第6話 抉られる傷口

「先輩!起きて下さい!泣いていいとは言いましたが寝ていいとは言っていませんよ!」


…どうやら寝てしまっていたらしい。19にもなって抱きしめられ、泣き疲れ、寝てしまったのだ。恥ずかしかったが心地よかった、そのせいで寝てしまったのだろう。

…そういえば香子から抱きしめてもらわなくなっていたな…と香子の事を思い出し、辛くなる。

「ごめん…つい心地よくて…」

何故ここで素直になったのか自分でも分からなかった。ただ口から溢れ出てしまったのだ。

「そうですか…それは良かったです♪」

何時もの上機嫌な声で、尚且つ嬉しそうに言った。

ただ罪悪感も感じた。香子が寝盗られ、僕の事を邪魔とまで言われても香子が好きだった。香子にされた事を考えれば負い目を感じる必要は無いだろう。だがそれ程までに愛していたのだ。だから更に辛くなった。


これ以上考えたくなかった。今考えると言うことは底なし沼に浸かるのと一緒だった。抜け出せないのに必死にもがき、底の無い底に沈み、軈て溺れ、呼吸が出来なくなる。分かっているが止めれなかった。なので仕事をすることにした。慰められに来たわけじゃない。考える事を辞めるために仕事をしに来たのだ。なので寧々に伝える。まだ辛いということを悟られないように、

「ありがとう、もう大丈夫だよ。さぁ仕事しに行こうか。」

と言った。そう言わなければまた抱きしめられそうになりそうだったからだ。これ以上はダメな気がした。



仕事に入る。教えられた事をただ繰り返すだけだった。人が来たら「いらっしゃいませ」と言い商品を出されたら値段を言い、お釣りがあればお釣りと金額を言い渡し「ありがとうございました」と言う。それの繰り返しだ、それを命令された機械のようにただそれだけを繰り返す。

入店時の音楽がなる。普段とのダルそうな声と違い、愛想のある声を作り言う。


言うはずだった。


「いらっしゃいま…!?」

最後の1文字が詰まった。出なかったのだ。普通の客なら最後まで、淡々と言えたのだろう。普通の客ではなかったのだ。もう見たくない人だった。


それは社会の癌の腕を幸せそうに巻き付ける香子の姿だった。もう少し休憩室にいれば良かったと後悔した。そしたら目の前の辛い現実を回避出来たのだろう。


とりあえず逃げよう。幸い香子達は此方に気付いていない。なので逃げようと動かした。

動かした筈だった。しかし足は動かなかった。動かせなかったのだ。足が錘になったかの様に。その場から逃げるなとばかりに動かなかった。必死の抵抗でようやく足が動いた。その瞬間だった。

「あれw?彼氏君じゃないっすかぁw」

詰んだ。もう逃げられなかった。足が解放された瞬間逃げ場を無くされたのだ。その事に勘づき、その様子を楽しむかのようにヘラヘラ笑いながらレジカウンターに物を置き、煽るような言い方で言葉を放つ。

「いやぁアンタの彼女最高っすわw締まりも良くてwしかも自分から腰振るんすよw?こんなイイ女に手ぇ出さねぇとかどんなけ祖チンなんすかw」

下品な単語と聞きたくない情報が綴られ、放たれた。返答は出来なかった。ただ惨めに下を向ける事しか出来なかった。早くこの状況を打破したかったので商品を掴み、レジを通そうとした。が、なんと置かれていた商品はコンドームだった。

屈辱的だった。この世でなによりも大切にし、愛していた女を寝盗られた挙句、行為に使う為の物を渡さなければならなかったのだ。最愛の彼女とヤる為に。

涙がまた出そうになったが泣きたくなかったのでグッと抑えた。これ以上惨めになりたくなかったのだ。


震える手でゆっくりとゴムをレジに通す。あまりの遅さに痺れを切らしたのか香子が僕の事をゴミを見る目で言う。

「ねぇ、遅いんだけど!早くしてくんない?私、早く祐介と続きしたいんだけど!」

「まぁそー言ってやんなってw最愛の彼女を取られたんだからよw」

そう確かに聞こえた。僕の中の何かがヒビの入る音がした。まだ震えの止まらない手でゴムを袋の中に入れる。そしてレジカウンターに置く。これで帰って欲しかった。が帰らなかった。そこで社会の癌がニヤつきながら言う。

「店員さんならありがとうございました。と言うだろw?ほらw早く言えよw」

もう何も考えれなかった。だから掠れながらも言葉が出た。

「ありがと…う…ござい……ました…」

その言葉を聞くと満足そうに帰って行った。その途中香子に自分の愛車のバイクの鍵を僕に投げつけてきた。何故だか分からなかったが、多分僕の持ち物が目障りだったので早くどっかにやって欲しかったのだろう。

あの男が香子に向かって「今なに投げたw?」と聞くと香子は簡潔に「ゴミ」とだけいい続けて猫なで声で「そんな事より、早く帰ろ~♡続きしたくて我慢出来なぃ♡」と遠くからでも聞こえた。聞こえてしまった。そしてその言葉を聞くと足が崩れた。それと同時に心が砕ける音がした。

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