番外編・バレンタインチョコ

 2月14日。バレンタインデー。


 欧米では男性が女性に贈りものをする日だとか、友チョコだとか義理チョコだとか何だか色々余計なものがくっついてるけど。


 バレンタインデーの一番大切なことは。

 大好きな人に、大好きだと伝えられることなのだ!


 というわけで、私こと岩手ひかりはデパートの入り口前に並んでいるのでした。時刻は朝六時、だというのに私の前にはずらりと女性が並んでいる。


(最近は自分用チョコとかあるっていうけど、やっぱり買うからにはあげたいし、あげるからには良いものを選びたいよね!)


 誰にあげるかって?

 それはもちろん私の隣人こと彼氏こと社畜の、一星さんである!


(一星さんは安いチョコも高いチョコも、あんまり区別つかなさそうだけど……。でもでもっ、もう立派な社会人だもん。素敵で大人なチョコが似合うよね!)


 ブランドはいくつか見繕ってある。混み合いそうなところは通販も押さえた。並ぶ順番も整理券の情報もばっちり把握済み。


 びゅうう、と冷たい風がふきつけてくる。まだ日も上っていないから、地面も空気もとても冷えている。

 背中を丸め、コートのポケットに手を突っ込む。カイロを握りしめながら寒さに耐える姿勢をとっていると、開店までの四時間がとてつもなく長く感じられるけど――。


(一星さんに、喜んでほしいし!)


 好きな人のためならば、いくらだって頑張れる気がした。


 *


「買う用のチョコはこんなもの……かな?」


 所変わって一星さんの家。

 いつも食卓を囲む小さなテーブルの上には、様々なチョコブランドの紙袋が所狭しと並んでいる。

 たぶん20個くらいはあるかな? これだけあれば一星さんの好きな味が一つくらい混じっているだろう。


「よしっ、次は手作りチョコ!」


 中のガナッシュから手作りしたトリュフ、ビターな味わいのブラウニー、素朴なココア風味のクッキーに、オレンジコンフィから作るオランジェットまで、多種多様なチョコを用意する予定だ。


「一星さんって案外味の違い分かるんだよね。あれはお母様がさり気なく手の混んだものを作ってきた証……! 負けられないんだから!」


 まずはオランジェットからだ。

 前日のうちに乾かして砂糖漬けにしておいたオレンジコンフィ。いい感じの艶が出ている。

 そこに浸すためのチョコは、細かく刻んでゆせんにかける。テンパリングと呼ばれるこの作業は、ちょっとした油断で味を残ってしまう。

 一回かき混ぜるごとにチョコの様子を見る。なめらかな、とろっとした風合いになったら、火から外してオレンジを浸す。


 チョコの海にオレンジを半分くぐらせて、網の上に置いてみる。


「うんうん、なんか、いい感じ!」


 チョコだけだと寂しいので、細かく砕いたナッツを散りばめる。一星さんはピスタチオが好きだから、ちょっとピスタチオ多めで。


「ん、こんなものかな」


 できあがったオランジェットは、まるでお店で売られているような完成度だった。


 当然。だって十回は練習したもんね。

 いっぱい試食したせいで、朝ご飯も昼ご飯も入らなかった。

 一星さんと食べる夕飯だけは、決して欠かさなかったけど!


「えへへ……。でも一星さん、柑橘類苦手だったりするかなあ。そんな感じはなかったけど……。ちょっとでもかじってもらえたらいいなあ」


 さあ次だ。次はチョコブラウニー!


「チョコブラウニー……。一星さんが中学生の時、塾が一緒だった女の子から初めてもらったバレンタインチョコ……!」


 ソースはもちろん、一星さんのお母様。

 今までで一番すてきで、思い出に残るバレンタインにしたかったから、お母様に一星さんのバレンタイン遍歴をリサーチしてきたのだ。


 その結果がこの、ブラウニー、クッキー、トリュフというラインナップというわけです!


「今までのバレンタインの思い出がぜーんぶ消し飛んじゃうような、すっごいチョコを作るんだから……!」


 プロが唸るようなブラウニーを作ってみせる。大丈夫、これは二十回くらい練習した。おかげで顎にできたニキビを隠すのが大変だった。


 でもこれも、ぜんぶ一星さんのためと思えば安いものだ。

 部屋中がチョコの匂いに包まれてゆくのを感じながら、私は手を動かし続けた。


 *


「たぁでぃまー……って、うわ、チョコくさっ!」

「お帰りなさい一星さん!」


 バレンタインだというのに、一星さんはやっぱり深夜に帰ってきた。危うくバレンタインが終わっちゃうところだったよ。


 一星さんが、小さな紙袋的なものを持っていないか素早くチェックする。今日はミーティングや外出が多かったから、もらう暇はなかったはずだけど、念の為。


 案の定手ぶらな一星さんに、ひとまずは安堵する。あとで鞄もこっそりチェックしなきゃだけど……それはあと!


「ハッピーバレンタイン! ですっ!」

「え……え、待って、これ、ぜんぶバレンタインチョコか!?」

「もちろん! 一星さんがどんなチョコが好きか分からなくて、いっぱい用意しました。あ、もちろん普通のお夕飯もありますよ。今日はチキンライスです」

「あ、俺それ好き……って待て待て待て、どこで食うんだ?」

「えーと……床?」

「床……しかないよなあ、この状況」


 一星さんがそう言うのも無理はない。

 テーブルには手作りチョコがみっちりと並び、その横の椅子には様々なブランドのチョコがぎっちりと置かれている。


「よくまあこんなに……。うわ、このオレンジのとか、もしかして手作りか!? すげー!」

「えっへへ。頑張りましたっ」


 一星さんの口元が、ふ、と緩む。

 口がへの字になって、笑っているんだか困ってるんだか分からない一星さんのその表情は、私の一番のお気に入りだ。


「ぶっちゃけ、お前からチョコもらえるかなーとかは思ってたけど……ここまでとは……!」

「念の為ですけど、他に誰からもチョコもらってませんよね!? 義理とか友チョコとかもだめですよ本命なんてありえませんしもしもらっていたらそのチョコを燃やします」

「いやもらってたらもっとハイテンションで帰ってくるわ……」

「良かった。いっぱい用意しましたけど、チョコは腐りませんし、何なら会社の人に配ってもいいですよ」


 さすがにぜんぶ食べられるとは思っていない。たくさん用意したのは、一星さんの口に合うものを見つけたかったからだし。


 そう思って言ったのだが、意外にも一星さんはきっぱりと、


「え、やだ。これ俺がもらったチョコだもん! 俺がぜんぶ食う!」

「……一星さぁん……♡♡」

「え? あ、いや、お、お前からもらったからじゃないからな!? モテない男からするとだな、せっかくもらったチョコを他人にくれてやるなんて、言語道断なわけ! わかる!?」


 これだから一星さんは好きなのだ。

 重い、と言われてしまう私の愛を、こうやってさり気なく受け止めてくれる。まあ、たいていは流されているんだけど。

 でも、こうして大事にしてくれる瞬間があるから、うれしい。


 夕飯のあと、一星さんは一つ一つ包みを覗いていった。

 買ってきたチョコは、その綺麗さにすげえなあとため息をこぼすばかりで、口にしようとはしなかった。

 けれど、私の手作りのブラウニーを見ると、子どもみたいに顔を輝かせる。


「あ、俺これ好き。初めてもらったバレンタインチョコがさあ、このチョコケーキだったんだよ。懐かしいなあ」

「……知ってます。あとそれチョコケーキじゃなくてブラウニーです」


 知ってるけど。知ってるけど、そんなに嬉しそうな顔をされるのは、面白くない。


「なんで知って……って、また母さんがリークしたな? まあいいや、これ食っていい?」

「もちろんです! 生クリームとかフルーツも添えますね」


 そう言ってキッチンに立つと、一星さんがのそりと私の横に並んだ。身長がちょっと高くて、猫背なのが可愛い。


「んじゃ俺、コーヒー淹れるわ」

「! あの、見てていいですか?」

「ん? 社畜のコーヒーシーンなんて見ても楽しくないぞ」

「ううん、私は楽しいです。早く早く。あ、私のカップはそれじゃないです、ピンクの方です」

「いつの間にマイカップを……!」


 一星さんが豆を丁寧に挽く。いや、手付きは男の人らしくぞんざいで、がちゃがちゃとやかましいのだけど――。

 どうしてだか、一星さんはコーヒーを挽くときだけ喋らない。唇をしっかりと引き結んで、まるで何かの儀式みたいにしてコーヒーを淹れてくれるのだ。


 沸かしたお湯でカップを温めるときも、細長いケトルでドリップするときも、一星さんは真剣だ。喋ったら魔法がとけてしまうかのように、話さず、ただ立ち込める湯気を見ている。


 私が話しかけたら言葉を返してくれる。けれどこの時ばかりは沈黙を選ぶ。


 コーヒーを淹れているときの一星さんが、一番「素」だと思うから。

 疲れ果てた社畜でも、25歳の大人でも、社会の歯車でもない、ただのおとこのひとになっているから。

 それを見ているのはたのしい。

 まるで、私にだけ許されているみたい。


「……うっし。こんなもんかね」

「ありがとうございます」


 ほんとはコーヒーって、あんまり好きじゃない。一星さんのコーヒーが美味しいのかまずいのかも、正直言ってわからない。


 ブラウニーと生クリームの甘みでごまかしながら、黒い液体を呑み下す。一星さんは美味しそうにコーヒーを飲んでいる。


「このチョコケーキ、もしかしてクルミ入ってるか? めっちゃ美味い……!」

「ちょっと大人な感じでしょう?」

「うん、歯ごたえがあっていいな。うわー、美味い、生地もしっとりしてるし!」

「えへへ」


 一星さんはリアクションが良い。美味しいところを素直に口にしてくれるのは、恐らくあのお母様の教育の賜物だろう。


 うまいうまいと言いながら、一星さんはブラウニーを平らげる。

 初めてのバレンタインチョコの記憶は上書きできただろうか? 美味しかった思い出が、ずっと一星さんと私を繋いでくれればいいのに。


 そう願いながら私は、ブラックコーヒーを飲み干した。


 そうだ、大事なことを言い忘れていた。


「一星さん」

「んー?」

「すきです」


 へにゃり、と困った笑み。

 何も言わない一星さんは、分かってるだろう? とばかりに肩をすくめる。


「ありがとな」


 それが返答でないことを知りながら、涼しい顔してそう言ってくる一星さんは。


 悪い――おとこの、ひとだ。

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