風邪ひきのためのチーズリゾット

 今日も今日とてド残業の末、夜の十時頃に退勤した。

 昼飯、まともに食えなかったから、夜はがっつりしたの食いたいな。

 既にひかりが家にいる前提で飯のことを考えながら、アパートの階段を上った。


「……あれ」


 家の鍵がかかっている。よく見れば部屋も真っ暗だ。

 いや、それは当たり前のことなのだが。


「……ひかり?」


 なんだ、今日はいないのか。

 がっかりしかけて、慌てて首を振る。ストーカーの不在にがっかりするとは何事か。ここは安堵すべきところだろう!


 鍵を開けて、部屋に入る。ひんやりと冷え切った室内のそっけなさときたら。いやいや、これが普通なんだってば。

 うがい手洗いを監督する声はないが、服を脱ぎ散らしても拾ってくれる優しい手はない。

 物足りなさを感じながら冷蔵庫を開ける。


「ひかりがいると思ったから、コンビニ寄ってねんだよな……。あー、カップ麺もねえ」


 元々買い置く習慣もなかったのだが、僅かに残っていたカップ麺類も「ジャンキーなものはだめです!」と、初期の頃にひかりに片付けられてしまったのだ。

 ああ、カップやきそばのソース味が今猛烈に恋しい。


「……つーか、ひかりはどこ行った?」


 基本的にひかりは俺の家にいる。(それもアレだが)

 ほんとうにリアルで誇張なく毎日俺の家にいるわけだが、稀にどうしても抜けられない用事があるというときは、俺にメッセージを残す。

 それに、飯も三食しっかり作り置きしていってくれるし、なんなら愛情たっぷりピンクのハートマークのせ弁当も作ってくれるし、というかそもそも俺の交通ICカードから行動は筒抜けだしタイムカードもばっちり見られてるし、大前提として監視カメラが俺ん家にはあるし、ということで、なんというかまあ、いつもそこにひかりの気配があるのが普通なのだ。


 なのに、今日はそれがない。


「それを物足りなく思うってことは、俺もあいつの術中にはまってんのか、それとも愛の重さとやらに慣れちまってんのかねえ……」


 後者は避けたいところだが。はてさて。


 水でも飲んで寝るか、とむなしい選択肢をとろうとしたとき。

 隣の壁が、どんっという音を立てた。こっちはーーひかりの部屋の方だ。


「……ひかり?」


 返事はない。まさかーー泥棒か? それとも、声を上げられない状況にあるのか。

 俺はとっさに靴をつっかけて、隣の部屋の前に立った。


「ひかりー?」


 ドアに手を伸ばせば呆気なく開いた。部屋は真っ暗だ。

 ごくん、とつばを飲み込む。何だか尋常でないことが起こっているのは分かった。

 恐る恐るドアを開け、壁に手を這わす。確か俺ん家も、この辺に明かりのスイッチがあるからーー。


 ぱちん、という間の抜けた音と共に視界がぱっと明るくなる。

 シンプルな室内の、そこだけ派手なフリルだらけのベッドカバーで覆われたベッドの上には。

 額に冷えピタを貼って、ぐったりした様子のひかりの姿があった。布団をはだけて足を投げ出しているところを見ると、さっきのは足が壁にぶつかった音だろう。


 ひかりは俺の方に視線を向け、へにゃりと笑う。顔が真っ赤だ。


「わあ……ついに幻覚が見える……でも、一星さんなら、幻覚よりほんものがいいなあ……」

「本物だぞー」

「うぇへへ……一星さんは今日、六時に上司さんから用事を頼まれたから、こんなに早くは帰ってこれないよー……」

「もう十一時なんだが」

「……お昼の?」

「んなわけあるかい。夜の。つかもう十一時半?」


 そう言うとひかりは、だぼだぼのパジャマ姿で、弱々しく叫んだ。


「みゃぁあっ、ば、晩ご飯、つくってないです……」

「あのなあ、俺は風邪っぴきにメシ作らせるほど落ちぶれちゃいないぞ。つーかお前こそなんか食った? 病院行ったのかよ?」


 けほ、と咳き込んだひかりは、テーブルの上に置かれた薬袋を指さす。ああ、病院はちゃんと行ったのか。よしよし。


「薬は飲んだか?」

「まだれす……今日、おかいものも行けてなくって」

「その体調で行くなって。つか何か食わねえと薬飲めないよなー……」


 俺はひかりの家の台所に足を踏み入れる。さっぱりぴかぴか、というか、ほとんどものがなくて使われていないようだ。

 ま、こいつ自分ん家のものほとんど俺ん家に移動させてるからな。


「あるのは米と調味料類、あと冷えピタ、ねえ」


 てことは、俺んとこの冷蔵庫にあったやつを組み合わせれば、アレが作れるのでは?

 そう考えていると、ひかりが起き上がって、咳き込みながら、


「あの、一星さん、ご飯作れなくてごめんなさい」

「あーあー、寝てろってお前、ふらふらじゃん」

「一星さんのお部屋のお掃除もできてないんです、おふろも入れられてなくって、わたし、なんにも……」


 言いながら、足がもつれて転びそうになる。慌ててその体を支えたら、ふにゃ、と柔らかな感触がふれる。これ、たぶん、ブラとかじゃなくて。なんにもつけてない、生の感触ーー。


「うわ、ごめ、胸……ってかあっつ!?」

「きゅうう……」


 こりゃだめだ。冷えピタもぬるくなってるし。

 俺はひかりを引きずるようにして(社畜は美少女をお姫様だっこする余力もないのだ)ベッドに運び、布団でぎゅむぎゅむにくるんだ。

 冷えピタを取り替えてやり、それから一度家に戻って必要なものを取ってきた。


「ひかりー、台所借りるなー」

「はい……すみません、作ってあげられなくて」

「いやこれお前のだから」

「……はえ?」

「お前に作んの。おかゆ的なやつ」


 そう言うとひかりがちょっとだけ不安そうな顔になったので、寝てろと言い残して台所に立った。


「さーてまずは米をそのまんま炒めて、っと」


 フライパンに油も引かず生米をじゃっと流す。ここでごま油とかで炒めると美味いんだろうけど、病人にごま油はちょっとね。ていうかこれから入れる牛乳と破滅的に合わないし。


「米が透明になってきたら~コンソメキューブとコップ一杯ぶんくらいの牛乳をイン、っと」


 しばらくぐつぐつ煮込む。おかゆくらいの柔らかさになったら、スライスチーズを入れた。明日の朝食用のラスト一枚、残ってて良かった。

 米とチーズが絡み合い、良い感じの粘り気が出てきたところで、塩コショウで味付けして、ついでにちょびっと残ってた小ねぎなんかを入れてみる。


「悪くないな」


ひかりの分だけ皿によそって、ベッドまで持って行ってやった。

 味付けとか適当だけど、まあ風邪っぴきにはあんま分からないだろ。


 でも、暖かい米の匂いは分かったらしく、ひかりがベッドの上でもぞもぞしだす。


「……わ、これ、リゾットですか?」

「チーズリゾットもどき、かな。まーとりあえず何か腹に暖かいもん入れときゃ、薬も飲めるだろ」


 起き上がるのを手伝ってやる。熱でぼうっとした顔は、どこか幼げだ。

 じっと俺の手元を見ているので、リゾットをすくったスプーンを口元に持って行ってやった。もちろん冗談のつもりだった。


 けれど、ひかりがぱあっと顔を輝かせて、無防備に口を開けるものだから。

 俺は親鳥のまねごとをしなければならなくなった。

 冷えピタを貼って、ぼうっとした目の美少女に、お手製のリゾットもどきを食わせる。なんだこの展開。


「一星さん、これ、おいひいれふ……! 牛乳がやさしい味で、あったまります」

「味薄いか?」

「だいじょぶです、あんまり味が強いと、ちょっとつらいかも」

「だよなー。俺はこれにツナ缶ぶっ込んで食う予定」


 そう言うとひかりがほっとしたような顔になった。


「よかった、食べるもの、あるんですね……!」

「そらあるわ。つか腹減ったらコンビニ行くくらいの知恵もあるわ」

「わたしがいるのに、コンビニ飯なんて、ぜったいにだめです」


 熱のせいか、どこかたどたどしい口調で言うひかり。いつもの病的なまでの執着心が緩和されて、なんというか、その。


 ーーかわいい。


 いやまあいつもかわいいんだけど。かわいさ<執着心って感じで、ちょっとヤンデレ味の方が勝っちゃってるっていうか。あんこ七、皮三のまんじゅう食ってるみたいな感じっていうか。


 ともかく、いつもの毒気が抜けたひかりは、ほんとうにかわいかった。守ってやりたくなる。


「ん、全部食えたな。気持ち悪くない?」

「ごちそうさまでした。だいじょうぶです」


 ひかりが薬を飲んでいる間に、アパート前の自販機まで走って、ポカリを買っておいた。

 戻ってくると、ひかりが台所に立っていた。寝てろってのに。


「あ……一星さん、これ、飲んで下さい」

「ん? 緑茶?」

「うめぼし入りです。気休めかもしれませんけど、おちゃにもうめぼしにも、殺菌作用があるので」


 風邪、うつしちゃうといやだから。

 そう言ってひかりは俺に湯飲みを押しつけると、のそのそとベッドに座った。そうして、ゆるりとパジャマの裾に手をかける。


「あつい……」


 持ち上げられたパジャマの下には、うっすら汗ばんだ真っ白なお腹と、ゆわんとした丸みを想像させるような、下乳のラインが見えた。


「うおお」


 慌てて後ろを向く。湯飲みを持ったまま立ち上がろうとすると、汗ばんだ体がくにゃりと俺の背中にしなだれかかってくる。


 こいつ。

 上、脱ぎやがったな。


 何で分かるかと言うと、胸の感触が直に伝わってくるからであります。


「一星さん、きょう、とまってきません?」

「……」


 ごくん、と唾を飲み込んでしまった自覚はある。

 けどそれは、俺が空腹だからだ。

 無論、胃袋的な意味で。

 だから俺は、大人として、きちんと首を振った。


「んじゃ俺、戻るわ。今日は風呂やめとけよ」

「……むー」

「むー、じゃないの。風邪っぴきに手ぇ出すほど落ちぶれちゃいないのよ俺も」

「じゃあ、治ったら」

「未成年に手ぇ出すほど以下略」

「……むー!」


 俺は慎重に静かにひかりを振り落とすと、彼女の方を見ないように台所に言って、リゾットが残っているフライパンを持つと、再びひかりの方を見ないようにしてドアの所まで行く。

 片手に湯飲み、片手にフライパン。間抜けなかに歩きであることは自覚している。


 そうでもしないと、この雰囲気をふり払えそうになかったのだ。


「何かあったら壁叩いて呼べよ」

「ひとばんじゅう、叩いちゃうかも」

「んじゃ一晩中駆けつけてやるから。何度でも、俺のこと試して良いから」


 風邪をひいているとどうしても人恋しくなる。それにひかりのことだ、何度も何度も俺を呼ぼうとしたって無理はない。

 そしたら、その全部に応えてやるつもりだった。どれだけ壁を叩かれても、どれだけ俺の言葉が試されても、すぐに駆けつけてやろうと思った。


 「……なら、とまっていってくれたって、いいのに」

 「それはだーめ」


 俺はひかりの部屋を出た。鍵かけろよ、と言うと、少し遅れて施錠の音が聞こえた。


 自分の部屋に戻って、リゾットにツナ缶をぶち込んで食う。淹れてもらった梅干し入り緑茶は、酸っぱくてぬるかった。

 適当に服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びて、布団に潜り込むと、なんだか体からふわりと甘い匂いがする。


「……うわ」


 部屋着兼パジャマのスウェットの、背中のほう。

 そこから、ひかりの匂いがするのだ。

 もっと言うなら、ひかりの汗の匂いだ。


「うわー、わー……」


 いろいろな感触を思い出しそうになるのを、頬の内側を噛んでこらえながら、俺はきつく目を閉じた。


 そうするとますます眠れなくなるって、知っているのに。

 その晩、壁が叩かれることはなかった。


 *


「おっはようございまーす!」


 翌朝、部屋に乗り込んできたひかりはいつものひかりだった。


「昨日はありがとうございました! おかげさまでっ! 岩手ひかり、すっかり全快ですっ!」

「……そらよかった……」

「昨日のお礼に、今日は駅前のパン屋さんでフランスパンを買ってきました! 生ハムときゅうりとトマトを挟んで美味しいサンドイッチ作りますね、スープはクラムチャウダーで、ぱりっと爽やかなクレソンのサラダもつけちゃいます!」


 いったいいつの間にどこでそんな食材を仕入れてきたのか。

 そう思いつつも、俺の家の台所できびきびと動く彼女を見ていると、何だか沸き上がるような喜びを覚えた。

 彼女の背中で、一つに束ねた髪が跳ねている。朝の光を受けてきらきら輝くそれは、何だかとても貴重で、大事で、この一瞬しか見ることのできない、奇跡みたいに思えた。


 この光景をずっと見ていたい。

 それを言い訳に布団に潜り続ける俺の元に、ひかりがやってくる。しゃがみこんで、布団をまくったひかりはにっこり笑っている。


「ね、一星さん」

「うぅ……起きる、起きます」

「すきです」


 秘密を手渡すかのような悲壮感と共に告げられた言葉の、あまりの切なさに、眠気も忘れて顔を上げる。

 ひかりの瞳が朝日を受けて潤んでいる。


「何度でも試して良いって、言ってくれて、ありがとう」

「……」

「すきです。一星さん。……それだけ」


 一瞬、泣き出すかと思うほどに顔を歪めたひかりは、けれどぱっと表情を切り替えて笑う。


「さ! 早く起きないと、朝の会議に遅刻しちゃいますからね。今日の会議のチェアパーソンの人、遅れるとうるさいんでしょ?」

「……っだからお前はどーして会議のチェアパーソンまで把握してるんだ!?」

「それは勿論、一星さんのことだから、ですっ!」


 そう言い放ったひかりは、誰よりも誇らしげだった。

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