2-2
「――ねぇ、双代。起きて」
やさしいテノール声と共に身体を揺さぶられて、わたくしは覚醒しました。
「ん……、」
わたくしを起こすのは、一体誰? そんな疑問のもと瞼を開けば、目の前にはゆるく笑みを浮かべた少年。いいえ、一人の少女が居ました。
色素の薄い髪は短く、笑みを浮かべるその顔もひどく中性的で少女のそれとは違う。そんな彼女を辛うじて「少女」だと再認識できたのはおそらく彼女が来ている服が、女生徒が着用するスカートの制服だったからに他なりません。もし、彼女がそれ以外の、例えるならば男性的な服装であったなら、わたくしは彼女を「彼」と認識し続けていたことでしょう。
「おはよう、双代」
「ええ、おはよう――みのり」
どうしてかしら。わたくしは彼女の事は愚か名前さえ知らないはずなのに、わたくしは彼女の名前をすんなりと口にしたのです。
「珍しいね、双代が教室でいねむりだなんて」
くすくす、と口元を手で隠しながら笑うみのり。そんな彼女から一度視線を離し、わたくしはわたくしの今居る状況を把握するために周囲を見渡しました。
一見すれば古い木造の学校。その一室である教室を思わせる室内。みのりの背面、すなわちわたくしの前方に在るのは深緑の黒板が在り、わたくしたちの周囲には少し乱雑に並べられた複数の机や椅子。くすみの色が目立つ窓からは、茜色の夕焼けが挿しこんできていました。
「双代、帰らないの? ……もしかして寝ぼけてる? おーい」
わたくしの傍に居るみのりには、わたくしがぼんやりとしているように見えたのでしょう。わたくしの眼前に掌を突出し、振りはじめた彼女。そんな彼女に対して「寝ぼけていたわけではありませんわ、ただ、すこし、考え事をしていただけです。さ、みのり、帰りましょう」と平然と言ったわたくしは、今まで自分が座っていた椅子から立ち上がりました。
「ふふ、そうだね。帰ろう、双代」
慣れているのか、みのりはわたくしに手を差し伸べ、わたくしもまたそれに応えるために彼女の手を取ります。
そう、わたくしはなんの躊躇いも無く、彼女の手を取ったのです。
だって、わたくしはみのりに手を取ることを期待されたから。わたくしは彼女のその期待に応えるために、その手を取らなければならないのです。何しろわたくしは、期待に応えることと、その期待から逃げること以外の選択肢を持ち合わせていないのですから。
過度の期待を押し付ける世界から逃げ出したはずなのに。わたくしは彼女からの期待に、いいえ、彼女たちからの期待に苦しんでいるのです。
「じー、じー」と耳障りな蝉の鳴き声が響く中、私とみのりは校舎を出て木々に囲まれた道を歩きます。どうやらわたくしたちがいるこの場所は多くの木々に囲まれている場所のようでした。
ゆったりとした足取りで広場のような遊び場や、小さな泉を通り過ぎれば、いつしかわたくしとみのりは一件の大きな家の前へと辿り着きます。
煌々とした灯りが内側から灯るその家の庭には椿や木蓮、桜、梅、菫、藤と統一性の無い木々が植えられており、その全てに花が咲いている状態でした。
――すべての木に、花が咲いている?
不意に抱いたその疑問を解消するべく、それらの木々が植えられている庭全体を見渡せば、花壇の方にもおのずと目が行きます。
ヒマワリが天に向かって黄色の花弁を広げ、色とりどりのチューリップが咲き乱れ、凛とした佇まいの百合が首を手折り、その足元で紫色の小さな菫が花壇の隅でしおらしく咲いていました。そう、あろうことか季節ごとに移り変わるべき花たちが、そこで咲き誇っていたのです。
嗚呼。きっと此処は、わたくしの知る「世界」とは別の場所なのでしょう。名前を付けるのならば極楽浄土とでも言われてしまいそうな、そんな場所に違いありません。
「さ、双代。みんなが君を待っているよ」
様々な庭の景色を切り取って張りつけたかのような歪な庭を過ぎたみのりは、わたくしの手を引きます。
彼女はこの庭の不可思議な情景に何も疑問を抱いていないのでしょうか。それとも、その事実に気が付かないようにしているのでしょうか。あるいは、気が付いていながら知らないフリをしているのでしょうか。
いずれにせよ、目の前の彼女は笑みを向けながら、わたくしに「さ、はやく」と家の中に入ることを促し、急かします。
「ええ、わかっていますわ」
みのりの手の示すまま、わたくしは一歩、その家の中へと入ります。
期待されることから逃げたはずなのに。わたくしに期待する世界から逃げたはずなのに。どうしてわたくしは、未だ期待されるという重圧から逃げ果せられていないのでしょうか。
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