第3話 テンの行く先


「ドッツ!」


「僕のことはいいから。ミルベリ……テンをお願い!」


 大きな背中が一つ消えた。


「テン、そのまま走って!」


「でも……」


「大丈夫。だから、振り返らないで……」


 もう一つの背中も消えた。

 小さな手から、温かなものは流れ落ちていく。いくら隙間を埋めようとしても、手の中に残るものはない。子供の手では拾い上げられるものも限られるというのに、自分の居場所でさえ守ることができなかった。


「守れた……の……かな……」


 最後に見た背中は、随分と大きなものだった。何年も時が過ぎて、少し大きくなった手だから掬い上げたものを保つことができたのかもしれない。見送られる側から見送る側に。それはもう見送られることが嫌で、反射的に体が動いた結果だ。

 大きな背中を蹴り飛ばして、勢いをつければ遠くまで走ってくれるだろう。手の届かない場所まで行ってくれれば、零れ落ちる様子を見なくて済む。テンはその先を見ることができないまま、瞼がゆっくり下ろされた。



 目を覚ましたのは冷たい石畳の上。薄暗い部屋で両腕は後ろ手に縛られ、足枷に連なる鎖は壁に繋がっている。あの集団から逃げる際に、轟音と明滅の中でコガイの後ろ姿を見ていたことまでは覚えている。


「お目覚めですか? 銀色の狼さん」


 しわひとつない礼服に身を包んで、男は部屋の入り口近くでテンを見下ろしていた。


「あの男と結託するとは、無知なだけに余計にかわいそうですね。ですがこれも仕事ですから、いくら後悔してももう遅いのですよ」


 男が白い歯を見せる。それは憐れみを通り越して、愉悦に浸っているような幸福な笑みだった。

 テンがその姿に動じることはなかった。裏路地を生き抜いてきたテンにとって、その男は脅威に値しない。拘束さえ解くことができれば、この場から逃げ出すことなど容易なことだった。


「連れていきなさい」


 しかし、その男はまだテンが出会ったことのない部類の人間だった。男が右手を上げるだけで、ガタイのいい二人の男が部屋に入ってくる。その二人は男の指示に耳を傾け、その内容を忠実に行動に移した。

 テンに近寄って髪を鷲掴み、乱暴に担ぎ上げて別の部屋に連れて行く。その行動の合間に抵抗する隙は無く、全ては男の思うままに進んでいった。


「まずはあなたのことから伺いましょうか」


 むせ返るような異臭が漂う部屋。椅子に縛り付けられた状態のテンの正面に、その男は優雅に座る。この場に留まるだけでも気分が悪くなるというのに、その男は微笑みを浮かべてテンを見つめていた。



 五枚の爪を剥がされ、三回ほど胃液を吐いた。


「結局分かったのはテンという名前だけ。あなた、自分のことを何も知らないのですね」


 テンが連れていかれたのは、拷問が行われる部屋。むせ返る臭いは人間の血や汗や臓物から生じるものだけではなく、事切れた亡骸を放置していたものまで含まれているようだった。その証拠に床や壁に染み付いた跡は薄れず、まだ新しそうなものには大量のハエがたかっている。


「こんなにもかわいそうな子供が生きているとは。あなたが生きている意味などあるのでしょうか? まあ今は、私どもがあなたを必要としてはいますがね」


 生きている意味など、考えたこともない。生きることは当たり前のこと。生きることが目的で、それに必要なものを手に入れてきた。その最たるものが力であり、自分の情報など何の価値もない。価値のないものにまで手を伸ばして生きていけるほど、裏路地は優しい世界ではない。


「本当に何も知らないのですね?」


 その言葉にテンは頷くことしかできない。争いのために生じる痛みであれば、テンもいくらか耐えられたのだろう。しかし目の前のさげすみや愉悦からくる一方的な苦しみに、その精神は簡単に崩壊していった。


「では次は、一緒にいた男のことについて教えていただけますか」


 口角を上げ、細められた目の奥に鋭い光が灯る。男の愉快そうな表情を見ただけで、テンの体は小刻みに震え、心の奥底から恐怖心が沸き上がっていった。躾の行き届いた体は、もう主人に逆らうことができない。


「コガイ……。悪で満ちた社会に……さっ、最低限のルールを整えようと……してる」


 震えた声は、聞き取ることがやっとな程の言葉を紡いだ。それはテンがコガイと共に過ごしてきた中で、珍しく尋ねた質問の答えだった。


「それで、どうしてあなたと一緒にいるのでしょうか?」


「髪……。僕の髪色に、きっ興味を……持ったから」


「こんな病弱そうな髪にですか?」


 それはコガイの口からこの言葉を聞いたときに、テンも思ったことだった。


「一部の人間には高く売れるのかもしれませんが……。それは嘘でしょうね」


 嘘だと断言されたところで、テンに返せる言葉はない。何も知らず、尋ねてもこなかった。生きるために必要のないことだから、他人のことを理解していなくとも、何も問題など生じるはずがなかった。


「……まあ、いいでしょう。爪を一枚」


「ごめんなさい! 本当に知らないんです。これ以上はっ、嫌だ!」


 テンは生まれて初めて、その男に負けを認め泣き喚いた。ただどんな懇願でさえも、男を喜ばせることしかできなかった。痛みを耐え忍ぶのであれば、何事もなく業務を続ける。痛みに耐えかねて許しを請うのであれば、より一層痛みを与え、被虐に苦しみ精神を壊す瞬間を見届ける。それが男の癖なのだから。

 控えていた男の一人が、叫び声をあげ拘束の中で暴れ狂うテンを余所に、残された爪の一枚にペンチを引っ掛ける。痛みを覚悟したテンがもたらした突然の静けさに、男は笑顔を隠せない。涙で無限に溢れ、しゃっくりを上げるテンの指を抑えて、ペンチを持った男はその腕を勢いよく振り切った。


「っ――――!」


 断末魔のような声が上がる。流れる涙に鼻水が混じり、口からは落ちるよだれが糸を引く。全身から汗が噴き出して、胃からこみ上げた何かは喉を荒らしながら表に現れる。痛みは末端の神経まで行き届いて、目の前がチカチカと点滅を続ける。テンは息も絶え絶えに、ぼやけた視界の中で意識だけはっきりと保った。


「痛いのは嫌いですよね。どうすれば良いか分かるでしょう? 次はあなたたちの後ろに付いている人物についてですよ」


「うし……ろ……?」


「はい」


 男は表情を変えずに笑っていた。


「知らない。……そんなこと、僕は何も知らない」


「ご冗談を」


 それからテンの叫び声が止まることはなかった。男はその全てを無理やり抉り出すかのように、その魂へ破壊の限りを尽くした。

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