第1話

(どうか、異世界に行けますように)

 メグはそう心の中で唱えると手を合わせた。

 ここは、とある小さな稲荷神社。メグは不思議なことが大好きな小学六年生の女の子。今は夏休み。友達のいないメグは、夏休みの初めから、そんなことを神社のほこらにお祈りしていた。

(って、こんなことを言っても異世界になんていけるわけないよね)

 メグがその場を立ち去ろうとしたその瞬間、

「そんなに異世界に行きたいのかい」

と言う声が聞こえ、目の端で何かが動いた。

 それは境内にある狐の像だった。

 石でできた灰色の狐が今、間違いなく、動いた。

 そちらの方をメグが凝視すると、狐は諦めたように、

「そんなにじっと見るんじゃないよ。疲れちまう」

と言ってぴょんと台を飛び降りた。そして、

「そろそろ俺のシフトは終わりだ。もう帰ってもいい頃だろう」

と言って、メグの方を見ると、

「よかったら、来るかい」

と言い、ついてこいと言わんばかりにそこを立ち去った。

 メグは、目の前で不思議なこと(目の前で稲荷像が動き、喋るなんて、不思議なことですよね)が起こったので、驚き、しかし歓喜していた。

 メグは急いで狐を追った。狐は、細い道路を渡った先にある、緑色の四角い建物のドアの隙間に飛び込んだ。

 メグも、続いてその中に忍び込んだ。

(本当は、こんなところ、勝手に入っちゃいけないのかもしれない)

 そう言う思いがメグの頭をかすめた。しかし、喋る稲荷像はみすみす逃してはおけない。メグは、自分の好奇心を満たすために、その緑色の建物の中に忍び込んだ。

 建物の中はやたら暗く、狭かった。目の前にはコンクリートでできた階段がある。先ほどまで追っていた狐は、この上へ上がっていったのだろう、メグはその階段を上まで上がっていった。

 上の階には、狭く長い廊下があり、廊下の脇にはたくさんの扉があった。その扉の一つ、一番奥から二番目の扉に、狐が入っていくのと同時に、もう一つの、奥から三番目の扉からもう1匹の狐が飛び出して、メグの方まで駆け出してきた。

「わっ」

 メグが驚いて飛び退くと同時に、

「きゃーっ」

という大きな悲鳴が聞こえた。悲鳴をあげたのはその、三番目の扉から出てきた狐だった。

「なんだなんだ」

 突然、大勢の声がして辺りが騒がしくなった。たくさんのドアが開いて、中から部屋の主が出てきた。その途端、メグは気絶しそうになった。なぜなら、メグは気付いたら、たくさんの「ちみもうりょう」たちに囲まれていたからだ。

 メグがざっと周りを見渡してみても、大きいのから小さいのまで、数十はなんらかの生き物がいる。メグが絵本や漫画で見る、河童や鬼、座敷童なんかの妖怪たち。SF映画でも見たことないような、複雑怪奇な形をした、エイリアンと思しき謎の生き物。十センチくらいの身長の、小人か妖精と思われるもの。それらに加えて、メグが名前も知らない、何やらもこもこした煙みたいなもの、木の枝が人の形をしたものなどなど、不思議なものがたくさんいた。それから、あの、石でできた狐たち。部屋から出てきた狐は全部で七匹はいた。

「お前、人間か?」

 大きな土気色の顔をした鬼に聞かれて、メグはコクコクと頷いた。

「人間を連れてきたくらいで、驚くなよな」

と言ったのは、あの、メグが初めて神社で見た狐だった。(なぜその狐が神社で見た狐だと分かったかは、メグにもわかりません)

「でも、この人…」

 そう小さな声で言ったのは、メグを見て叫んだ狐だった。(どうやら、一番目の狐はオス、次のはメスと思われました)

「あちゃぁ」

 そう言ったのは、オスの狐。狐は、人間がやるみたいに、こめかみの辺りを抑えて、頭を振っている。

「靴脱ぐとこ、ちゃんとあったんだぜ」

 オスの狐が、そう言った。

(うそ、気付かなかった)

とメグが思う間に、

「お前か、人間をこの屋敷に連れてきたのは」

という太い声がした。声の主は、先程の土気色の鬼だった。

「そうだよ。だってこの人、異世界に行きたいって言うから」

オスの狐が何でもなさそうにそう言うと、

「何、異世界?」

と土気色の鬼がメグの方を勢いよく振り返った。それから、他の「ちみ」(ちみもうりょうは長いので、そう呼ぶことにします)たちも、

「異世界だって?」

と、ざわざわ騒ぎ始めた。

「悪いが、異世界への扉は、もう長いこと開かれていない」

そう言ったのは、土気色の鬼だった。

「この屋敷の大家として、謝る。わざわざ神社まできていただいたところ、面目ない。しかし、今は、異世界への扉は…」

 土気色の鬼がそこまで言った時、

「親分、親分が謝ることないんですぜ」

と、はっきりとした声が聞こえた。

「それより、人間、お前が謝れよ。土足で侵入しやがって。不法侵入罪だい」

 声の主は、緑色の小鬼だった。大きな鬼の六分の一くらいに小さい。いろんな色のいる小鬼の中でも、緑色の小鬼は、

「親分含めて、俺たちみんな、あんたが土足で運んできたケガレに息が詰まりそうなんだ。異世界への扉が開かないのは、親分のせいじゃない。それより、人間、ここ、掃除しろよ。あんたのせいで、俺たち、窒息死しそうだぜ」

と、ここまで言うと、ゲホッゲホッとわざとらしく咳をしてみせた。

「ごめんなさい、私、悪気はなかった」

メグがそう言うと、

「謝ってすむなら掃除屋のおばちゃんはいらねぇぜ」

と緑の小鬼は言った。周りの「ちみ」たちも、その通りとばかりに、頷いたり、メグを汚いものを見る目つきで見たりした。

「掃除します」

 メグは、赤くなってそう言った。自分が急に、アウェイにいることが全身で感ぜられたからだ。

「ただ掃除するだけじゃダメだね。一週間。一週間働いてもらおうか。じゃなきゃ、このケガレは落ちないよ」

(見たところただの土汚れなのに一週間も掃除しないとこの汚れは落ちないの?)

とメグが思った矢先、

「俺たちは人間と比べてかなり潔癖症なんだよ、特にこいつ、ナンはね」

と、オスの狐がナンというメスの狐を指してそう言いました。

「ナンじゃなくてもこいつには参るよ。え?どうだい親分、一週間こいつにみっちり働いてもらえば、俺たちもかなり楽になる。はっきり言って、今の当番はキツキツだ。みんなそろそろ休みが欲しい頃だよ。俺たちの夏休みってことでさ、どうよ」

緑の小鬼は土気色の鬼、大家に向かってそう言った。大家は、メグの方を見て、

「しかし…」

と言った。

「だって、親分、こいつ…」

緑の小鬼が、さらに言おうとするのを遮って、

「俺たち狐も、今より少々休みが欲しいです、大家さん」

と、オスの狐が言った。それを聞いて、大家は申し訳なさそうな顔をしつつ、メグに

「悪いが、一週間働いてはくれぬか。神社に来ていただいたところ悪いが、私たちは今言った通り、少々困難な時期で…」

「はっきり言っちまえよ、親分」

緑の小鬼が大家の話を遮ってゲホッゲホッとわかりやすく大きな咳払いをした。それを真似して、他の小鬼たちも、面白がって咳き込み出した。他の「ちみ」たちは、咳き込みこそしなかったが、ニヤニヤしたり、メグを哀れなものを見る目つきで見たりしていた。

(私、相当臭いんだ)

そう思ったメグは、大家に何か言われる前に、

「わかりました。一週間、ここで働きます。それでいいですね」

と言い切ってしまった。

「本当か?それは、ありがたい」

大家がそう言って、頭を下げた。本当に心から嬉しそうに顔をほころばせている。

「一週間の仕事の内容は、ここに書いておく。明日から本格的に働いてもらおう。親御さんにもそう言っておくれ。今は、とりあえずそこと階段の土を拭き取ってくれぬか。そうすれば後はもう、今日は帰って良いから」

大家は、一枚のピンク色の紙と、真っ白い雑巾を空中の何もないところから取り出してメグに渡した。それから、

「おい、みんな、もう部屋に戻れ。ヘルパーが来たとはいえこれからも忙しいぞ。休め休め」

と言って、好奇の目でメグを見つめる「ちみ」たちに、部屋へ帰るよう促した。「ちみ」たちは、残念そうに、しかし大家の言うことだから仕方ないと言うようにへやに入っていった。緑の小鬼は、部屋に帰りざま、メグに向かって舌を出してみせた。メグは単純に腹が立ったが、何も仕返しすることもできず、ただ小鬼を見送った。

 みんなが帰ると、メグはピンクの紙を折りたたんでリュックの中に入れた。そしてまず階段を降り靴を脱いで階段下にあった壁際の下駄箱に入れた。そこには玄関といえるような段差の存在がなかった。狐たちのような靴を履かないものが足を拭くための雑巾が何枚か、敷かれてはいたが。それに、床は階段も廊下も全部コンクリートだった。

(コンクリートで靴を脱ぐ人なんて、どこにいる?)

そう思いながら、メグは掃除をし始めた。掃除をし始めてすぐ、メグはある殺気のようなものを感じた。そっと上の方を見ると、まだ大家がいて、メグが掃除するのを、じっと見ている。人に見張られて掃除するのは、なんだか気持ちの悪いものだ。メグは、

(雑巾って、こんな拭き方でいいんだっけ)

と思った。メグはいつも学校の掃除で床を雑巾掛けしている。それも結構真面目にこなす方だ。だがメグは、なんだかとても間違った拭き方をしているような気がして、より丁寧な拭き方で泥を拭いとった。

 階段から廊下の奥まで、メグは丁寧に時間をかけて拭いた。その間、ずっとメグの拭き方を見ていた大家は、メグが一通り拭いたのを見て、

「よし」

と言った。そして、

「明日も、よろしく頼む」

と言って、メグに右手を差し出した。

(あれっ、こっちの手、汚れてる)

 メグの右手は、雑巾は持っていなかったが、ずっと泥を拭いていたので汚れていた。それでメグは、右手を差し出すのを一瞬躊躇した。

 それを察したのか、大家は、メグの右手を両手で取り、包み込むように握手した。そして、メグの背後にある、一番奥のドアに向かって歩いて行きざま、メグの背中をポンと叩いた。そして大家は、部屋に入って行った。

 メグは、あんな風に両手で握手してもらうのは初めてだった。少しの間ポカンとして右手を空中に差し出したまま、突っ立っていた。そして、ハッと我に返ると汚れた雑巾を手に、階段を降りた。そして靴を履き外に出て、狭い道路を渡り神社にとめてある自転車をとりに行った。その頃にはもう、あたりは薄暗くなりかけていた。

 自転車をとりに行って、気がついた。

 自転車のそばにある稲荷像は、今は、あのメスの潔癖症の狐だった。メグは、

(さっきは驚かせて、ごめんね)

と心の中で言った。そして自転車のカゴに雑巾を入れると、自転車に乗り自分の家目指してペダルをこいで行った。

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メグの夏休み オレンジ5% @76-n

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