シーン 1【刃、未だ鈍く】PART1

 その背中はどこまでも遠く、大きなものだった。

 追い駆けて、

 追い懸けて、

 それでもなお遠ざかるその背中に、私の手が届くことはない。


 ──そう、思っていた。


――――――――――――――――――――――――――――――


 【刃、未だ鈍く】



 ……深く息を吸い込み、流星ナガセはゆっくりと目を開けた。


 目に映るのは、見慣れた稽古場の風景。磨り減った板張りの床、広々とした室内。そして、稽古場の奥に立つ木製の人形。打ち込み台として用いられるそれには、使い古された鎧が被せられている。

 

 腰に佩いた太刀を引き抜き、上段に構える。

 一歩。二歩。

 摺足で打ち込み台との距離をつめながら、集中を高めていく。

 数秒の静寂。

 

 「……ッ!」


 右足からの鋭い踏み込み。

 鎧の肩口目掛け、太刀を振り下ろし


 ──金属同士がぶつかり合う音が、稽古場に響き渡る。


 「……駄目、か」


 ぼそりと、流星は呟く。

 両の手に握られた太刀は、打ち込み台に被せられた鎧に切り込み──そのまま打ち込み台に届くことなく停止していた。


 これが実戦であれば──打ち込み台ではなく、鎧を纏った武士が相手ならば──敵の刃が、動きを止めた流星の身体を貫いていたことだろう。


 (……未熟。姉上ならば、鎧ごと両断できただろうに)


 表情に悔しさを滲ませながら、太刀を引き抜いて鞘へと納める。

 飛び散った破片の片付けに移ろうとして、稽古場の入り口に誰かが立っていることに気付く。

 それは──


 「姉上……」


 「久しぶりね、流星」


 その女性──名雪は、穏やかな微笑みを浮かべながら佇んでいた。


――――――――――――――――――――――――――――――


 流星と名雪は姉妹である。実の父親はそれなりに名の知られた武士であったが、十数年前に流行り病によってこの世を去った。

 身寄りもなく、そのままでは路頭に迷うしかなかった二人を救ってくれたのが渡辺綱──現在の義父であった。


 勇猛な武士であったという実父の影響か。それとも幼い頃から寝物語として聞かされてきた養父 渡辺綱の武勇伝の影響か。二人は女だてらに剣の道を選び、鍛錬を続けてきた。


 「お久しぶりです、姉上。義父上に何かご用事でも?」


 不甲斐ない剣を見られた、という羞恥心を押し隠しながらも名雪へ問いかける。

 二年前、検怪異使けがいし──京の怪異・物の怪を討伐する秘密機関──の一員となった名雪はこの屋敷を離れ、自身の邸宅に移り住んでいる。そんな彼女がこの屋敷にいるということは、義父である綱への用事があった考えるのが妥当だろう。


 「用事と言えるほどのことではないの。近くを通る用事があったから、義父上の様子を見に来ただけ」

 

 そう語る名雪の表情は少し暗い。

 無理はないだろう。現在、義父である綱は重い病を患っているのだ。数ヶ月前に倒れ、それ以降は屋敷の奥に臥せり続けている。齢七十を超え、近年は体調を崩すことも多かった綱ではあるが今回の病は今まで以上に深刻なものに思えてならない。


 「……心配のし過ぎですよ、姉上。義父上は渡辺綱なのですから、すぐに良くなってくれますよ」


 「ええ、そうね。気に病み過ぎても、義父上に叱られてしまうわね」


 不器用な慰めに、不器用な強がり。そんな姉妹の会話に気まずさを感じた流星は、話題を切り替えることにした。

 

 「ところで姉上、まだ御時間はありますか?」


 「え、もうしばらくしたら出ようかと思っていたけど何か用かしら?」


 戸惑う名雪に一度背を向け、稽古場の壁に歩み寄る。そのまま壁際の棚に備えられた木剣を掴み、名雪へと差し出す。


 「久々に会ったのです。姉上、稽古をつけてくださいよ」


 「……ふふ、そうね。やりましょう、流星」


 どこか懐かしげに微笑みながら、名雪は木剣を受け取る。


 憤怒、悲嘆、苦悩。

 姉妹は剣の鍛錬に打ち込むことで、それらの感情と向き合ってきた。武士にとって剣とは只の技術わざではなく、己が人生と寄り添う相棒ともなのだ。


 稽古場の中央。姉妹は、木剣を手に向かい合う。


 構えは同じ。右足を前に、踵は浮かす。剣は左手の小指と薬指のみで把持し、右手は添えるように。

 剣術の基本となる──幼き日、綱から最初に教わった構え。


 「────」

 

 呼気を整え、感覚を研ぎ澄ませていく。

 視覚だけではない。聴覚・触覚、そして直感すらも駆使して名雪の初動を予測する。


 (狙いは──右か)

 

 先に動いたのは名雪であった。

 姿勢を落としながら、小さな弧を描くような動線で流星の右側面へと走り込む。軌道は流星の読み通り。だが、その速度は予想を上回っていた。

 高速で迫りくる名雪に目を剥きつつも、木剣を右側へ動かし防御の構えを取る。


 名雪は、瞬く間に間合いへと到達。流星の脇腹へ叩きつけるように、右片手による逆袈裟切りが放たれる。

 

 「くッ……!」

 

 木剣同士のぶつかり合う音が、稽古場に響き渡る。

 防御は間に合った──辛うじて、と言ったところだが。流星の木剣は、右脇腹の直前で名雪の木剣と噛み合い攻撃を受け止めた。だが、不安定な姿勢での防御ゆえに流星の身体は大きく後方に飛ばされてしまった。

 咄嗟に姿勢を整え、転倒するような無様は避けられたものの、その時間は名雪へさらなる攻撃手番を与えてしまう。


 初動を完全に読み切り、先んじて防御に動いたにも関わらず差し込まれた。その理由は明白、名雪と流星の間には初動の早さを覆すほどの身体能力の差があるのだ。


 女としても小柄な名雪だが、その身体能力は並の男を遥かに凌駕していると言われている。対する流星も鍛錬は重ねているが、人並み以上と自信を持って語れるほどの身体能力はない。


 再び、名雪が距離を詰めてくる。

 袈裟斬り。下段払い。切り上げ。嵐のような連撃に、必死に喰らい付き防いでいく。


 速く。もっと速く。

 そう思えば思うほどに、彼我の速度差を思い知らされる。焦りは心の乱れを誘い、攻撃の予測も不確かなものとなっていく。

 

 何度目かの攻防。名雪は木剣を最上段に振りかぶる。

 頭部への振り下ろし。そう予測し、側面に回り込もうとしたところで気付く。

 ──だが、もう遅い。


 膝を折りたたみながら、鋭く螺旋を描く名雪の身体。

 最上段からの振り下ろし──そう見せかけた薙ぎ払いへの変化。横殴りの風となった木剣が、流星の身体に叩き込まれた。


 「……ぐぁッ!」

 

 宙を舞う感覚、そして墜落。

 痛みに震える身体に鞭打ち、よろよろと立ち上がる。


「私の勝ち。うん、流星も大分強くなったね」


 木剣を手に満面の笑みを浮かべる名雪。

 その性格からして、嫌味などではなく心からの称賛なのだろうけど。


 「この結果じゃ、素直に喜べませんよ……」


 「そうかなぁ? 最後はちょっと焦っちゃったみたいだけど、私の動きもよく見ていたみたいだし」


 「小細工ですよ。速さも力も、姉上には遠く及びません」


 なにせ、文字通りの防戦一方なのだ。初撃から決着まで、流星は防御のみで一度の攻撃すらできていない。

 更に言うなら、これが実戦であれば初撃で勝敗は決まっている。

 名雪の秘奥 “焔太刀ほむらだち”。刀身に焔を纏わせ放たれる斬撃は、あのような不出来な防御など真正面から斬り伏せてしまうだろう。結局の所、勝負にすらなっていなかったと言うのが流星の感想だ。

 そんな流星を見つめながら、名雪は何かを思い出すような表情でぽつりと呟く。


 「“剣とは、肉や骨だけで振るうに非ず”」


 「姉上……?」


 「昔、義父上が仰っていたことよ。私には向いてなかったけど、流星には役立つかもしれないわね」


 自分で意味を考えてみなさい。

 そう続けながら名雪は稽古場の入り口へ歩み去る。言葉の考察は一度止め、名雪を見送る。


 「姉上、今日はありがとうございました。良ければ、また稽古をつけてください」


 「もちろんよ、流星。また会いに来るわ」


 昔から変わらない優しい笑顔。

 どこまでも暖かくて、輝かしい光。


 ──それが流星にとって、最後に見た名雪の姿だった。









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