息が詰まりそうな桜ラテ

 少しどきどきしながら足を踏み入れた図書館は、古い本特有の甘いにおいがした。

 一星さんの大学の図書館は、大学が熱心に推すだけのことはあって、立派でモダンな建物だった。蔵書数も、東京の大学の中では五指に入ると言う。


 ゲートは学生証をかざさないと入れない仕組みになっているけれど、受付で私の大学の名前を告げればすんなりと入れてもらえた。


 私の大学の図書館はこぢんまりとしているけれど、ここは違う。二つの棟に分かれていて、国会図書館みたいに、頼んだ資料がベルトコンベアみたいなのに乗って届けられる。すごい。さすがお金持ちの大学は違う。


(一星さん、この大学で結構浮いてたんだろうな。別に一星さんが貧乏って言いたいわけじゃないけど)


 人のことを言えた義理じゃないが、でも、当たり前のようにブランド物を身に着けて、海外旅行の話をしながら校内を歩いている学生を見ると、一星さんがそこに馴染めていたとは到底思えないのだ。あの人のクローゼットに、そういうものは一切ないし、パスポートも多分持ってないだろうし。


(買えないわけじゃないと思うんだよね。一星さんの預金残高、すっからかんてわけでもないし、残業代がつくから、月々のお給料も結構あるし。――ま、そういう飾り気のないところが好きなんだけど)


 考えながら、教えてもらった個室を館内マップで探す。


(ええと、準備室Bは――。二階のエスカレーター脇か)


 図書館の中には、ゼミや授業の打ち合わせで使えるように、喋っても良い個室というものがある。その中の一室に、私の会うべき人はいるという。


 深呼吸を一つ。


(まるで戦いに行くみたい。――ううん、実際に戦いに行くようなものだ)


 思い出すのは一星さんの部屋で見つけた、サークル紹介パンフレット。

 そこに一星さんと映っていた、メガネの女性。



 私は今から、その人に会いに行く。



 *




 時間を少し戻そう。

 学食で私に声をかけてきた彼らは、緑法会で起こった自殺事件について、色々と教えてくれた。


『詳しいことは知らないけど、四年前にサークル棟――あ、今は取り壊された古い方のやつな――そこで自殺した女子生徒がいるらしいんだよな。新聞にもがっつり載ってさ、予備校ではちょっと騒ぎになったんだぜ』

『自殺……ですか。どんなふうに……?』

『首吊りだってさ。それ以上は俺も知らない』


 きっぱりと言い放った男に、少しだけ好感を持つ。軽薄そうに見えるが、少なくとも、見ず知らずの人間の死に際を、初対面の女にぺらぺらと話すタイプではない――ということだ。



『遺書が残されてて、それが確か当時付き合ってた恋人への謝罪の手紙だったらしい』

『誰かが殺したって噂、ネットでなかったっけ』

『ああ、痴情のもつれ~とかってな。でも警察は自殺の線で調べてるって報道が出たの覚えてる。俺も受験生だったからさ、今から受験する大学で殺人事件が起こったなんて冗談じゃないぜって思ったもん』


 なるほど。その女性が、一星さんと親し気にしていた眼鏡の女だろうか。


『――あ、まだネットにあった。ほらほら』


 三人の中で一番体も心もおつむも軽そうなヤツが、私にスマホの画面を見せてきた。

 古いまとめサイトだ。今聞いた自殺事件が、様々な噂を金魚のフンのようにぶら下げてまとめられている。


(あれ……?)


『自殺したのって、ずいぶん綺麗な方だったんですね』

『そう、本人が辞退したけど、ミスコンにも名前が挙がってたらしい』


 そこにあった写真は、私の思い描いていた眼鏡の女ではなく、もっと派手な造作をした女だった。外国の血が混じっているのだろうか、整った風貌は確かにミスコンに選ばれてもおかしくはない。


 この人は、あのパンフレットに載っていなかった。


『なるほど……。そんな事件が起こったら、サークルも続けづらいですよね』

『だよなー。存続運動を起こした女子学生もいたって言うけど』

『ああ、あれってどうなったんだっけ』

『なんか廃部にはならなかったけど、次の年から新入生ほとんど入んなくて、司法試験対策サークルの機能はソフィアンに移ったんじゃなかったっけ』

『あれ、じゃあ今も存続してるのはなんでだ?』

『ほとんど就活対策サークル化してるんだよ。俺もそこに入ってる奴から面接対策のパワポ貰った』


 そう言った男は、スマホを取り出しながら私の方を見る。


『ちょっと待ってな。……ああ、やっぱ今日図書館に来てるわ』

『どなたですか?』

『緑法会は就活サークル化してんだけど、それは昔緑法会だった人が、外銀就職したあとに、就活メソッドみたいなのを教え始めたからなんだよな。その人なら何か知ってるかも』

『なんて方ですか?』

『八神市子。ググると結構色んな活動してるぜ』


 私は八神市子の名を調べた。


『――あ』


 彼女は外銀で働きながら、就活コンサルティングの会社を立ち上げているらしい。

 そして、そのコンサル会社のホームページには、にこやかに微笑む眼鏡の女の姿があった。

 いや正確に言うならば眼鏡の女ではない。眼鏡はかけておらず、長い黒髪は艶々としていて、爪先まで手入れがされていることが分かる。

 けれどこの丸い目、そしてちょっと立った耳は間違えようがない。

 一星さんと親し気に写っていた、あの女だ。


『か、彼女は、今日図書館に来てるんですか』

『そうそう。就活相談室開いてんだって。大学に半日常駐して、誰でも質問しに来ていいことになってんの。お、ちょうどいいじゃん、今から十五分後なら空いてる』


 言いながら男はスマホで何か操作した。


『君、名前は』

『え? えっと、岩手です』

『岩手、っと。はい、一時半から予約入れといた』


 男がスマホの画面を見せてくる。予約共有サイトの画面だ。八神市子の今日のスケジュールのうち、一時半から三十分間が私の名前でブロックされている。


『有難うございます!』

『岩手ちゃん、ね。下の名前は……』


 聞かれる前に立ち上がる。

 色々教えてくれた彼らに、お礼の一つもできないのは気が引けたけれど――。


『色々有難うございます! 助かりました!』


 連絡先交換、なんて面倒なことになる前に学食を抜け出した。



 *



 手鏡で髪形をチェックして、アイラインとリップにヨレががないかを確認して、深呼吸を一つ。それからとびきり可愛い笑顔を浮かべた。


(大丈夫。いつも通り、私はきれいだ)


 そう己を鼓舞してから、私は準備室Bのドアをノックした。


「すみません、岩手です」

「どうぞ」


 涼やかな女性の声。私はぐっと息を詰めて扉を開けた。


「こんにちは!」


 私を出迎えたのは、朗らかな挨拶と、優しい微笑みだった。

 グレーのパンツスーツに身を包んだ八神さんは、こちらの警戒心をとくような笑みを浮かべ、自分の前の席を示す。


「岩手さんですね。どうぞこちらに」

「……」


 ――大人の包容力。社会人の物腰。完璧なメイクで演出された、清潔感があって誠実そうな人柄。

 うろたえなかったと言えばウソになるだろう。けれどこちらは不退転、というか、引き下がって戻る場所がない。


 だから私は奇襲に出た。


「矢野一星さんを、知っていますか」


 リップラインを惹いた薄い唇に、微かな亀裂が走る。社会人の仮面がハズレかけた隙間に、私はナイフを滑り込ませる。


「私の彼氏、なんですけど」


 仮面は砕けたかに思われた。

 けれど八神さんは、顔を僅かに歪めただけで、すぐに元通りの笑顔を取り戻した。その復元力に恐れを抱く。


(感情が、読めない)


 こう考えると一星さんはチョロかったのだと思い知る。悩んでいるのも考え込んでいるのも、私にムラっときているのも、全部分かりやすかった。


(行動には出してくれなかったけど――。ってそうじゃない、今は目の前に集中

 !)


「矢野一星くんって、あの? 緑法会にいた?」

「はい」

「そうよね、なかなかない名前だもの。あの矢野くんにこんなきれいな彼女ができるなんて、昔は想像もつかなかったわ」

「……八神さんみたいな、才色兼備の方に言われて、嬉しいです」

「ぜんぜん、才色兼備なんかじゃないのよ」


 私の心にもないお世辞を、社会人らしく謙虚に打ち返した八神さんは、パソコンに何か打ち込むと立ち上がった。


「これからの予定は全部ブロックしたわ。矢野くんの話も聞きたいし、それに――あなたにも、私に聞きたいことがあるみたいだものね?」


 片眉を上げるその仕草は、彼女が武装しなおした合図だ。

 社会人としてではなく、矢野一星の過去を知る者としての優位性を、前面に押し出した態度。

 どこか人を小ばかにしたような視線。

 一星さんとのツーショットでも見た、自分が一番見る目があるとでも思っているかのようなその眼差しに、私は武者震いする。


(そうこなくっちゃ。大体、一星さんの彼女だって言っただけでこんなに過剰反応するなんて――。紛れもなくダウトでしょ)


 私と八神さんは連れだって準備室Bを出る。

 図書館のカフェテリアに向かった私たちは、揃って季節限定メニューの桜ラテを頼んだ。注文が被ったのが業腹で、罪もないのにあの桃色のクリームが憎らしく見えてくる。


「ここは私が払うわ」

「結構です」


 ちりりと剣呑なやりとり。私たちだけが感じる火薬のにおい。

 二人で桜ラテを持って、人のいない一角に陣取る。

 桜ラテの甘みなど微塵も感じないまま、私は八神さんに向き直った。


「改めて。岩手ひかりって言います。一星さんの彼女です」

「八神市子よ。矢野くんとは同学年で同学部、サークルも同じだったわ」

「元カノですか」

「……単刀直入に来るのね」

「婉曲なのは嫌いです。――ついでに、嘘をつかれるのも」


 そう言うと八神さんはふっと笑った。


「潔癖なのね」


 その反応がどことなく一星さんに似ていて、むかつく。

 今すぐにでも噛みついてやりたかったが、桜ラテのやわいクリームがそれを邪魔する。口の周りにクリームをつけながら喧嘩はできない。


「元カノじゃない。好きだったけどね」


 ほら、やっぱりそうだった!

 敵意のメーターが最大限に振り切れるのを感じる。


「今もですか」

「卒業してから三年も経つのよ? 今さら学生時代の恋愛を蒸し返す歳でもなし」

「今も、好きですか」


 まったく、婉曲な物言いは嫌いだとついさっき言ったばかりなのに。意地の悪い女だ。


「そうね、まあ、嫌いじゃなかったわ。少なくとも卒業の時は」

「……まあ、今も好きと言うことで話を進めさせて頂きますが。あの頃一星さんには彼女がいましたね?」

「いたわ」

「自殺した人ですよね」


 そう言うと八神さんはきろりと私をねめつけた。


「随分詳しいこと」

「緑法会について調べていたら出てきました」

「そう。でも簡単に口に出してほしくはないのだけど」

「失礼しました。しかし避けては通れない話題です」


 私は前のめりになる。八神さんの、杏仁型の目を強く見つめる。


「その人は、一星さんのせいで自殺したんですか」

「――それは、矢野くんが言ったのね?」


 確信を持っている様子で言う。私は頷く。

 そう言えば八神さんは初めて苛立ったように腕組みをした。パンツスーツに包まれた足を威嚇するように組む。


「あのバカ」

「馬鹿と言うのはやめて下さい! 一星さんは馬鹿じゃない」

「バカでしょ。あの子が死んだのは矢野くんのせいじゃない、そんなはずはない」

「どうしてそう言えるんですか」

「だってあの子は……」


 言いかけた八神さんは、頭を振って


「部外者のあなたに言うことじゃない」

「部外者なんかじゃありません! 一星さんはずっとそれを気にしてる。まるで自分を罰するみたいにそう言うんです。その過去を精算しないと、一星さんは……」

「あなたを見てくれない、って?」


 見透かされたように言われて頭に血が上りかける。


(……ッ落ち着いて。何のためにここに来たのか、思い出して)


「そうです。一星さんが私とちゃんと向き合うために、その人のことを精算する必要がある」

「そうね。三年前のことだもの、そう長々と引きずることでもないわね」


 そう言った八神さんは、明らかな敵意を込めて私を睨んだ。


「と、言うとでも? あなたにとっては精算すべき過去なんでしょうけど、私たちにとってはまだ生傷の残っている事件なのよ」

「……自分勝手なのは認めます。でも、知りたいんです。一星さんがどうしてあんなに思いつめているのか」

「本人に聞けばいいでしょう」

「一星さんのことをご存知なら、ちょっと聞いたくらいじゃ教えてくれないってこと、知ってますよね」


 八神さんの眼差しがほんの僅か緩む。


「そうね。あいつはこうと決めたらてこでも動かないから」


 あいつ、という呼び方に噛みつきたかった。だけどその呼び方には、二人が積み重ねてきた時間と、気安さがあって、おいそれと踏み込むことはできなかった。


「でも、あの子のことを軽々に口に出すわけにはいかない。それがあの子の遺志でもある」

「けど」

「ごめんなさい」


 謝罪はつまり、話はこれで終わりだというピリオドでもある。

 八神さんは立ち上がると、私が立ち上がる間もなく、カフェテリアを出て行った。


「……」


 追いかけようと思えば、追いかけられた。

 けれどそのあとどうすればいいのか分からなかった。


 八神さんに話す気はなさそうだった。あの手の女は一度黙ると決めたら、よほどのことがない限り口を開かない。


(ああ、違う、そんなことじゃなくて)


 心に突き刺さっているのは、喋るとか喋らないとか、そういうことじゃない。

 私がこの自殺事件のことを知りたいのは、彼女の言う通り、私自身のためだということに気づいてしまったからだ。


(一星さんのためじゃ、ない……)




 誰かのためじゃないのなら。

 どうやって行動すればいいんだろう。


 ほとんど飲まれていない桜ラテ。溶けるクリームのわざとらしいピンクが、やけに目についた。

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