敵を落とすためのヘルシーお弁当

 元気よく図書館の準備室Bの扉を開ければ、八神さんがじろりと私を見た。


「……なに、また来たの、岩手ひかりさん?」

「はいっ、また来ました!」

「これで三回目だけど。私は何にも言わないわよ」

「ええ。でも今日は気が変わったかなって思って」

「変わるわけないでしょ」


 一星さんのことが好きだったーーというか多分絶対確信を持って言えるけど今も好きーーな八神さんは、うんざりした顔を隠しもせずに私を見る。


 八神さんのところに押しかけるのは、今日で三回目になる。

 訪ねる理由は勿論、一星さんの元カノさんの話を聞くためだ。

 私が性懲りもなくやってくる理由など、八神さんはお見通しだ。それでもむげに追い返さないのは、私を無害だと思っているからなのか、相手にする価値もないと思っているのか。

 侮られるのはむかつくけど、油断して貰えているのならばチャンスだ。


 私は紙袋からお弁当箱を取り出す。



「今日はお弁当持ってきました。いっつもコンビニおにぎりだと体に悪いですよ」

「図書館は飲食禁止」

「準備室はオッケーって書いてありました。メニューは玄米枝豆入りおにぎりと、とりむね肉のカツ、それからブロッコリーときんぴらゴボウ、デザートはイチゴです」


 八神さんがぴくりと眉を動かす。

 できる女ならーーこの低カロリーかつ栄養素たっぷりのメニューに、心動かさないはずはないのだ。


「食後の紅茶はTWGのアールグレイです☆」

「……ま、食べ物に罪はないわね」


 いそいそとパソコンを片付ける八神さんの前に、お弁当を並べる。

 わっぱのお弁当箱に、彩りを意識して詰めたお弁当。案の定、八神さんは顔を輝かせた。


「美味しそうじゃない」

「腕によりをかけて作りましたので。ブロッコリーときんぴらで、一食に必要なお野菜と食物繊維が摂れますし、とりむね肉のカツは低カロリーなので、ダイエット中の八神さんにもぴったりです!」

「な、なんでダイエット中って知ってるのよ」

「もう三回お会いしたので八神さんのご飯事情は把握してます。間食に梅こんぶ、トクホの緑茶を常飲しておいた挙げ句、お昼ご飯はゼリー飲料とサラダだけ……ってメニューで逆にダイエットしてないってこと、あります?」


 ぐ、と八神さんは言葉に詰まる。よく見てるわね、と悔しそうに言われたが、こんなの全然見ているうちに入らない。


 一星さんのことなら、例えばゼリー飲料の好みだとか、買う場所だとかそれを口にする時間帯だとか食後の歯磨きのタイミングだとかゴミの捨て方だとか、そういうことまで全部知っている。ちなみに一星さんは、ゴミをきちんと分別するタイプだ。好きが止まらない。


 とりむね肉のカツを口にした八神さんが、また言葉に詰まる。


「おいしい……! 味がしっかり染みこんでる。付け合せも美味しいし、この玄米おにぎりの塩昆布も絶妙な味わいで……!」

「当然です。一星さんのお弁当に詰めたのと同じメニューですから」

「矢野くん、毎日こんな美味しいお弁当食べてるわけ!? むかつくわー……」

「まあ激務っぽくて、お弁当はいらないって言われる日の方が多いですけどね」

「それでもこうやってお弁当作って貰ったら、元気出るわよ。いいわね、料理上手な美少女が毎日お弁当作ってくれるって……最高すぎじゃない……?」

「ですよね? なんで一星さんは未だに私に落ちないんでしょう」

「そういうことを自分で言っちゃうからじゃない?」


 などと言いながらも、八神さんはお弁当を全て平らげ、食後の紅茶もゆったりと堪能していた。高級な紅茶は、キャリアウーマンのお口に合ったらしい。淹れ方までしっかり勉強したかいがあった。


 ーー敵を落とすにはまず胃袋から。


 とは誰の名言だったか忘れたが、とにかくお腹が満ちれば気が緩む。

 その隙を狙って、聞く。


「一星さんの元カノさんは、控えめなタイプだったんですか?」

「あー……うーん、控えめなように見せかけて、自分の要求を呑ませるのはうまいタイプだったかな。要領がいいのよね」

「似てますね、私と」

「どうかしらね。ああでも、ここまで料理は上手じゃなかった」


 紅茶の入った紙コップを両手で抱えた八神さんは、ちらりと私を見た。


「あの子のことを知ってどうするの」

「一星さんに、あんな顔で笑うのをやめてもらいます」

「どんな顔?」

「全部自分が悪いんだ、って顔。……あんな顔されちゃ、いつまでも元カノさんのこと忘れられませんもん」

「前も言ったけど、それって結局あなたのためよね?」


 意地悪く笑いながら問いかけられる。

 ーーあいにくだけれど、もうその質問は私には効かない。


「そうです。私のためです」

「……それでいい、って思ってるの?」

「はい。だって一星さんは言いました。世界を恨まないために、誰かにばっかり尽くしてないで、自分にも尽くせって。例えそれが一星さんのためにならなくったって、……やりたいことを、やった方がいいんだって」

「……」


 八神さんはその言葉を噛みしめるように聞いていた。


「あいつがそれ、言ったの? 世界を恨まないために、って」

「はい。一星さんは、元カノさんを死なせてしまったときに、俺はこんなに頑張ったのに、どうして報われないんだ、こんな世界は間違ってる、って思ったそうです。だから、私がそうならないように、って」


 その言葉を聞いた八神さんは目を丸くして、それから長いため息をついた。


「あいつは、ほんっとに……! そこまで分かってんなら、どうして今も連絡を絶とうと……」


 言いかけて、自嘲的に笑う。


「いいえ。あいつが連絡を絶ったのは私のせいか。私が、あいつを責めたから。あの子が死んだのはあんたのせいだ、って」

「どうして、そんなことを……!?」

「……だってね。だって、私たちは、最後の方はほとんど、共倒れみたいな有様だったから。疲れ果てて、まともにものを考えられなくなってた」


 八神さんはしばらく紙コップに視線を落としたままだったが、ややあって、


「いいわ。何が起きたかだけ説明してあげる。矢野くんの視点からじゃ何も分からないでしょうから」


 まさかヘルシー弁当の差し入れが奏功したとは思わないけれど、八神さんは一星さんの言葉に思うところがあったらしい。


 私が待ち望んでいた、過去について。

 ぽつりぽつりと話し始めた。


「あの子は自殺した。遺書だけを残して。……けどその自殺は、前触れのないものじゃなかった。あの子は死ぬ数ヶ月くらい前からずいぶんと荒れていて、すさんで、飲み歩いて、何度も家に帰れなくなってた。そのたびに矢野くんがーー彼氏だったから、連れ戻してた」


 私の脳裏を、一星さんの言葉がよぎる。

『自分ちにちゃんと帰ってこれるならいいけど、そうじゃなきゃ怒る』


「あの子はわざと遊び歩いて、行っちゃいけない所に行って、危ないことをして……。そうして、きっと矢野くんを試していたのね。ちゃんと連れ戻してくれるかどうか。彼氏として、自分のことを好きでいてくれるかどうか」


 また、一星さんの言葉が蘇ってくる。

 私が風邪をひいたときに言ってくれた言葉。

『何度でも、俺のこと試して良いから』


 ーーどんな思いで、一星さんはその言葉を口にしたんだろう。


「矢野くんは辛抱強かった。どんなに酷いことを言われても、どんなに冷たくされても、絶対にあの子を連れ戻してた。私も何度も手伝ったよ」


 ひどいんだから、と八神さんが懐かしそうに目元を綻ばせる。


「深夜三時にさ、着信が何度も何度もあって、慌てて駆けつけたら、なに? こんな夜中に、とか言うのよ。……だけどその部屋、普通じゃなくて。あちこちに盛り塩があったり、鹿の角とか破れたお守りとかーー何かの骨とか、そういうのが散乱してて。だから結局、その晩は二人で寝たんだけどさ」


 口元が歪む。一分の隙もなく化粧された目が、心なしか潤んでいる。


「普通の大学生みたいに、馬鹿なこと話しながら寝たの。でも寝てる間、あの子はずーっと私の手を握ってた。あとが残るくらい握りしめられて……」


 泣くかな、と思った。泣いたらどうしよう、とも思った。

 けれど八神さんは大人だった。潤んだ目から涙はこぼれず、代わりに重いため息をついた。そうやって大人は感情を逃がすんだ。

 ーーまるで、一星さんみたいだ。


 途端に、胸がぎゅうっと押しつぶされるような感覚がした。


 一星さんはずっと堪えていたのだ。元カノさんの思い出話もできず、ただ自責の念に苛まれて、会社で馬車馬みたいに働くことで、色んな気持ちを疲労で押し殺して。


「……その方が、自殺したのは。最後のきっかけみたいなものがあったんでしょうか」


 八神さんの口元が少しだけこわばった。

 沈黙が落ちる。それは逡巡の証だ。


 押すべきか、引くべきか。

 迷って私は中間を選ぶ。


 二人して黙りこくる。八神さんの、綺麗に手入れされた爪が、紙コップをかりかりと掻く音がした。


「ーーその日はね、矢野くんのゼミの飲み会があったの。ゼミの先生の誕生日祝いを兼ねていたし、彼が幹事だったから、どうしても外せなかった。その前日、あの子につきあって徹夜だったけれど、顔を出すことにしたのね」

「……八神さんも一緒でした?」

「ええ。私も同じ飲み会に出てた。飲み会の最中は珍しく、あの子からの着信はなかった。……いえ、正確に言えば、着信が入らなかったのね。そのお店は地下だったから、電波が入らないようだったの」


 店から出た一星さんの携帯には、五十件を超える着信があった、と八神さんは言った。


「慌てて折り返すけど、返事はなかった。ーーもう、事は済んでいた」


 事が済んでいた。つまり、元カノさんは、自殺したあとだった。


「当然矢野くんは自分を責めに責めるわ。どうして着信に気づけなかった、どうして電波の入らない地下のお店を選んだ、どうして、どうしてってね」

「でも、そんなの……そんなの、しょうがないじゃないですか……」


 飲み会なんて、せいぜい二、三時間くらいだろう。その間、たったその間電話に出なかったせいで、実行に及んだのだとすればーー。

 それはもう、時間の問題だったのだ。

 すり切れそうなロープが、ぶつりと、途切れてしまう瞬間が、たまたまその日だったに過ぎない。


「遺書の内容はサークルの皆が読んだ。そうして皆矢野くんを責めた」

「ど、どうしてですか!? 一星さんに悪いところなんか、なかったじゃないですか!」

「あの子は綺麗だった。悲劇のヒロインみたいだった。気分屋なところがあったけれど、皆に好かれててーー矢野くんがもっとちゃんとしてれば、矢野くんがあの晩電話に出ていれば、自殺は防げたはずなのに、って皆が口を揃えて言ったわ。……私もね」


 怒りが心臓からじわりと滲み出て、体の末端まで行き渡るのを自覚する。いきなり八神さんに怒鳴らなかっただけ、堪えた方だ。


「そんなの……! そんなの、責任転嫁だ。ひどすぎます!」

「……でも、矢野くんは、反論しなかった。誰にも怒りをぶつけないまま、静かに周りとの交流を断って、そのまま卒業していった」


 八神さんは続ける。


「あいつ、あなたに言ったのよね? こんなに頑張ったのに、どうして報われないんだ。こんな世界は間違ってる、って」

「は、はい」

「つまり矢野くんは、自分がすり切れるほどあの子に尽くして、その結果あの子は死んで、周りからも責められて。それでも、誰かを恨まなかったのね。世界を恨むことで、代わりにしたのね」


 そうだ。一星さんはそういう人だ。

 優しすぎるほど、優しい人なんだ。


 そう思ったら、知らない間に涙がこぼれていた。

 ため息でやり過ごすことなんかできなくて、メイクが落ちてしまうと思っても、こんな人の前で泣きたくないと思ってもーー涙がこぼれる。


 八神さんはそんな私を放っておいてくれた。


 どれくらい経っただろう。そろそろ八神さんの所に、次の学生が来てしまうかもしれない。一応この人は仕事中なのだ。

 私は涙が収まったのを見計らって立ち上がる。


「……今日は、帰ります」

「そう。……あのね、最後に一つだけ」

「なんでしょう?」

「その子の名前ね。椿本紫苑っていうの」


 椿本紫苑。

 綺麗な名前だ。故人の名前と思えばなおさら。

 八神さんはそれ以上引き留めずに、とぼとぼと準備室Bを出て行く私を見守っていた。


 トイレでメイクをちょっと直す。直しながらも泣いてしまいそうになる。

 紫苑。sion。

 それは、一星さんが会社で使っているログインパスワードに含まれていた単語だったから。


 毎日打ち込むパスワードに、死んでしまったひとの名前を使う。

 それは、一星さんが自らに課した罰の一つだ、と思った。


 と同時に、死んでなお一星さんを縛る紫苑さんに、微かないらだちを覚える。


「あの人は……一星さんは、渡さない。例え死んだ人だって、容赦はしないんだから」


 みっともなく目を腫らして、声を潤ませて。

 それでも私は、とっくに死んだその人に、心の中で中指を立てた。

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