第4話 日が暮れてもたぶん、きみと歩いている



 暑い季節は、昔から好きじゃない。年々、強くなっていくように感じる日差しも、寝苦しい夜も、蚊の羽音を聞くのも、刺されるのも不快でしかない。


 ただし、今この瞬間、一つだけ素晴らしいと思うものを見つけた。


 それは、若い男性のショートパンツからのびた脚、だ。


 今まさにおれの目の前で、階段を一段一段上がっていく男性の、膝小僧が見えるぐらいの丈のパンツからスッとのびたふくらはぎの、なんと精悍なこと。確か、さっき電車を降りる際に向かいのシートから立ち上がった時に一瞬目が合った彼は、それほど長身ではなかった。ドアが開く時、前に立った彼の後頭部がちょうど目の高さにあったから、同じぐらいの背丈だろう。


 毛むくじゃらでもなく、って別に毛深くたって構わないんだろうけど、単純に好みとしておれはあまり毛深い男の脚は好きじゃない。かといってつるつるですべすべなのも、なんだか気が引ける。利明ぐらいの身体がやっぱりちょうどいいんだよな。二十代前半の若さと、それゆえの衝動や熱を封じ込めたような芯の強さを利明の全身に感じる。その身体をやわらかくしならせて、おれの上に覆いかぶさる。


 ……そんなことを考えているおれって、変態なんだろうか。


 ふと我に返っている間に、改札を出たショートパンツの彼の姿が見えなくなった。残念。


 あのシュッと伸びた脚や、ほどよく肉がついて締まったふくらはぎを眺めながら一杯、いや二杯はいけるんじゃないだろうか。……と、我ながら馬鹿だなと思うようなことを考えながら階段を下り、信号を渡っている最中、あまりの自分のアホらしさにぷっと噴き出した。




 玄関を入ると、見慣れた靴があった。

 川沿いを歩いている時に下からマンションを見上げたら、居間のカーテンの向こうにうっすらと明かりがついているのが見えたから、来ていることはわかっていた。履きつぶした黒いスニーカーの隣に脱いだ革靴をそろえていると、奥のほうから「おかえりー」と間延びした声が聞こえる。


 台所の小さなテーブルの上には、空になったビールの缶が一つ。柔らかな間接照明が照らす部屋では、テレビの画面にボクシングの試合が映し出されている。先週、今俺の目の前にいる坊やに頼まれて録画したものだ。


「坊や、来てたんだ」


 まだ乾ききっていない男の髪に手を突っ込んでくしゃっとやると、屈託のない笑みを浮かべた顔を上げ、


「へへっ。お先にはじめてまーす。風呂、まだあったかいよ」

「じゃあ、出るまで起きてろよ。老体にムチ打ってこんな時間まで休日出勤を頑張ったおれに、一杯ぐらい付き合え」

「りょーかい。ご老体、お腹すいたっしょ。何か作るよ」


 そう言ってニヤッと笑った顔が一瞬、何かを思い出したように「あっ」と輝いた。イスから立ち上がり冷蔵庫を開け、


「バイト先でお客さんから枝豆もらったの、忘れてた! ゆでるからゆっくり風呂入って」


 本来ならありがとう、と言うところだけど、それよりも先にくくくっと笑ってしまった。


「なに? なんだよー? 枝豆ゆでるの、うまいぜ」

「いや。今日の利明は、奥さんみたいだな」


 おれの言葉に、アルコールで気分が良くなっていた顔にさらに赤みが差したかと思うと、わざと吐き捨てるように


「ったく。バカなこと言ってる間に、とっとと風呂! ゆであがるまで出てくんな」


 これには老体も辛抱たまらず、流し台と小さなテーブルの間に立って赤い顔をしてこちらをキッと睨む青年の体を両腕で包むように、ぎゅっと抱き締めた。


「ありがとう」

「いーえ」

「明日さ、服買いに行こう。利明はショートパンツが似合うよ。暑くなる前に二、三枚買っておこう」

「いいよ。あんたもそのシャツ、似合ってる。サイズもちょうど良かったんだな」


 このシャツは――、と言いかけたところへ利明が、


「これ、俺のシャツ。先週、泊まった時に脱いで置いてったヤツ」


 あぁ、そうか。そうだったか。言われるまで気づかなかった。

 もう、と言いながら今度は利明がプッと笑いをこぼし、


「四十過ぎてから一気に物忘れが激しくなってない? 会社ではエラいさんかもしんないけど、見た目はまだ若いんだから。しっかりして」


 十歳以上も年下の恋人に、まるで母親が子供をあやす時のように背中をぽんぽんと叩かれながら、そんなことを言われている。




 利明がここへ来るようになってから、シャンプーを変えた。正確に言えば彼の好みに合わせて変えてやった。ボディソープもそうだ。身体を洗うタオルだって――


 あ。

 そんなことよりも。


 先週泊まった時に確か、今度大学の授業で使う何かを、ナントカカントカっていうちょっと遠くの店まで探しに行きたいと彼が言っていた。ええと、何だっけ。確か……、


 ダメだ。


 思い出すのをサッサとやめて、年季の入った浴槽にぐーっと脚を伸ばし自分の記憶力の悪さにプッと噴き出した。「何か」とか「ナントカカントカ」ばかりで、肝心なところを覚えちゃいない。さっき言われた通り、四十を過ぎて本当に物忘れが始まったのかもしれない。

 利明に話したら「はぁ?」と、でっかい口を開けて笑われるんだろうな。



 End



 ★お題「カーテンの向こう」(「おめでとう」「カーテンの向こう」「光」より一題使用)


 40代と20代のささやかな日常的恋愛話。

 タイトルは自分の好きなバンドの曲名をお借りし、ちょっとだけ変えています。

 pixivに投稿した際、それに気づいて下さった読者様がいらしてとても嬉しくびっくりでした。The ピーズです。


♯一次創作BL版深夜の真剣120分一本勝負 2017年6月参加作


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