第2章 羽ばたきの準備

第6話 新しい場所

 テンが目覚めを自覚したのは、とある屋敷の一室だった。豪華なベッドは不安定で頼りなく、引きずるように這い出た体を床に下ろした。

 常に訴えられていた痛みはどこかは消え、無理しなければ苦しみも感じなかった。しかしその当時の記憶は曖昧で、思い出そうとすれば反射的に体が震える。自分の置かれた状況も、ここに至った経緯さえも分からない。弱った思考力の中、テンはひたすら自らの体を抱いていた。


「目を覚まされましたか」


 大きな扉から現れたのは一人の女性。一切音を立てず、声をかけられるまでその気配に気付かなかった。


「……力を抜かれて、お休みになられてください」


 給仕姿の女性がため息を隠す様子はなく、面倒事が増えたと言わんばかりのしかめ面でテンの元へと近づいた。床に足をつけるために体力の全てを使い果たしてしまったテンに、その場から動く力はない。彼女にされるがままその体は軽々と持ち上げられ、ベッドの上に横たえられた。


「旦那様を呼んでまいります。お休みになられてお待ち下さい」


 にこやかな笑みは、業務のために作られたもの。そこには何ら感情はなく、意思の読み取れない瞳は不気味だった。



「名は?」


「……テン」


 旦那様と呼ばれた男は不機嫌な様子で現れた。誰がどう見ても、テンはこの屋敷ではた迷惑な厄介者として扱われている。それを本人が理解できたところで、何か動けるほどの体力も気力も残ってはいない。


「歳は?」


「分かりません……」


「大体でも構わない」


「…………」


「……では出身は?」


「…………」


 それが存在することは諦め、男は新たな情報を得ようとしたが、テン自身知らないことのほうが多かった。何も進展がない会話に、男の不機嫌さは呆れへと変わっていく。


「今は休むように。動けるようになったらここで働かせてやる。拒否権はなしだ」


 男は頭を抱えるように部屋を出ていった。彼が望んでいることも、自分がこれから何をするかも分からない。ほんの短い会話をしただけで疲れてしまったテンの頭は、その意識を闇の中へと引き込んだ。



「そっちの窓ふきを頼む。怪我しないようにな」


「はい」


 目を覚まして二週間ほど、管理された食事と小さな運動を重ねてようやく、テンはまともに動けるようになった。屋敷で雇われることになって、最初に習ったのは掃除だった。特別な知識や繊細な作業は避けて、掃除の中でも貴重品のない場所を担当する。

 窓を拭き、台を拭く。空気を入れ替え、花を入れ替える。シーツやカーペットを整えれば、ほんの少しのごみが集まるだけで、見た目のほぼ変わらない掃除が終わる。


「この建物から外に出てはならない。外の者の目に触れさせるな。どうせろくに働くこともできないのだろうが、監視をするにはちょうどいいだろう」


 テンの目の前で隠す気もなく交わされた旦那様と先輩の会話は、そのままテンに対する憎しみや鬱陶しさを表していた。テンが受けた指示は、旦那様を旦那様と呼び、先輩たちを先輩と呼ぶこと。それ以外は先輩に従えというもので、旦那様はテンと関わること自体を嫌っているようだった。


「テン、具合は悪くないか?」


 シーツのしわを伸ばし、ベッドを整える先輩が聞いた。


「はい。特に痛みはありません」


 テンと関わってくれる人間は、屋敷の使用人であってもその先輩だけ。他は旦那様と同じでテンを見るなり顔をしかめるから、テンの監視役になれるのは彼だけだった。


「何かあったらすぐに伝えて」


「はい」


 ベッドメイキングも終えた先輩は、手持ち無沙汰にテンが窓を拭く様子を眺めていた。テンが一つの窓を拭き終えるまでに、彼はそれ以外の作業をすべてこなしていた。何部屋も存在する屋敷で、一部屋一部屋にそう時間をかけてはいられない。名目上は手伝いであるが、テンが役に立っていることは一つもなかった。


「終わりました」


「……問題ないね。本当に体調悪くない?」


「はい」


 先輩が何度もテンの体調を気遣うのは、単に優しさや心配から来るものではない。旦那様がそう指示を付け加えたからだ。ただただテンの存在を迷惑に思っている旦那様がそんな指示を出した。その裏に何があるかなど、テンがいくら考えても分かりはしなかった。


「次の部屋へ移動しよう」


 先輩は道具を片手に抱え、すぐに部屋を出ていった。病み上がりで体力の少ないテンのために、残された道具はほんの少しだけ。その心配りを不思議に思いながら、テンは道具を持って先輩の後を追いかけた。

 廊下で何人かの使用人とすれ違ったが、テンはその全ての人に睨まれた。誰もがテンを嫌い、その存在を疎ましく思っている。路地裏で飽きるほど見てきた瞳と、ここで見かける瞳に違いなどなかった。


「あいつは何者なんだ!」


 旦那様の声が廊下に響いた。誰かと言い争いをしているらしいが、その姿は見えない。たとえ姿が見えたとしても、厄介者として扱われているテンには関係のないことだった。


「お前はいつも何をしているんだ。シルキー家の者としての自覚を持ったらどうなんだ!」


「すみませんが、お父様にお伝えできることは何もありません。すぐに出ていきますので」


 その声はテンたちの方向へと近づいていた。ほんの短い間しか付き合いがなかったとしても、その声を忘れることはない。部屋へと入る先輩を無視して、テンは廊下でその声の人物が現れるのを待った。



 旦那様と共に廊下の角から現れた姿は、テンの記憶と異なっていた。


「何をしている。監視の者はどうした」


 怒鳴りつける相手を変えた旦那様が、声を抑えつつ大股でテンに近づいた。その強烈な存在感は部屋で掃除を始めようとしていた先輩を呼び戻し、その失態を自主的に謝罪させる。


「そう怒る必要はないでしょう。彼らは罪を冒しているわけではないのですから」


「誰のせいだと……」


 旦那様の後ろから現れた男に、彼は再び怒りの矛先を戻した。それは今までテンが受けてきた憎しみとは比べ物にならないほどの感情が込められているようで、取り繕おうとしている様子もむなしく、その声色は空気を震わせた。


「元気そうでよかった」


 テンと先輩を鳥肌立たせる旦那様の怒りを気にも留めず、男はテンと先輩に向き直った。その声は、テンの記憶に残っていたものと同じ。あの人とは醸し出す空気もその態度も全く異なるが、整えた姿にはどこか面影が残っている。


「コガイ……?」


 久々に口にする名前。懐かしい響きに、当時のありのままな自分を思い出した。毎日悪を屠っては手に入れた食糧でお腹を満たした。特に話をするわけでもないのに離れることはなくて、二人で路地裏の頂点に立った。

 特別なことは何もないのに、なぜか楽しかった日々。テンのそばにいてくれた男を指し示す名前を告げた途端、テンの頭は床へと押し下げられていた。


「申し訳ございません!」


 先輩が大きな声を上げ、強い力で頭が床へと引き寄せられる。膝を折り、旦那様へと弱点を差し出すようなその姿勢は決して心地良いものではない。しかしその手を押し返すこともできず、テンはただ旦那様の前にひれ伏すことしかできなかった。


「申し訳ございません。後ほど教育いたしますので、今の発言はどうかご許し下さい」


 テンが何か間違ったことを言っただろうか。コガイという名を、この場で口にしただけではないか。先輩がどうしてそこまで必死になるのか、旦那様とその名前に何の関係があるというのか。どうしても理解ができなかったテンは、助けを求めるように男へと視線を向けようとしたが、彼が動く様子はない。


「無知を許したのは私だ。……今回は何も聞かなかった」


 テンがいる場所は貴族の住む表の世界の屋敷の中だというのに、これでは裏路地と変わらない。思い通りにいかないこと、自分の得になることがあれば力を持って抑圧する。相手がどんな状況に追い込まれようとも、そこに何ら問題が生じることはないのだ。


「イペック。こいつをここに置きたいのなら詳しく話せ。いい加減お前も大人になるんだ」


「お父様に話すことは何もありません」


「なんだと」


 イペック。コガイだと思っていた人物はそう呼ばれて返事をした。テンがコガイのことを間違えたはずがなかった。だが彼はコガイという名前に反応してくれなかった。


「お父様はテンを無下にはできませんよね。それで充分です」


 旦那様は歯ぎしりをし、男に言葉を返さない。テンのことを知っているような口を利くのに、彼はコガイではないらしい。ならば一体誰だというのだろうか。


「すみませんが、テンを少し借りますね」


 誰とも知らない男に腕を引き上げられ、テンはその重苦しい空気を振り切るように、男に連れられるままその場を後にした。

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