ……。だが本名を伝えなかったのは俺のためで、お前に関わってほしくなかったからだ」
テンが楽しく過ごしてきた日常は、共に過ごした相手と共有できてはいなかったということか。淡々と話す男はイペックという姿が本物であり、コガイという作り物の人形にテンは踊らされてきたということか。
裏路地でコガイと話すとき、テンはいつも男のことを信じてはいないと告げていた。それはそのまま言葉の通り、他人を簡単に信用していたら路地裏では生きていられないからだ。しかしその言葉が本心とは違っていたと、今になって気付かされた。心の中では信用していた。でもそれでは生きていけないからごまかすように、自分に言い聞かせるように、口に出すことであたかも自分がそう思っているかのように振舞った。
「…………」
重苦しい空気が二人の間を流れた。もう以前ように話すことはできない。二人とも、その当時とはあまりにも変わってしまった。
「驚いたな、まさか処刑されることになっているとは思ってもいなかった。この姿で会ったのはあれが初めてだったが、覚えてるか?」
「……いえ」
男の今の姿を見たのは、今日が初めてだ。処刑されるような状況だったことさえも、
「そうか……。いや、覚えていないのならそのままが良いだろう。苦しかったことは忘れておけ」
苦しかったのだろう。だから覚えていられなかったのだろう。それでも痛みが消えることはないし、自分の意思でなかったことになんてできない。知らない現実がそこにあるという事実が嫌に気持ち悪いというのに、思い出せないことにほっとしている。
話し相手がコガイだったなら、こんなことを言ったのだろうか。裏路地に住んでいたテンだったなら、その言葉を受け入れられたのだろうか。変わってしまった現状に心が締め付けられるように感じたのに、疲弊から回復できない頭ではその感覚さえも掴めなかった。
「体調はどうだ? 体が重かったりしていないか?」
「そんなの……もう分からない……」
テンはうつむいたまま、その顔を上げることができなかった。細くなった腕に浮き出るような頬骨。風が吹けば飛ばされてしまいそうな脆弱な体は、逆に体調が悪くないときがないように見える。
路地裏で頂点に立てるほどの体力を持っていた体が、ここに至るまでたった一年。その一年でどれほどの苦しみを味わったのか。その原因が誰にあるのか。
「少しでもおかしいと感じたら、誰かに必ず伝えるように」
イペックはそう答えることしかできなかった。一言でも漏らしてしまえば、全て話してしまいそうになる。テン自身が知っておくべきことも、その口から出ることはなかった。
再び訪れた沈黙を破ったのはイペックでもテンでもなく、叩かれた扉の音だった。
「どうぞ」
「失礼いたします。ターリマットという方がお越しですが、いかがされますか」
部屋に顔を出したのは先輩だった。テンの姿を確認したところで、その様子は変わらない。
「私の仕事相手の方です。こちらまでお連れしてください」
「承知いたしました」
「それからテンとの話も済みましたので、彼のことも。……くれぐれも、お願いしますね」
「存じております。では、ついてきてください」
不格好な笑みを浮かべたイペックに一礼し、テンは先輩に続いて部屋を後にした。そこにコガイという男の面影は一片も残っていない。
あの日以来、屋敷でイペックを見かけることはなかった。
「この屋敷について教えられることはほとんどないから、私以外の人間には基本発言をせずに過ごしてくれればいいかな」
テンにはイペックのことだけでなく、この屋敷のことについても知ることが許されなかった。テンは所詮、屋敷にとって部外者の厄介者でしかなく、その存在自体求められていない。そんな人間が屋敷内にいることを認める代わり、彼にできたのは黙って指示に従うだけの操り人形だった。
「生きているだけでもありがたく思うように」
現実を覆す力のないテンは口を閉じ、流れに身を任せるだけ。旦那様の言葉に、間違いなどなかった。毎日与えられた仕事をこなし、すり減っていた体力を取り戻す。少しずつ精神にも余裕が出てきたところで、考えることなど一つもない。
変わらない日々の中で健全に戻りつつある日常は、歪んだ視界と頭の痛みで瞬く間に崩れ去った。屋敷に来て一年後。テンは高熱を出して倒れた。
ユラユラと
体が熱いのか冷たいのか分からない。何もしていないのに勝手に震え出す。頭の奥ではギーギーと甲高い音が鳴り響いて、捻じ切られているかのようにその中身を潰していった。いくら酸素を取り込んでも息苦しさが紛れることはなく、口を大きく開ければ胸の内側から刺すような痛みが貫く。
頭が痛い。首が痛い。肩が痛い。胸が痛い。肘も膝も痛ければ、手首も足首も痛かった。視覚も聴覚も嗅覚も、全ての感覚が狂っている。地面に寝そべっていると思えば見えない床の上に二本足で立っているような感覚になり、次の瞬間には天井に張り付いて落ちれずにいるように感じた。
ここはどこで自分が一体何をしているのか。生きているのか死んでいるのかすら曖昧な空間で一人、とてつもなく長い期間にわたって閉じこもっていると、その僅かな感覚も研ぎ澄まされる。
一人の世界を、その壁一つ隔てた場所から見守ってくれている人影があった。時折感じていた気配は日に日に大きくなっていって、手の届きそうなほど壁が薄くなった時、一筋の光が零れ落ちてきた。
「……い」
先輩。乾いた喉は言葉を紡がず、ただその破られた壁から伸びた手が、優しく頭を包み込んでくれた。
「おかえり」
音のない声が、そう言ってくれた気がする。
テンが熱を出して目覚めるまで、五年もの時が過ぎていた。
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