喫茶店のナポリタンとコンソメスープ

 ひかりと二人で餃子を包んでから、ちょうどニ週間後に、その着信はあった。


 知らない番号だったので放っておく。重要な用件なら、きっと留守電を入れるだろう。

 ブー、ブーという振動音。一度止んだと思ったら、また鳴動し始める。


「……ってめっちゃ鳴るじゃん!?」


 しつこい着信は全て同じ番号からで、さすがの俺も電話を取らざるを得なくなる。


「もしもし、矢野ですが」

『あー、やっと出た。何回かけさせんのよ、もう』


 その声、その言い方。聞いた瞬間に心臓が跳ねた。

 忘れられるはずもない。この声はーー。


「や、八神? 八神市子か!?」

『フルネームで呼ぶなっつの。ったく、電話番号勝手に変えたわね? 連絡取るの大変だったんだから』


 そりゃそうだ。俺は卒業してから電話もSNSもメールアドレスも、全部新しいものに変えてしまったんだから。


「な、なんで俺の番号知って」

『矢野くん、大学の就活センターに番号登録してるでしょ。OB訪問用の。そこから引っ張ってきた』


 私今大学で就活アドバイザーの副業やってるんだ、と事もなげに言われて、自分の迂闊さに思わず舌打ちしてしまいそうになる。


 大学の就活センターでは、学生がOB訪問しやすいように、卒業生の連絡先を公開している。もちろん非公開にすることもできるけれど、俺がOB訪問でかなり助けられたので、後輩のためにと思って自分の番号を登録したのだった。

 それが仇になるとは。


『今までの知り合いとは一切連絡を断ったってのに、こーゆーとこで尻尾掴ませちゃうのが矢野くんだよねえ』

「言うな……。俺も今自分の詰めの甘さに絶望してるとこ」

『何それ、私の連絡がそんなにやだってこと?』

「そりゃそーだろ。正直電話じゃなかったら逃げてる」

『でも切らないってことは、私がわざわざ電話してきた理由が分からないからよね』


 そう。なぜ今八神が俺に電話してきたのか、その理由が掴めない。

 だって八神はーー、あいつの親友で。


 あいつを死なせた時に、俺を最も糾弾した人間の一人だったからだ。


「同窓会のお知らせならお断りだぞ」

『あんたが同窓会なんて来るわけないでしょうが。断られるって分かってるものをわざわざ誘ったりなんかしないわよ』

「んじゃなに」

『久しぶりに会わない? <パタゴニア>で。……渡したいものがあるの』



 ※



<パタゴニア>は、大学の近くにある小さな喫茶店だ。

 古ぼけた外観に反して、店の中は清潔で居心地が良い。革張りの椅子、磨き込まれた銀の砂糖入れ、テーブルに置かれた本物の蝋燭。ちなみにこの手の喫茶店には珍しく、禁煙。

 内装が高級な分、メニューを開くとコーヒー一杯が千円くらいするので、大学生がおいそれと行けるところではなかったが、大学時代はちょこちょこ行っていた。


 それもそのはず。この店は、あいつのーー椿本紫苑の祖母が開いたお店で、俺たちは身内価格でコーヒーが飲めたからだ。


 久しぶりに足を踏み入れた<パタゴニア>は何も変わっていなかった。


「……あ、来た来た。矢野くん」


 けれど、三年ぶりの八神市子は、かなり変わっていた。

 キレイめの化粧に、ぴったりとしたパンツスーツにヒール。高そうなバッグに、つやつやした髪と爪はなんとも攻撃力が高そうだ。


「や、八神か? なんかずいぶん……キャリアウーマンっぽくなったなあ!」

「それ、セクハラだからね? 矢野くんは変わってないねえ」


 昔はもっと眼鏡で髪もひっつめで、ヒールなんて履いてなかったのに。女子は変わる。


「今仕事何してるの」

「営業。ブラックだよ、そっちは?」

「外銀入って、副業で就活応援みたいなことしてる」

「あー、言ってたな。じゃ今めちゃくちゃ忙しいんじゃねえの」

「まあね。でも自分で休みとか調整できるから楽だし収入がやばい」

「やばそう。すごそう」

「まー、彼氏もいないのは寂しいけどね」


 元々話してて楽しいやつだし、今はこんなに綺麗になったんだ。誰もほっとかないと思うんだけどな。


「私ランチまだなの。ご飯頼んでもいい?」

「じゃあ俺も。昼アポあるからって抜けてきたんだ。腹ごしらえしたい」

「やっぱりトルコライス?」

「んー……や、今日はナポリタンだな」


 ナポリタンとスープ、コーヒーのランチセットを頼む。コーヒーは食後にお願いした。


「矢野くんはどう? 彼女とかいるの」

「……いない、けど」

「けど?」

「厄介なのはいる」


 ひかりのことを正直にそう言えば、八神はけらけらと笑った。

 そうして、小さな紙袋を取り出して、俺に差し出す。


「その厄介な子に、これ返しておいてくれる?」

「え?」

「お弁当箱。お弁当を作ってきてくれたんだけど、箱を返せてなくて」


 紙袋の中には、見たことのあるわっぱ弁当箱と、箸入れが入っていた。

 ーーひかりのだ、これ。


「……な、なんでひかりとお前が!?」

「あの子ね、自力で私のところまで来て、紫苑のこと聞いてったよ」


 ひかりが、紫苑のことを。

 それを聞いて思わず脱力する。

 待ち合わせ場所を<パタゴニア>ーー椿本紫苑の祖母の店ーーにした時点で、怪しいと思ったんだ。


「あいつは、ほんっとに……」


 ひかりが行動した理由は分かる。俺が元カノを殺したようなもんだ、と言ったからだろう。

 しかし、そこからどうしたら八神市子なんてドンピシャな相手に辿り着けるんだ。いくらあいつのストーカースキルがカンストしてても、俺の大学からサークル、八神まで行き当たるのは結構難易度が高いと思うんだが。


「どうやってお前まで辿り着いたんだろ」

「私は名前も顔もネットに出してるから、探しやすかったんだと思うよ。大学で、緑法会の名前を出せば、あの事件のこと覚えてる人まだいると思うし」


 あの事件。その言葉に心の奥がうずく。

 俺が助けられなかった子。俺が見殺しにしてしまった、紫苑というひと。


「それでね。もう一つ矢野くんに渡したいものがあるの」

「なに」

「紫苑の遺書」

「え? でもあれは、ご遺族が回収して、」

「遺書ね。もう一通、あったんだよ」


 絶句する。

 それは、初めて知ったから。


 折悪しくナポリタンとトルコライスが運ばれてくる。ピーマン、パプリカ、ソーセージの具で、上に温玉が乗っているのが、ここのナポリタンの特徴だ。

 俺は黙ってスプーンを手に取り、スープをすくった。


「ここのさ、スープ」

「うん」

「野菜と一緒に白くてぶわっとしたの入ってんの、なんだろな? 白エンドウ豆? ずっと謎だったんだよな」

「それたぶん、くったくたに煮込んだパスタじゃない? ほら、グラタンに使うみたいな短いぐねぐねのやつ。茹ですぎてふやけて、かき混ぜるときにバラバラになったんだよ」

「そっか」


 今更スープの具なんてどうでもよかったのだが、頭が混乱しすぎていて、意味のある会話ができなかった。

 俺たちはしばらく黙って目の前の皿に取り掛かった。ちらっと顔を上げたら、八神が眉値を寄せた真剣な顔でスプーンを動かしていて、ああやっぱり変わってないな、と思う。


 久しぶりのナポリタンは美味しかった。皿が下げられ、代わりにブルーマウンテンのカップが置かれる。

 チェーン店のコーヒーとは違う独特の香りが、俺の記憶を呼び覚ます。

 なんだか、顔を上げたらあのカウンターに紫苑が座っていそうだ。結局俺が譲り受けた、あいつのおばあちゃんのコーヒーミルと一緒にーー。


「……なんで、遺書のこと、黙ってた」

「……それは、紫苑がしてほしいことじゃないと思ってたから。直接私の家に郵送されてきたの」

「なら、俺が見ちゃだめなんじゃ」


 反論する俺に、八神が懐から白い封筒を取り出し、机の上を滑らせるようにして差し出す。


 封筒の表には「TO I.Y」とアルファベットで書かれている。

 それを凝視したまま、手に取れないでいる俺を見て、八神がふっと苦笑した。


「あんたも見ていいんだよ。矢野一星さん?」

「え……あ……」


 I.Y。

 それは八神市子のイニシャルであると同時に。

 ……俺、矢野一星のイニシャルでもあった。


 俺はみっともなく手を震わせながら、その手紙を開く。怯えていた。

 だって、遺体と共に残されていた遺書の中身は、産まれてきたことを謝り続ける、血のほとばしるような彼女の叫びだったから。

 今度の遺書も、そんな内容なのかと思っていたらーー。


『大好きです。大好きでした。だめだって分かってるし、そもそも私はたくさんたくさん迷惑をかけたし、きっと死んでからも困らせていることでしょう。でもどうかあなたに幸せになってほしい、だって大好きだから 紫苑』


 読みながら、口から変な声が出そうになって、右手で押さえた。押さえても、変な空咳みたいなものが出て、おかしいなと思ったら、手が濡れていた。

 泣いていたのだ、つまりは。


 顔を上げれば八神も泣いていた。


「私宛てに届いたけど、矢野くんも読むべきものだってことは、気づいてた。気づいてたけど……心の整理がつかなくて。あの子の気持ちを、独り占めにしたくて。今まで見せられなかった」


 正直、紫苑が死ぬまでの間、俺たちは死ぬほど彼女に振り回された。呼ばれて駆けつければ物を投げられて追い出されたりするし、約束をすっぽかされたり、嘘をつかれたり、変な噂を流されたりして、怒りそうになったこともある。


 でも、紫苑は、俺のことが好きで、八神のことも好きで。その気持ちはほんとうにそこにあったのだ。

 俺たちはそれを知っていたはずだった。けれど、最後の方は、あいつの際限なく繰り出されるワガママに疲弊して、忘れてしまっていた。


「八神は……紫苑に好かれてること、知ってたのか」

「……ごめん、それは、ノーコメントで。でもね、紫苑があんな道を選んだ原因の一つは間違いなく私。あんただけのせいじゃない。あのときはあんたに酷いこと言って、ほんとにごめん」


 だから、と八神は静かに言う。


「もう自分を罰さないで。世界を憎まないで。……顔を上げて、あんたを見守ってる人を、ちゃんと見てあげて」

「俺を見守ってる人」


 誰かなんて聞かなくても分かる。

 ひかりだ。

 彼女が、俺と八神を会わせてくれた。この遺書を、読ませてくれた。

 そして、俺の心をこんなにも軽くしてくれた。


「あの子が最初に来たとき、自分のためだけに過去を暴くなって言ったの。それでへこんで帰ってったから、もう二度と来ないと思ったら、それから三回も押しかけてきてね」

「あいつの執念は筋金入りだからな。三回で折れるなんて、八神にしちゃ優しすぎやしないか?」

「だってさ。……こんなに頑張ったのに報われないなんて、世界は間違ってる、なんて中二病みたいなことを、25歳にもなって同級生が言ってたらさ? そりゃ止めなきゃでしょ」


 にやり、と八神が笑う。

 わざと雰囲気を切り替えようとしてくれた、そんな彼女の意を汲んで、俺もちょっと声を張り上げる。


「だっ……で、でもほんとのことだからな! あんなに頑張って紫苑に尽くした結果があれだぞ!? 恨もうにも相手はもう墓の中だし! 世界恨むしかねーだろが」

「でもさ〜、やっぱちょっとカッコつけすぎじゃない? ひかりちゃん、可愛いもんねえ〜。しかも矢野くんのことを好きときてる!」

「まあでも、向こうは未成年だからな」


 そう言ってコーヒーをすすると、八神が野次馬根性丸出しでにじり寄ってくる。


「へー? じゃ、未成年じゃなかったら付き合う?」

「……」


 俺は少し考える。考えてからーー。


「そうだな。未成年じゃなかったら、彼女にしたいな」


 と呟けば、遠くでガタガタっと言う音がした。思わず笑ってしまう。


「ひかり、ちゃんと聞いてたか?」

「は?」

「えーと、このへんか? 位置までは把握してねーからな……ひかり? 聞いてる?」


 自分の体に向かって言う。遠くからバタバタバタっという足音とともに現れたのは、勿論、ひかりだ。

 変装のつもりなのか、キャスケットを被ってサングラスをかけている。アイドルのオフショットみたいだ。


「いいいいいいい一星さんっ! ほんとですか! 未成年じゃなかったら彼女にしてくれるんですかっ!」

「うん。だからあと一年な」

「待てませんよおっ! かくなる上は戸籍を売買するしか……!!」

「違法違法」

「え、ま、待って、今ひかりちゃんどうやって話を聞いてたの……!? あんなに遠くにいたのに!?」


 俺はこともなげに言った。


「こいつ、俺に盗聴器仕掛けてるからな」

「盗聴……は?」

「体のどこかは知らんけど。どこ?」

「企業秘密です♡」


 きゃぴ、と可愛く微笑むひかりに、八神がぽかんと口を開けている。


「……え、なに、私はカップルのそういうプレイに巻き込まれてるの?」

「違う違う。こいつ俺の家にも監視カメラつけてるし、そんなら俺に盗聴器を仕掛けない理由もないじゃん?」

「いや家に監視カメラつけられてて平気な顔してたらだめでしょ!? しかもじゃあきっと盗聴器も体に仕掛けられてるよね〜って普通はならないよバカ!」

「いやあ八神のツッコミは相変わらず鋭いな」

「くっ……このスルー力、さすがはメンヘラホイホイね……!」


 なんだか不名誉な二つ名をもらったような気がするが、まあいい。


 コーヒーは美味く、旧友にも会えて、それからーー。

 思い出のひとの気持ちに触れることができた。それでもう今日はじゅうぶんだ。


 やいのやいの言い合っている八神とひかりの声を遠くに聞きながら、心の中でそっと、紫苑の名前を呼んだ。

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