第20話 お帰り

 一歩二歩と座敷ざしきに近付く。


 やつとの距離は、目測もくそくでおよそ五メートル。後十度、俺が足を前に出せば、その距離はほとんどゼロになる。

 一、二、三、四、五、六、七……。


「なんで来たんですか」


 距離がまり、もうほんの少しで手が届きそうという所で、背中をこちらに向けたままの座敷から俺に対して声が掛かる。


 足を止め、考える。


 なんで? 改めて考えると、俺はなぜここに来たのだろう?


 そもそもここがどういう所なのか俺が知ったのは、本当についさっきで、そういう意味では俺はここに来ようと思ってきたわけではない。 

 では、なぜ俺は、今ここにいるのだろう?


「座敷を助けたかったから? かな」


 考え、考え抜いた末に出た結論は、そんなとてもシンプルものだった。


「私は別に! ……そんな事望んでいません」

「あぁ。だからこれは、俺の自己満足で、座敷にとってはただのお節介なのかもしれない。けど俺は、それでも、お前が困ってると思ったら手を差し伸べるし、悩み事があるならお前が話したくなるまで隣でずっと待ち続ける」

「なんでそこまで構うんですか」

「言っただろ。俺の自己満足だって。俺がそうしないと気持ち悪いからそうする。ただそれだけだ」

「なっ……」


 驚きの声をげ、座敷が振り返る。


「やっとこっち向いたな」

「まさか、そのために?」

「さぁー。どうだろうな。どちらにしろ、今俺が言った事にうそは一つもないし、これからもそのスタンスは変えないし、変えるつもりもない」


 ああ言えば座敷が振り向くだろうという打算がなかったわけではない。けど、だからと言って、先程の俺の台詞せりふが全くの演技がかというとそうでもなかった。どちらも本当で、どちらも真実だ。


「……遼一りょういちさんは、本当の私を知らないからそんな事が言えるんですよ」

「じゃあ、お前の言う本当のお前って、なんなの? 一体」


 俺の問い掛けに対し、座敷は一度呼吸を整え、口を開いた。


「私は日高ひだかさんが嫌いです」

「え……?」


 桜子さくらこが嫌い? なんで?


「日高さんは優しくて、可愛くて、いい人で、その上、責任感が強く、真っぐした芯が一本通っている人で……」

「えーっと、それは……」


 め言葉だよな、全部。


「はい。だから、私は日高さんが嫌いです。そんな素敵過ぎる女性に、私なんかが勝てるはずありませんから」


 勝てる?


「お前、一体、なんの話をして……」


 ジジ……。


 どこからかまるで、小さな羽虫が電灯に当たって熱せられたような異質で嫌な音が聞こえた。


「――っ」


 右目をつむり、かすかに痛む頭を押さえる。


 ジジジ……。


 なんだ、この音。それに視界が……。


 揺れる。かすむ。ぶれる。にじむ。

 目の前の景色が、電波障害に合うテレビのようにゆがみ、座敷の姿が二つ重なって見える。


「言いましたよね、さっき、私。遼一さんは本当の私を知らないって」

「なに?」

「私は座敷わらしのくせに、遼一さんを独り占めにしたくて、それを邪魔する日高さんをねたみ、憎み、嫌い、排除しようとした」


 くそ。なんだ、これは。


 頭の痛みと視界の歪みに引きずられて、思考がうまくまとまらない。

 このままではまずい。それだけは分かる。だけど、どうすれば……。


「日高さんさえいなければ、遼一さんは私を見てくれる。日高さんさえいなければ、遼一さんの隣は私のものになる。日高さんさえいなければ……」


 ジジジジ……。


 あぁ。ダメだ。意識が黒いもやのような何かに飲み込まれていく。あらがう事はおろか、考える事すら許さないそれは、おそらく座敷の負の感情だろう。


 ダメだ。視界が。ダメだ。思考が。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。ダメだ。


 ダメだ!


 ――遼一さん、あの子の事をお願いします。


 光があった。

 暗くて黒い暗闇の中、微かな光が確かにそこにあった。


 ――甘えん坊で寂しがり屋な困った子ですが、決して悪い子ではないので、出来るだけ長く一緒にいてあげて下さい。


 そうだ。俺は任されたのだ。彼女に。目の前の少女の事を。だから――


「それはお前の言葉か?」

「え?」


 俺の質問が座敷の不意を突いたのか、黒い靄の拘束がわずかにゆるむ。


「本当に、お前が考えて口にした言葉かって聞いてんだよ!」


 叫ぶ。

 今にも飲み込まれそうな意識を保つためにも、懸命に声を張り上げる。


「確かにな。俺はお前の事を、本当は何も知らないのかもしれない。けどな。それでも俺は、お前が本気で誰かの不幸を望むようなやつだとはどうしても思えないし、やっぱり思いたくないんだよ」


 たった数週間の僅かな期間だが俺と座敷は一緒にいて、そしてお互いの事を知った。お互いの全てを知っているわけではもちろんないが、それでも分かる事はある。

 座敷はそんなやつではない。絶対に。


「遼一さんが私の事をどう思おうが関係ありません。現に私は、本当に思ったんです。日高さんさえいなければって……」

「そんな事ぐらい誰だって思うだろ。俺だって思うし、もしかしたら桜子だって」

「でも私は実際に――」

「桜子が怪我すればいいと思ったって言うのか?」

「それは……」


 周囲の空気が、座敷の勢いと共に更に幾分いくぶん弛緩しかんする。


「だったら、お前のせいじゃないだろ。今回の桜子の件は」

「それでも私のせいなんです。私がみにくい感情を日高さんに対して持ったから、だから……」

疫病神やくびょうがみにその心のすきを突かれた、と」

「知って、いたんですか? 知っていて、ここに……」


 座敷が目を見開く。それほど俺の行動は、彼女にとって有り得ないものだったらしい。


「この空間は私の精神世界そのもの、そこに精神体として足を踏み入れるなんて、生身で獅子ししのいるおりに入るのと同じくらい危険な事なんですよ! 分かっているんですか!」

「まぁ、何となく、雰囲気としては? けど、諸々もろもろ全てを解決するためには、これしかなかったというか……」

馬鹿ばかです。遼一さんは」


 震える声でそう告げた座敷の目尻には、うっすら涙のようなものが浮かんでいた。


 辺りを包んでいた靄が薄くなり、それに伴い、音とプレッシャーも徐々に弱まっていく。


 これで一件落着――とはいかないものの、当面の危機はこれで……。


 ……ならぬ。


「え?」


 声が聞こえた。

 どこからか、地の底から響くような低い、しゃがれた老爺ろうやの声が。


 それを合図にするように、一度は収まり掛けていた靄が、音が、プレッシャーが、再びその勢いを増した。




 飲み込まれる。

 そう思った時にはもう遅かった。


 座敷を中心に無尽蔵に広がり続ける黒靄は、またたに俺の足元まで到達し、と同時に、へびのように俺の足へと絡みつき、上へ上へと、まるで木の上の鳥を狙うそれのようにい上がっていく。


 抵抗は無意味で、猶予ゆうよは一瞬だった。


 そうなった時に、すでに俺のひざから下は棒のように固く固定されており、逃げる事はおろか、動く事すら出来ない状態に最早もはやなっていた。


「飛んで火にいる何とやら。お前さえいなくなれば、この娘の心はり所を無くし、壊れ、完全に肉体の所有権を放棄し、ワシの新たな肉体として再利用される事となる」


 座敷の口から発せられるその声は、完全に座敷の物ながら、内容や口調は明らかに彼女のそれとは違い、違和感と同時に俺は何だか無性に腹立たしさを覚えた。


「あー。リョウイチとやら、お主には礼の言葉しかない。よくぞ、この娘と出会ってくれた。よくぞ、この娘の心を開いてくれた。そして、よくぞ、ワシの手の届く所までやってきてくれた。感謝を。無知で、無能で、無力なお主に、心の底からワシは感謝の意を表する」

「――せぇ」

「何?」

「うるせぇ。何が感謝だ。くそじじい。てめぇに感謝なんて言われても、こっちとら、これっぽっちもうれしくねぇんだ、馬鹿野郎」


 俺の予想外の反応に気圧けおされたのか、座敷の動きが止まり、きょとんとした表情をその顔に浮かべる。


「おい座敷、聞こえてるんだろ。いつまでその耄碌もうろくしたくそじじいに、妄言もうげんじみた戯言ざれごとをぺらぺらと語らせてるつもりだ。まだ俺とお前の話は終わってねぇし、まだ俺はお前に聞きたい事が山ほどあるんだ」

「だ、黙れ、小童こわっぱ。今際の際と思い、少し優しくしてやれば付け上がりおって。今更、何をわめこうとこの娘にはもう何も届かんし、お主の運命も何も変わらぬわ。そのガラス玉のような瞳でよう見てみい。自身の置かれた現状を」


 確かに黒靄は、もうすでに俺の胸元までせり上がってきており、こうなってしまうと身動きすらもうままならない。しかし――


「だからどうした。体は動かなくても、まだ俺の口は自由に動く。最後の一瞬まで俺はまだあきらめねぇし、吠え続けるぞ。座敷、てめぇ。このまま逃げられるなんて思うなよ。本当に悪いと思ってるなら、桜子に会ってちゃんと謝れよ。まずはそれからだろ。何もかも」


 吠える。力の限り。

 声が届くか分からない相手に対して、声が届いていると信じて。


 座敷からの反応はなかった。しかし、確かに変化はあった。


「なに?」


 その変化を見て、座敷の顔が歪む。


 それまで辺りに広がり、俺に登り続けていた靄の動きがふいに止まり、むしろ弱まり始めた気さえする。


「馬鹿な。この期に及んで、まだ抵抗するというのか……。だがもう遅い。すでにこやつの精神世界の大半はワシの力によって浸食され、後はこの僅かな空間を残すのみ。なのに、最後の最後で……」


 ぱき。


 どこかでそんな音が聞こえた。


 ぱき。


 その音は次第に増え、


 ぱき。


 いたる所からいくつも同じ音が聞こえ始めるようになった。


「なんじゃ、この音は」


 言いながら、座敷がいぶかしげに辺りを見渡す。


 どうやら、この音の正体は、座敷の中にいる疫病神にも分からないらしい。


 ぱき。


 しかしこの音、


 ぱき。


 どこかで聞いた事があるような。


 ぱき。


 あー。


 ぱき。


 分かった。


 ぱき。


 あの音だ。


 ぱき。


 鳥が卵から生まれる際、


 ぱき。


 そのからを内側から突いて割る


 ぱき。


 あの時の音によく似て――


 ぱき。ぱき。ぱき。


 まるで何かに耐え切れなくなったかのように、一斉にあらゆる場所から音が同時進行で発生をし、そして――


 突如、天から光が差した。


 ひび割れた隙間から、黒靄を引き裂いて、一筋の光が地上に大きな円を作る。

 そこから先は、まさにドミノ倒しのようだった。

 一つのひびが割れると、また次のひびが割れ、更に次のひびが割れ……気が付くと、辺りは四方八方から降り注ぐ光に満ちあふれていた。


「一体、これは……」


 あせさま微塵みじんも隠さず、座敷が視線をあちらこちらに向ける。


 そんな彼女(?)とは対照的に、俺の心はむしろ平常時よりもいっそう深く落ち着いていた。


「そうか。終えたんだな、役目を」


 ふいに口を突いたその呟きに、俺は自分自身に目の前の光景の意味を教えられる。


「なぜ……」


 そう呟く座敷の瞳からは、一筋の涙がこぼれ、困惑の表情がその顔に浮かぶ。


 一歩二歩と座敷に近付く。


 俺の体に纏わりついていた靄は、いつの間にかきれいさっぱり、跡形あとかたもなく消えていた。


「時間切れだ」


 座敷の目前に立ち、俺は終戦を中にいる何者かに告げる。


「時間切れ、だと……。どういう? お主は何を知っておる」

「座敷が持ち合わせてなくて、だけど、座敷わらしなら本来持ち合わせてないといけない能力。それが今、座敷の中にかえされた。つまりはそういう事だ」

「双子の座敷わらしは、二人で一人前。片一方に出来る事はもう片一方には出来ないと思うて、すっかり油断しておったわ」


 そう言うと座敷は、その顔に苦笑を浮かべ、視線を天へと向けた。


「まったく。一度ならず二度までも、座敷わらしにしてやられるとは……。まっこと、腹立たしい限りよのぉ」


 まるでそれが合図だったかのように、座敷の頭が突如とつじょ、ガクンとれ、そしてすぐに、


「う……」


 微かなうめき声と共に、ゆったりとした動作で持ち上がる。


「りょう、いちさん?」


 おぼろげな瞳が俺を捉え、その名を呼ぶ。

 聞き慣れたいつもの声。


 だけど今はそれが、とてもなつかしいもののように思えた。


「おはよう、座敷。そして――」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る