現代百物語 第17話 犬神

河野章

第1話 現代百物 第17話 犬神

「あれ……」

 谷本新也(アラヤ)はポケットに手を入れた。全身をパタパタと叩いてみる。

 ハンカチを落としたようだった。

 秋の訪れを感じさせる、乾いた晴れの日だった。

 近くのコンビニまで、と休日昼間に買い物へ出たところだった。

 しかも気づけば知らぬ土地を歩いている。

 周囲は古い住宅街だった。アパートやマンションなどは見当たらない、瓦屋根の一階屋が続く。道の突き当りには大きな神社があるようで、大鳥居と神社へ上がる石段が見えた。

 はてどうしようと新也は立ち止まった。

 ゾクゾクするようないつもの感覚はないがどうも妙な街だった。

 新也は人通りのない往来の真ん中、四ツ辻で周囲を見渡した。

 と、犬がいた。

 すぐ側の大きな屋敷の門扉に繋がれている。

 いまどき珍しい番犬代わりだろうか。

 白地に大きな黒斑で、耳は先だけが垂れていた。2足で立てば新也の背丈に届くのではないかというような大犬だった。

「あんたな」

 いきなり間近に声をかけられた。

 乳母車を押した、腰の曲がった老婆がすぐ側に立っていた。

 新也の驚きをよそに、老婆は新也を見上げてくる。黒目の大きな瞳が人ではないように感じられて新也は一歩下がる。

「それがな、もう何年も散歩させられてない。すぐに行けるか?」

 連れて行くのが当然という言い方で老婆が新也に聞いた。

「わしは腰も足も悪い。一族も全ていんでもうた。行ってくれるか」

「あの……」

 断れぬ雰囲気に言いよどむと老婆がニッと笑う。

「そしたらな、返してやるで」

 あ、と新也は思った。おそらくこの老婆にハンカチを隠されたのだ。

 なくして困るほど大切にしていたものではない。

 けれど、休みの日にボランティアとして足の悪い老人の代わりに犬を散歩させてやるくらい何ということもないだろう。相手が人外だとしても。

 新也は言った。

「良いですよ。行ってきましょう」

 老婆は拝むようにして手を合わせると、犬の鎖を解き、新也に手渡した。


「こら、いうことを聞け」

 新也は犬の散歩に苦戦していた。

 老婆から託された犬だが、これが何もいうことを聞かない。

 グイグイと新也をその巨体で引張り、連れ回し、散歩というよりは新也が連れ歩かれているという形だった。

 トイレをするわけでもない。

 古い民家を見つけてはそちらへ寄り道する。

 数件を連れ回したところで、ふいに犬が喋った。

「ここも絶えたか」

 太い、脳へ直接響くような声だった。

「お前らには分かるまい、この無念さよ。一族は全て絶えてしまった。もう俺しかおらぬ」

 深いため息とともに、また犬は歩き出す。

 新也は答えることは出来なかった。

 一族とはこの犬のことだろうか。何も分からなかった。

 犬は町内を一回りもすると、例の神社の前に戻った。石段の下、辻の行き止まりで立ち止まる。

「俺はここで死んでまた生まれた。少々乱暴な、生まれ方だったがな」

 新也は首を傾げる。普通の生まれ方ではなかったのだろうか。 

 犬がくくっと口角を上げて笑った。

「今は大切にされているがな。俺は昔、ここに埋められ首を跳ねられた。人の財を成すため、そうやって生まれた。……今日は助かった。これを返そう」 

 気づけば犬がハンカチを咥えていた。

 新也は恐る恐るそれを受け取る。

 犬が頭を下げた。新也はつられるように、そっと犬の頭を撫でた。

「……礼を言う」

 声とともに、犬は煙のようにかき消えた。

 それとともに、周囲の喧騒も戻ってくる。

 新也がよく知る、駅近くのコンビニ前だった。手にはハンカチ。

 まだ買い物をしていなかったか……と思い出す。

「……何で毎回、こういうのに出会っちゃうかな」

 新也は硬い毛の感触が残る手を握っては開いて、コンビニへと向かって歩き出した。



【end】

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