第5話 お迎え
(もう何も話すことはない。これ以上何も知らないんだ)
心の声を聞いてくれる者はいなかった。一方的に傷つけられた体は、もう悲鳴を上げることができない。消えかけの自我を捨てることはできず、テンは意義もなく存在するだけの人形と化していた。
「処刑の時間だ。出ろ」
それはテンに残された最後の光。何ヶ月も続いた地獄のような世界が、終わりを告げる唯一の希望だった。
埃にまみれ、自らの血の匂いでひん曲がった嗅覚。痛みから逸らした視界は、真っ黒な血に染められた石畳の床を歪ませる。冷えた体を飲み込む透明な泥は音を遮断し、甲高い耳鳴りが思考を埋める。
引きずられるようにして連れていかれた外の世界は、まるで天国のように明るく温かかった。透き通った空気はむせ返るほど軽く、肺に針を刺したかのような痛みが走る。眩い光は涙を溢れさせ、クラクラと三半規管を揺さぶった。風の音が草木の存在を伝え、喧騒による鼓膜の震えが血流として体中を駆け巡った。
(綺麗だ……)
テンが見るはずのなかった明るい世界。それは裏の世界との境界にある、表の世界の端の端。少し高い台の上へと連れてこられたテンは、集まっていた群衆の頭上ではにかんだ。
ぼんやりとした思考は現実を解すことはできず、痛覚を痛みとして受け取ることもなかった。その様子を見つめる一人の男のことも、その視界には入らない。
「一体何をしている」
それはテンが処刑台の上に連れてこられて間も無いときだった。表の世界にしては栄華の欠ける小さな広場で、集まった群衆から声が上がった。
処刑を待ちわびる人間の欲望に横槍を入れた声は、その騒がしさをいとも簡単に鎮める。
「何者だ」
「イペック=ハウ=シルキー」
そう名乗り出た男が、処刑台の前へと進む。深い紫色の長髪を後ろに束ね、上質な服を身にまとう。身に付けているものやその仕草、さらに加えればその家名まで。この場に似つかわしくない人物に、集まっていた人たちは動揺を隠せない。
「これはっ、……シルキー家の方でいらっしゃいますか?」
「他に誰がいるというのか」
シルキーはこの国で有名な貴族の名だ。それも騎士団に所属することでどうにか地位を保っているような、落ちぶれかけの貴族ではない。
代々、王家専属の医師という役割を担い、医療に関してはこの国で右に出るものがいない。また騎士としての才能にも恵まれ、国防に関しては二番手の地位を誇る。シルキー家とは、そのような血を受け継ぎ、国家への多大な影響力を持つ一族だった。
「申し訳ございません」
処刑台に立っていた二人の騎士団員が膝をついた。この国で騎士団はある程度高い地位を認められているとはいえ、よっぽど高い階級に所属していない限りは、シルキー家の発言に口を挟める立場ではない。
「失礼ですが、シルキー家の方がこのような場所に足を運ぶなど、一体どのようなご用件でしょうか」
悪に染まった裏の世界にもそれぞれの縄張りや特色があるように、表の世界もいくつかの区域に分類することができる。
一つはこの国の王家の象徴たる城。そしてその周囲を固めるように建つ貴族の豪邸。貴族のランクに従い、城から遠ざかるにつれてそれは一般国民の住居へと変化していく。
シルキー家にもなれば、その住居は王城の堀に沿うように建つ。現在イペックが訪れているような表の世界の末端になど、足を踏み入れること自体皆無に等しいのだ。そのようなあり得ない出来事が起きてしまった今、広場全体が処刑台であるかのような想像以上の緊張感が、広場を訪れた人たちに襲いかかっていた。
「ただの人探しだ。それとも、私がここにいてはいけない理由があるのか」
「いえっ、滅相もございません」
騎士団の二人はより一層礼を尽くして頭を下げる。それでも高台に乗った状態ではイペックよりも頭が高くなってしまうが、緊張で周囲が見えない二人にはそれを気にする余裕さえない。
「それで、私は何をしているのかと聞いているのだが」
イペックは腕を組み、睨むような視線を送る。大勢の人間の中で際立ったその存在一つで、広場の空気は凍てついた。
「この者には昨日、エンティル家の屋敷を燃やしたという疑いがあり、本日十二時をもって処刑するという判断が下されました」
「ほう。それはそこに立っている銀髪の若者のことを言っているのか?」
「はい」
騎士団員の返事は自信に満ち溢れていた。まだ若く新人なのだろう。上からの指示は絶対であり、そこに間違いはないと信じきった目をしている。そしてそれに呆れるように、イペックもまた笑っていた。
「その者は私の使用人であり、昨日は屋敷で私の仕事を手伝っていたと言ってもか?」
たった一言。返事を聞いて呆けていた顔は、何を言われたのか理解して急激にその色を失う。集まっていた人間たちは顔を隠し、そそくさとこの場を後にする。彼らはシルキー家の使用人を確認もなく処刑しようとした。加えてさらし者として、その死にざまを蔑もうとした。その人間の醜さは、足元に置き去りにされた大量の石が物語っている。
広場に残ったのはイペックのと二人の騎士団員。そして身じろぎすることも表情を変えることもなく、前を向いたまま立ち尽くしているテンだけ。
「昨日の今日で調査が終わり、尚且つその犯罪者として私の使用人を吊るし上げるのか?」
「…………」
テンの身柄は随分と前に騎士団へと渡っていたから、イペックが嘘をついていることは騎士団に所属する二人にはすぐにバレた。しかしバレたところで、二人には指摘することができない。大半が貴族の者で構成されている騎士団にとって、地位の高い貴族にたてつくということは、自ら退団することを志願しているに等しい。それを理解できないほどの二人ではなく、イペックもそれを承知していたからこそ、すべての言葉を堂々と宣言した。
「特に発言がないのであれば、使用人を連れて帰りますが。ここにはそれ以外に用がありませんので」
イペックは騎士団員の返事を聞く前に、テンの手を引いて台から下ろした。その体に以前の面影はなく、病人のように軽く細い。また痛々しい傷が新たに刻まれ、虚ろな瞳にはイペックの姿は映されていない。
イペックが騎士団員を睨む。返事もせず固まっていた二人はその急激な雰囲気の変化に腰を抜かし、ただ頷くことしかできなかった。
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