何かが足りない居酒屋メニューごはん
ひかりがにやにやしながら、俺の朝食風景を見ている。
「……なんでお前さっきから俺の喉ばっかみてんの」
「いちくんが動いてるところを見守ってるんです。今日も元気はつらつですよ!」
「いちくん?」
「一星さんの喉仏の名前です☆」
「人の喉仏に勝手に名前つけるのやめてくんないかなあ!?」
「じゃあ許可を取ったらいいですか? いちくんを認知してくれますか!?」
「言い方な」
言いながらぱりっと焼き上がった鮭に箸を入れると、すかさずひかりが大根おろしの皿を差し出してくれる。
ほかほか白米になめこのみそ汁、鮭の焼いたのに青菜のおひたし。
日本の伝統的朝食を用意してくれたひかりを、頭ごなしに拒否するのも気が引けるが、さすがにここまでじろじろ眺め回されるのはしんどい。
「あのー、そんなに見られてると、朝飯食いにくいんですけど……」
「じゃあじゃあ、監視カメラで見守ることにしますね!」
鼻歌を歌いながら自分の家ーー俺ん家の隣ーーに戻るひかり。
一人取り残され、鮭の骨を丁寧に箸で取る俺。
……を、ひかりは今、隣の家で見ているんだろうなあ。監視カメラ越しに。
俺は黙って箸を置き、いわゆるゲンドウポーズを取る。
「……なんだ、この状況……」
*
『今日のお夕飯は何が良いですか?』
ひかりからのメッセージを見、喜び半分、恐怖半分の複雑な感情がこみ上げてくる。
未成年じゃなくなったら彼女にしたい、と言ったあの日から、ひかりは有頂天が極まっている。元々彼女面をしていたが、今ではもっと凄まじく彼女面をしている。具体例は挙げた方がいいか? いらないよな俺もあんまり言いたくはない。ひかりが俺の使用後の電動ひげそりから、その日剃ったひげを集めて小袋に入れて日別に保管してるとか、そんなの、聞いてもしょうがないだろ。まあ、今言っちゃったけど。
俺の母さんは既にひかりの味方だ。ひかりが八神にコンタクトするきっかけになったらしい、サークルのパンフレットも、母さんがひかりに渡したらしいし。いやもしかしたらひかりが勝手に漁ったのかも知れないけども。
――好かれるのは良い。俺だってひかりのことが嫌いじゃない。
だけど、何度も言うように、世界に男は俺だけじゃないのだ。盲目的に俺を追いかけるあいつの将来が、心配でないと言えば嘘になる。
でも、それだけじゃない。このままで良いと思う自分もいるのがまた厄介なんだ。
ひかりはこのまま俺だけを見てるべきだ、なんて主張する、クソ我がままな自分。我がことながら新鮮だ。
「あー……まあ、なるようになる、か」
そう考えて俺はひかりに返信する。
『最近行けてないし、居酒屋っぽいメニューがいい』
返信は爆速だった。
『了解です☆』
たくさんの絵文字とスタンプが連なるそのメッセージに、俺はふっと口元を緩めた。
*
「ただぁいまー」
「いらっしゃいませー!」
「うぉう」
思いもかけない言葉に出迎えられてびっくりする。
ひかりは藍色の甚兵衛に黒エプロンという、居酒屋店員ふうの出で立ちで、俺の鞄を受け取る。
髪の毛をきゅっと後ろにまとめ、編み込みにした状態にしているのが、本物の店員っぽい。
と同時に、あまり見せたことのない白いうなじに、目が吸い込まれそうになるのを感じた。
いかんいかん。セクハラ親父になる。
ひかりのうなじから慌てて目線を引きはがしながら、努めて大きな声を出した。
「な、なんか部屋の中も本格的だな!」
余計な私物には布がかけられている一方で、壁には紙に筆で書かれたメニューが貼り付けられている。
いつも食卓に使っているテーブルには、メニューとおしぼり、それから紙ナプキンが置いてあって、なんとも芸が細かい。
「たまには内装も変えてみようかと。さ、一星さんはうがいですよ」
へろへろの俺のスーツを引っぺがし、うがい手洗いを監視し、テーブルに着かせたひかりは、メニューを指さす。
まるっこい字で書かれたそれには、ひかりのイラストもちょこちょこ入っている。潰れたタコみたいなキャラがかわいい。
「こちらが今日のメニューです。おすすめはトマトおでんですよ」
「おおー、凝ってんなあ! んじゃそのおすすめ一つと、唐揚げと、チーちくと……。チョレギサラダで」
「かしこまりましたー☆ お飲み物はビールでよろしかったですか?」
「はい、それで」
店員も厨房も兼ねているひかりは、ご注文頂きましたー、と唱えながら慌ただしくキッチンに入っていく。やってきたビールはきんきんに冷えていて、お通しの枝豆はゆでたてのほくほくだった。
ひかりはちょっと不安そうに、
「お通しって、そういうのであってます?」
「あってるあってる。ってそうか、お前居酒屋って行ったことないのか」
「一度だけ、大学の人と行ったことありますよ。勿論そのときはノンアルで、九時にはちゃんとお家に帰ってきましたけど!」
「なんか無茶ぶりしたかな。ごめん。でもすげー本格的でびっくりしてる」
「ネット検索しまくりましたもん! あと、居酒屋で呼び込みしてるお姉さんに取材したりもして」
本格派だ。たった半日でこれだけ作り込んでくるのがひかりらしい。
彼女は一度台所に引っ込むと、すぐにサラダとチーちく、トマトおでんを持ってきた。
「あつあつのうちにどうぞ」
そう言われたので、まずはトマトおでんから箸をつける。
ほっくりと出汁で煮込まれたトマトと、味のじゅんわり染みこんだ大根が、ベストマッチだ。トマトの酸味が出汁でまろやかになり、そこに大根のほくほくが追い打ちをかけ、エンドレスで食べられそうだ。
「トマトの湯むきしっかりしてくれているところとか、大根に隠し包丁入れてくれてるとことか、やっぱ、ひかりの飯は細かいとこまで行き届いてるよな。王道で美味い」
「……ああもう一星さん、そういうとこ、そういうとこですよ!?」
「なに逆ギレしてんの、こわ」
「そーやって無意識にたらしこむんですもん。あと頑張ったとこちゃんと見てくれてるし! 25歳社畜は普通隠し包丁なんて単語知りませんよ! もう! お母様の教育が良いんだから! 好き!」
「店員さん、本音が出ちゃってますよー」
俺からしてみれば、拗ねたように好き! と言ってくるひかりの方こそ「そういうとこ」って感じなんだけどな。
ともかく、出された飯は今日もあいかわらず最高に美味い。そこにビールを流し込めば、胃が歓喜しているのを感じる。
今日も俺、お疲れ様!
「うあー……これ、めっちゃうまい」
「美味しいですよねトマトおでん。ちょっと洋な味でもありながら、出汁とマッチしてて」
「あとチーちくも懐かしいわ。よく弁当に入ってたな」
売ってるチーズちくわに、きゅうりを入れただけのシンプルなものだが、普通のちくわじゃなくて、チーズ入りのちくわなのが美味しいポイントだと思う。チーズってやっぱこう、いいよな。メニューに見つけるとちょっと盛り上がってしまう。
ひかりが揚げたての唐揚げを持ってきてくれる。ぴしぴしと音を立てて俺を誘うのが憎たらしい。今囓ったら絶対熱いだろ。
「ひかりも一緒に食おうぜ。店員は一回休み」
「はあい」
「てかホント本格的だな。メニューにあるの全部作れんの?」
「はい! あ、今回用意した材料はちゃーんと使い切りますから、安心して下さいね」
安心して、とひかりが言うのは、俺が食材費を出しているからだろう。恐縮した顔をしているが、俺からしてみれば食材費を出すのは必要最低限というか、当然のことなので、別にどうということもない。
「にしてもほんとすごいな、砂肝にアヒージョに、あさりの酒蒸し……ん?」
メニューを眺めていた俺は、あることに気づいた。
「そう言えば、たまごやきがないな」
居酒屋でよくある、たまごやきがなかった。だし巻きたまごの中に明太子が入ってるやつとか、俺結構好きなんだけどな。
思い返してみれば、ひかりが作ってくれる弁当にも、朝飯にも、たまごやきの姿はなかった。メジャーなメニューだと思ってたけど。
「つーか今思ったけど、俺今までお前のたまごやき、食ったことないな? 意外だな~、いっぱい美味い飯食わせてもらった、けど……」
顔を上げた俺は、自分の失言を悟る。
ひかりは顔を真っ青にしていた。唇を微かに震わせ、膝の上でぎゅうっと両手を握りしめている。
何かに怯えているような、恐怖を感じているような、そんな顔だ。初めて見る。触れちゃいけない地雷を踏んだと遅まきながら悟る。
俺は反射的に顔を背けていた。見てはいけない。これはきっと、ひかりが俺に見て欲しくない顔だ。
「ま、食いたきゃ自分で作れば良いだけの話だしな!」
「あ……え、っと」
「たまごやきに砂糖入れるか出汁入れるかで、母さんとモメたことあったなー。母さんが『お父さんも、きんぴらごぼうにたったひとさじ砂糖を入れただけで怒ってた』って言ってたし、こりゃもう遺伝だな」
俺は焦っていた。急いでこの話題から離脱しなければならないと思った。
――けれど、どうやら俺はひかりを見くびっていたようだった。
ひかりは顔を上げ、俺を正面から見つめてくる。
その目はまだ怯えに潤んでいるけれど、それを懸命に奮い立たせようとしているのが分かる。もの言いたげに歪む口が、意味のある言葉を形作るのを、俺は静かに待った。
「……あの、一星さん」
「うん」
「私は、……たまごやき、作れません。作ろうとすると、……やなことを思い出しちゃうから」
絞り出すような声は、彼女の必死さを如実に物語っている。
ひかりは逡巡してから、顔を少しだけ赤らめて、言った。
「一星さんは、私のたまごやき、食べたいですか……?」
「……うん。食ってみたい」
「ッ、そ、それって……プロポーズですか!?」
どうしてそうなった。
「ちっがうけどね!? プロポーズなら、君のみそ汁を毎朝食べたい、とかだと思うぞ?」
「みそ汁なら作れます! 毎朝作ります!」
「だぁー、そういうことではなくってだな! と、ともかく!」
俺は言葉を探した。結婚したいわけじゃないのだ。今は。
「お前の料理は美味い! 美味いし、お前が楽しそうに作ってるところを見ると俺も楽しい!」
「はい!」
「転じて言えば、お前が悲しそうな顔をすると俺も悲しくなるということだ! だからお前の悲しい気持ちはなるべく早く取り除きたい! お前にやなことがあるんなら、それはできるだけなくしたい!」
「はい先生! それってやっぱりプロポーズじゃないんですか!」
「そこ! 言質を取りに来ようとしない! 違いますからね!」
脱線が著しい。何が言いたいのかもう自分でもよく分からなくなってきた。
「だから、要するに、つまり、お前が……お前が、紫苑の思い出から、俺をちょっとだけ軽くしてくれたみたいにさ。お前がたまごやき作れるように、手伝ってやりたい、と言いたいわけだ。分かる?」
「……あの、でも、手順は分かってるんですよ?」
「そんなん俺も分かってるわ。燻製たまごとか作れるやつが、たまごやきだけ作れないとかねーだろ」
ひかりがちょっと照れくさそうに笑う。
「お前がなんでたまごやき作れないのか、今は分かんないけど……。もし俺に手伝えることがあれば言えよ」
「ふふ。……はい!」
では手始めに、とひかりはにっこり笑った。
「実家に一緒に来て貰えないでしょうか?」
「……はい?」
外堀が物凄い勢いで埋められてゆくような音がした。
イチャ飯〜社畜にふるまう愛情ごはん〜 雨宮いろり・浅木伊都 @uroku_M
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