泡沫世界逃亡

キジノメ

泡沫世界逃亡

 ふと、窓辺の花が咲かなくなった夜のことを思い出した。

 そんな前では、ないはず。昨日の話だったと思う。確か昨日の夜にはもう、咲いていなかった。じゃあいつから咲いていなかったんだっけ、あの黄色い花を見た最後は、えっと。

 最後に見た黄色い花弁を思い出そうとした途端、記憶が水のように流れて、あやふやになる。あれ、ほんとうに? 枯れたのは昨日のこと? 今日まで、咲いていたっけ。枯れたのはついさっきだっけ? 窓の向こうの夕暮れが、くたりとしぼんだ花を照らしている。植木鉢ばかり、照っている。

 窓辺の茶色いレンガの植木鉢には、枯れた月見草が一輪。もらった花だった。『夜更かししている渚さんにはちょうどいいね、それは夜咲く花だから』

 可笑しそうに笑う、のあからのプレゼント。花を愛でる趣味は正直ないけれど、いただいたものだからちゃんと咲かそうと思った。

 だから水をあげて、時に花屋に行って栄養になるという薬を買って、そうやって育ててたのに、あれ、昨日、水をあげたっけ。昨日。昨日っていつだ。昨日は今からずっと前の時間。水を、水をあげたっけ。昨日を思い出そうとするのに、あれ、あれ、あれ、という言葉が浮かぶばかりで、何も思い出せなかった。昨日したことも、食べた物も、話したことも、水を、あげたことも。

 あ、れ。

 握っていたペンが滑って、頼まれていた書類にずずずと一本の線が引かれる。手を止めないと。言葉だけが脳裏に浮かび、手が止まらず、ずずず、と紙の端までペンが滑っていく。

 水をあげたっけ。今日、何をしたっけ。

 ぼくはいま、何をしないといけないんだっけ。

 眼鏡をかけているのに、ぐらりと視界が歪んだ。う、と胃液がせり上がる気がして思わず口を押えた。身体から力が抜けて、ひじ掛けのない椅子から転げ落ちる。水を、あげたっけ。水を、あげたっけ。何を、しないと、いけないんだっけ。

 資料は? 資料。やったよ。でも完成してないよ。ほら、ほら、立ち上がって早くやらないと。明後日が〆切だよ。迷惑かけるよ。勉強は? やらなきゃ、やらなきゃ、大学生の本分は勉強だって誰かが言っていた。勉強していないお前はなあに? ほら、ほら、水もあげられなくなってこうやって倒れて自己管理はどうしたの? ほら、ほら、ほらほらほら、

 冷静なぼくがどこかで呟く。この感覚は知っているだろうって、このままほっとくと面倒なことになるぞって、こういう時、ひとりで解決しようとしたってダメだって、救いを求めなよ、動けるだろ。早く、だめになってしまう前に。ぼくが潰れないために今、動いて。

 言葉に従って、立ち上がる。案外すんなり立ち上がれるもんだから平気だと思ったけれど、相変わらず脳が何も回らない。水を、水を、水を?

 水じゃなくて、連絡を。こうやっておかしくなった時に頼れる人へ、連絡を。


『のあ』

『今、そっち行っても平気?』


 財布と、スマホだけ持っていけばいい。鞄から財布を取り出している間に、バイブが鳴った。


『逃走したいなら、どうぞ』

『今なら非常食にお鍋の提供があります』



 

 うろ覚えの記憶を頼りながら電車に乗って、一駅先で降りて、徒歩十分。

 西日が目をつんざいて、じりじりと視界が焼けていった。帰宅を急ぐ人たちが、ちらりとぼくを見て通り抜けていく。目を瞑れば真っ赤な景色が黒ずんでいく。ずっとこんな暗闇がいいなと思ってしまった。足を止めたい。実際に止めてみる。水が、水が、水が、という言葉は未だに頭の中で鳴り響いていた。

 水だけじゃないのに。今日のこと。昨日のこと。しないといけないこと。したいこと。明日のこと、未来のこと。未来。未来。

 なんで、ここにいるんだろ。どうしてわざわざ人の家に行くんだろう。

 帰りそうになる。けれど帰る一歩を踏み出すのすら、しんどい。しんどい、と口に出したら、ああしんどいんだな、と目頭が熱くなった。泣きはしない。泣きはしないけれど、しんどい、な。

 ぼく、帰るべきかな。

『先輩、先輩。あなたは変に真面目だから、世界から逃げることがとっても下手なんです。だから、動けなくなったらどうぞ、私の逃避行に付き合う権利をあげますから、家に来てくださいよ。一緒に逃げますよ』

 そういえば初めて家にお邪魔した時、のあはそんなことを言っていた。

 いいかな。許されるかな。

 一歩、足を踏み出す。踏み出せば固まっていた身体は案外、油を刺した歯車みたいにちゃんと動く。確かこんなところ、と西日で長い影を作ってるマンションのエレベーターに乗って、三階へ。てっぺんの部屋は嫌いだと、のあは言っていた。「何か降ってきたらどうするんですか渚さん」「地震で入口が開かなくなったら、飛び降りないといけないんですよ?」

 三階の角部屋。角部屋が好きだと言っていた。囲まれるのは嫌なんだと。世界から逃げる時に、囲まれた部屋はとても都合が悪いんだと眉を潜ませ言っていた。


 ぴんぽん


 間の抜けたインターホンを鳴らせば、のあがすぐにドアを開けた。ふわっと、キムチと豚肉の匂いがした。

「どうも先輩、こんばんは。とりあえず鍋です。鍋」

 早く、と手招きされるから、慌てて靴を脱ぐ。玄関とリビングの間にあるキッチンの脇を通りながら、お邪魔しますと言い忘れたと気が付いた。

「お邪魔、します」

 声がかすれ、咳が出る。そういえば、いつから水を飲んでいないんだろう。

「またそんな枯れそうな声をしてますね、渚さん。そこに座ってください。そして私は水を取ってきます」

 ぴしりと指を差されたのは窓側の座布団。また何か言ったら咳込みそうだから、頷いて座る。

 机の上には、コンロにセットされた鍋がぐつぐつ煮えている。赤い。キムチ鍋、らしい。豚肉と、豆腐と、にらと、白菜と。もやしも入っている。美味しそう、と思ったら小さくお腹が鳴った。いつから食べてないんだっけ。なんだか全部ぼんやりしていて、ただお腹が空いたなと、そう思った。

「なーに正座してんですか、緊張ですか、すでに数回来てて今更緊張ですか。足崩してくださいよ。痺れますよ」

 言われて正座していたことに気が付いた。足を崩す。目の前にお椀とコップが置かれる。ありがとう、と頭を下げて水をもらう。こく、こく、こく、と気が付けば全部飲み干していた。

「いい飲みっぷりですね、はい、おかわり」

 のあがコップを奪い、水を注いでくれる。

「ありがとう」

 次は一口だけ飲んで、置く。のあは手のひらを合わせて、鍋を食べ始めようとしていた。

 その時、バイブが鳴る。

 ぼくのが、鳴っている。心臓がどくりと鳴って、呼吸が変になった。置いてきた資料がよぎる。なんの連絡だろう。誰が送ってきたんだろう、緊急かな、なんだろう、ぼくは、なにをしないといけない? 今日までに、明日までに、そうだ、水を、いいえ、枯れたものに水はいらない、線を引かれた資料、パソコンに入ったデータ、

 ポケットから取り出したスマホは手から落ち、それを拾ったのはのあだった。

「あ」

「渚さん。逃げに来たんですよね」

 のあはサイドボタンを押している。電源を落としているらしい。

「じゃあ、今日は携帯を見てはいけません!」

 ぽい、とぼくの座っている位置からは届かないところに放り投げられる。

「はい食べますよ! よそいますか?」

「えっと」

「よそうので、待ってくださいね」


 鍋は、とても美味しかった。

 熱くて、はふはふと息を吐き出しながら食べれば、甘辛いキムチの汁が舌に絡んだ。豆腐は熱いけれど、キムチの濃さがまろやかになっていい。豚肉も味が良く染みていて、白菜もくたくたで、にらも濃い味がキムチに絡んで、もやしはしゃきしゃきしていて。

 美味しいな。

 美味しいけれど、目の前ののあは、どうしようもなさそうに喋っている。

「いいんですよ。私が全部やれば事は収まりますからね。けれど、どうして皆動かないんですかね? 全員が動いたらすぐ終わるんです。終わるのに、皆、誰かが始めることだけ待っているんです。もっと言えば、全部やってくれる人を。皆、それになりたいわけないじゃないですか。でも、誰も動かないんですよ!」

「うん」

「だから頑張りましたよ、私は。けど、それが他と同じ評価をされるんですか?私がやったことを皆自分の手柄にして? すっごい嫌。そうやって他者の評価を奪い取る奴なんて死んじゃえ」

 ばくり、とのあが白菜に噛みつく。ぼくは箸を置いてしまう。

 のあの話していることは、きっと誰もが経験していることだ。ぼくだって、同じような状況はたくさん、見たことがある。そしてそういう時、「はじめ」をすることがぼくは多かった。のあも、そういう人なのだろう。

 そしてこんな状況は、集まりの数だけあるんだろう。

 じゃあ集まりの数だけ「死んじゃえ」っていう思いが蔓延しているんだろうな。

 一言なにかを言えば、いいのに。そう思うけど、ぼくだって何も言わず、事を進めてしまう。そして他の何もやらない人に「こんなに自分はやっているのに」って怒って、恨んで。

 きっと簡単なことなのに。一言「手伝って」とか「ここをやって」とか、お願いすればいいのに。そんな簡単なことをできず、ぼくらは互いを憎み合って、簡単に「死んじゃえ」って言葉にして、そんな言葉の思いがこの社会をぐるぐる回ってて、

 ぐるぐる、ぐるぐる、社会に重たい相手を嫌う思いが渦巻いて、

 なんで、全部、上手くいかないんだろうね?

「すみません、愚痴っちゃった。先輩を泣かせたかったわけじゃ、ないんです」

 差し出されたティッシュがぼやけて見えた。

「ちょっと、ここ数日、すっごくいやになっちゃって。けど、先輩の涙見たら、自分が汚く思えちゃった」

 汚くないよ。だってのあが怒るのは、当たり前のことじゃないか。

 腕をあげて、ティッシュを掴んで、涙を拭きたいのに、動けない。手は箸を置いた形のまま、ぴくりとだって動かない。動けずにいたら、のあが拭ってくれた。

「渚さんはきれいな人ですね」

 そうじゃないよ。ちょっとの悪意で傷つく弱い先輩だよ。何もきれいじゃないよ。

 ぐす、と勝手に鼻が鳴る。ぼくは弱い。こうやって自分の思いにとらわれて、のあの怒りに共感も出来ない、弱くて自分勝手な、先輩だ。

 ごめんね、と謝ったけど音にならなかった。けれどのあは頭を撫でてくれた。どっちが先輩なんだろう。ぼくのほうが年下みたいだ。



 のあの部屋には、膝を曲げれば寝ころべるソファがある。一人暮らしをする時どうしても欲しくて、無理やり買って部屋に詰め込んだらしい。

 のあが言っていた言葉だけじゃなくて、水をやり忘れたこととか、残っている資料とか、そんな色々を思い出したら涙が止まらなくなった。のあが「先輩先輩ソファに横になっててくださいよ」と言ってくれたから素直に横になっていた。

 うつらうつらと半分寝ているような感覚。たまに身体がけいれんして、しゃっくりが出る。のあはかちゃかちゃと洗い物をしているようで水の跳ねる音もする。

 ごめんね、勝手に家にお邪魔して、寝てしまっている。

「いいんです、世界から逃げるんですよね? 逃げる時に何かすることなんて必要ですか?」

 でも、のあも、逃げるんでしょう?

「逃げますよ? これは逃げる準備です。私と先輩は世界から逃げる共犯者ですけど、これは私が逃げるために必要なことなんです。だから、いいんです」

 しゅんしゅん、なにか沸騰している柔い音がする。気のせいか、部屋の温度がふわりと上がった気がした。

 のあは、やさしいね。ごめんね。

「そういう時は、ありがとうって言ってほしいなあ」

 肩を叩かれる。腫れあがった瞼を開ければ、のあがにししと笑っていた。

 きみは、やさしいなあ。

「ありがとう」

「まーた声がかすれてる。ちょうど美味しい飲み物作ったんです。飲みます?」

「……うん」

「じゃあ一度起きてくださーい」

 ゆっくりとソファに座り直したら、のあがマグカップを差し出してきた。

「あったかい、生姜湯です」

「しょうがゆ」

「はちみつ入りです。スーパーで千円した、良いはちみつです」

「それは、良いはちみつだね」

「ええ。だからこれは、とっても美味しい生姜湯です」

 ふふん。鼻で得意げに笑いながら、のあも持っていたマグカップに口をつける。ならって飲んでみると、生姜の独特の風味と、柔らかな甘さが広がる。さっきのキムチからしたらとても優しい味で、ため息をついてしまった。

「美味しい」

「よかったです。私の得意料理なので」

「生姜湯?」

「ホットミルクも得意ですよ」

「温めるだけじゃないの?」

「はちみつの分量が重要です」

 ブイサインをするのあに、肩の力が抜ける。



 普段は、平気。けれどたまに、人の形を保てないほど、パンクしてしまう。

 春、パンクしたものの仕事も勉強も放り出せず、だからどうにか大学へは来て、けれど疲れてしまった。疲れたまま、何をしたのか全く覚えていない日がある。その時、ぼくはベンチで死んだように座り込んでいたらしい。通りかかったサークルの後輩ののあは、そのぼくを家に入れてくれた。

『先輩、先輩。あなたは変に真面目だから、世界から逃げることがとっても下手なんです。だから、動けなくなったらどうぞ、私の逃避行に付き合う権利をあげますから、家に来てくださいよ。一緒に逃げますよ』

『大丈夫です、大丈夫。今日だけ逃げるんです。明日、帰ればいいんです。ちょっとの間なら、誰だって許してくれます』

 その日眠れず、ただぼおっと座るぼくの隣で、のあは手を握り続けてくれた。人は肌を触れ合わせるだけで、気持ちを送れるらしい。昔見たテレビで、そんなことを言っていた。本当かな、と思っていたけれど、その時ようやく実感できた。

 あたたかかった。

 ずっと焦りでおかしなリズムになっていた呼吸が、ようやく落ち着いた。心臓も静かになった。

 状況は好転したわけでも、なにか進んだわけでもない。

 でも、いいんだよ、いいんだよ。その言葉でぼくは、その時生き返った。


『大丈夫、大丈夫。先輩、一緒に逃げましょう。ふたりで世界から逃亡するんです。素敵でしょ?』


 布団を二枚敷いて、それぞれに寝転がる。そうして手をつなぐ。大丈夫、大丈夫。のあと互いに声をかけ合いながら、誰からの連絡も鳴り響かず、しんしんと静かな部屋で、まどろむ。

「そういえば、ごめんね。花、枯らしちゃった」

「あらら。家に帰ったら、花を弔ってあげてくださいね」

 おどけたような口調だけれど、のあの手の力が強まった。握りしめる。大丈夫、大丈夫。

 花には、ごめんね、でも、ぼくも生きていかないと。

「うん」

「そしたらまた、花をプレゼントします」

 つないだ手の先からすこしずつ、すこしずつ。

 脳内を覆っていた色々なものが、すこしずつ。

 すこしずつ消えていく、いろんなものが、きみのも、ぼくのも。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

泡沫世界逃亡 キジノメ @kizinome

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る