人魚展示室

「人魚を見たい」


 と、彼女は言った。

 あちらへ、こちらへ行ったり来たりする彼女の話の主旨を掴むのはことだったが、どうも人魚を展示しているところがあって、それを友達から聞いたので、是非とも行ってみたい、とのことだった。

 どうせ、古式ゆかしく猿と魚のミイラをくっつけたような奴だろう。そんな気色の悪くてかび臭そうなもの、見に行って面白いのかと問えば、彼女は駄々っ子のように華奢な首を左右に振った。


「そんなんじゃないの。生きている人魚がいるんだって」


 ***

 

そんな夢物語、実在しないことは明らかだ。彼女の友達とやらは彼女をかつぎたいのだろうか。それとも、さすがに本物は無理でも、最先端のロボット技術をアレしてコレして、人魚のお人形でお茶を濁しているのか。

 あなたがいろいろ考えているうちにも情のない速さで時は進み、彼女とのデートの日がやってきた。

 勿論行先は、決まっている。

 くだんの「展示場」は、表通りを二本外れた雑居ビルに入っていた。なにやら込み入っていてわかりにくい場所で、彼女は友達からもらった住所のメモと手描きの地図を、あなたと一緒に矯めつ眇めつしながら、ようやくそのビルにたどり着いた。

 メモでは地下四階と書いてあるが、そのビルには表向き、地下は三階までしかないのであった。入口の看板で確認したのだから間違いない。

 怪しい。あからさまに。

 もう少しであなたの喉から出てくるはずだった言葉のあれこれ。きっと今はやっていないんだよ、仕方がないからここはあきらめて、違うところに行こう。機嫌、直して。欲しがっていた春の新作、あんまり高くないのなら買ってあげてもいいよ。

 だけれどそれらの言葉の群れは、あなたの口から出ていく機会を与えられなかった。

 ビルを見つけたことだけで嬉しそうな彼女はメモに従って、まっすぐ守衛さんに話しかけた。


「諸尾さんからの紹介なんですけど」

「ああ、はい。聞いていますよ。お二人ね」


 没個性的な顔立ちの守衛さんは、うすぼんやりと笑って椅子から立ち上がった。


 ***


 守衛さんに案内された先は、小汚いエレベーターだった。このビル自体綺麗とはとても言えないが、ここだけ築年数が違うのではないかというくらい、不安になる外見のエレベーターだ。


「ここから地下四まで行けますから」


 それだけ言い残して守衛さんはさっさといなくなってしまった。エレベーターのおどろおどろしさに、さすがに彼女もやや怖気づいた様子だが、それでもあなたの手を引いて、「行こ」と促した。

 ここまで来てしまっては、引き返すのもなんだかまずい気がして、あなたはボタンを押した。確かに地下四階の表示が、ここにはあった。

 エレベーターが来るまでが永遠のように感じられる。いっそこのまま、故障か何かで来なくって、運が悪いねと彼女と帰れたらいいなとすらあなたは思った。

 残念ながらエレベーターは来てしまった。

 扉が開く。

 まず目に入るのは汚い鏡。傷だらけの壁。そして乾いた血のような色の床。情けないとは思いつつ、彼女に手を引かれて、中に入る。ゆっくりと扉が閉まる。

 退路は断たれた。


 ***


 四階に降りるとそこは別世界だった。

 テレビで見るような今風の水族館を、さらにお洒落っぽくしたような雰囲気だ。周り中、深い藍色に沈み、要所要所の照明も味気ない蛍光灯ではなく、色彩にまで工夫をされて、ムーディな雰囲気を演出している。水族館にはつきものの、あの魚臭い匂いもない。むしろ微かに、香水のような甘い香りすら感じる。これで磨き抜かれた長いカウンターがあったら、しゃれたバーのようですらあった。

 カウンターはあるにはあるが、切符の販売所の小さいもののみである。

 そこだけは普通の水族館のように「大人二枚」で切符を買った。一人千円。価格も水族館並みだ。どことなく守衛さんに似た、地味な制服を着た女性が切符を渡してくれる。切符さえ持っていれば、当日の再入場も可能とのことだ。

 すっかり元気を取り戻した彼女が、早く行こうとあなたをせかす。エレベーターにおびえていたのを、なかったことにしたいみたいに。

 受付を過ぎて、少し行くと、いくつか水槽が見え始めた。小さく歓声を上げてその一つに近寄る彼女。あなたも後を追う。彼女は当惑と恍惚を練り合わせたような表情で水槽に見入っている。そんなにすごいものなのかと思いつつ、あなたはようやく水槽の中の「もの」を見た。

 人魚だった。

 人魚に、違いなかった。

 だけれど、あなたの想像する人魚とは、少しばかり形が異なっていた。

 人魚と言えばあなたでなくても、大半の人は美女(あるいは美少女)そのままの上半身に、魚の下半身という姿を想像するのではないだろうか。その認識は半分正解で、半分間違っていた。

 水槽の中の人魚は、腿の半ばからが「人魚」だった。青白い、それでも人間の肌に違いない腿の半ばで足は合わさり、角度によってきらきらと、色さまざまにきらめくうろこに覆われている。その果て、ちょうど両足首を合わせたような太さのあたりから、足を果てしなく薄く引き伸ばしたような尾鰭が水流になぶられて力なくたゆたっている。

 腿の半ばからの人魚であるならば当然、人である部分は余計に多いわけで、途中でつながる腿の間、隠されるべき場所は柔毛を水流に嬲られるまま、剥き出しになっていた。

 逆に人ならざる部分も多くあり、その水槽の人魚の場合、それは手だった。人の手にしてはやたらに大きく指細く、被膜が張って小刀のような爪が生えているところなど、人間よりも水鳥や、その手の生き物に近そうだった。

 そんな「人魚」の外見よりも度肝を抜かれたのは、人魚が「縛り上げられている」という異様な事実だった。

 ただ動けないようにというのではなく、いわゆるエス・エム的な、拘束のみならず装飾も含めた縛り方なのがあからさまにわかる。この緊縛には人魚の自由を奪う機能は無きにしも非ず、というレベルらしい。せいぜい、両腕を後ろ手に固定されているくらいだ。事実眼前の人魚はいささかやりにくそうではあるが、縛られた状態のまま身をくねらせてゆっくりと泳いでる。

 処理しきれない。

 あなたがぼうっとしていると、誰かに袖を引かれた。

 もちろん、彼女だ。


「次の、見にいこ」


 彼女の眼は心なしかぎらついていた。あなたはこの水槽ひとつで、げっそり疲れてしまったというのに。

 あなたはいつだったか読んだ話を思い出す。ロンドンだか、どこだかにある拷問塔でも、喜々として拷問具の説明を受けたり、間近で見てみたりするのは女性が多く、男性は怖気づいて「早く帰ろう」みたいになることが少なくないらしい。

 これもそうかもしれない。

 女性という生き物は、「恐怖」に鈍感なのか。あるいは「恐怖」を「娯楽」として消化してしまえる回路を、どこかに持っているのだろうか。

 二人で次々、「人魚」の水槽を見て回った。幸いにして今日の客はあなたたちだけだった。もっとも、こんな恐るべき水族館が満員御礼だなんて、思っただけで吐き気がしそうだが。

 人魚にはいろいろいた。

 おとぎ話の人魚そのものの、ウエストあたりから鱗に覆われながらも、顔立ちは十分すぎるほど美しく、指先は紛れもなく人間のそれ。まさしく人魚姫、というのもいた。

 逆に、もっと人間離れしているのもいた。最初に見たものより鉤爪が鋭く、それに従って手が不気味に大きく、さらには本来耳があるべき場所に、魚の鰭のような、蝙蝠の被膜のようなものが突き出しているものもいた。

 鱗の色も様々。独り(一匹?)で極彩色のモザイク模様を浮き立たせているものあり、照明の薄暗さゆえ、尾鰭がないのかと見間違うほど暗い色彩のものあり。赤、黄色、青、緑、紫、ピンク。魚の色としても柄としても思いつく限りの人魚がそろっていた。

 しかし、一番異様なのは。

 皆、一様に拘束されていることだ。

 アイマスクをされているもの。

 開口器や、ボール・ギャグを嵌められたもの。両腕を動かせないように、後ろ手に固定されたもの。拘束衣を着せられたもの。

 そんな状態にもかかわらず、彼女たちは魚の下半身をゆったりと振りたくり、水槽の中を自在に泳いでいた。顔については、目隠しをされている個体が多く、表情は計り知れない。尾鰭がひらひらするのももちろんだが、長い髪が水の中にふうわりと広がるさまの、なんと幻想的なこと。

 美しいと感じない、と言えば嘘になったろう。

 だけれど、これを美しいと感じることによって、何か大切なものを失うような気もした。

 写真は禁止されていたので、彼女は最近持ち歩き始めたデジカメを出すのを一生懸命我慢して、それぞれの水槽の、それぞれの人魚を目に焼き付けているようだった。あまりに熱心に見つめているものだから、しまいには飼育係なのか知らないが従業員らしいのが寄ってきて、あなたそっちのけで人魚の話をし始めた。


「スゴイですねえ。あたし、こんなきれいなもの初めて見たかもですー。予想以上にきれいすぎて、もうどうしたらいいんだろー! みたいな」

「女性の方は感受性が強いですからね。そういうことおっしゃる方は、少なくありませんよ」


 決してそんな意図はなかろうが、あなたは「男は感受性が貧しい」と言われた気がして、独りで勝手に機嫌を損ねた。こんなに気持ちの悪いものをみて、はしゃぐ彼女のほうこそちょっとおかしいんじゃないの。くらいに、ささくれた心が意地悪を言う。

 あなたが独りでへそを曲げている間にも、彼女の話は盛り上がっていく。


「みんなものすごくきれいで、びっくりしちゃいましたぁ! こんなにきれいに展示してもらえるんなら、人魚になりたいくらいですよぅ」

「ふふふ。そんなに褒めてくださったら、人魚たちも喜びますよ。ありがとうございます」


 自分がつまはじきにされているような、疎外感をあなたは味わった。しかしそれは仕方のないことだ。あなたは人魚を「不気味」と感じ、彼女と飼育員は「綺麗」と感じる。それだけだ。それだけなのだ。だから、別に、そんなに深刻には、考えなくたっていいのだ。

 彼女と飼育員はまだ話したりなさそうではあったが、レストランの予約というカードを切って、あなたはそこから脱出することに成功した。


 ***


 熱に浮かされたような気分でくだんの雑居ビルから脱出したあなたたちは、あなたは違和感、彼女は興奮をひどく引きずっていた。だけれど彼女はあなたを刺激しないようにということか、「展示場」の話題はまるきり出さず、最近仕事がどうだとか、今日は思い切ってワンピースを奮発したけれどどうだったかとか、当たり障りのない話題しか前面に出しては来なかった。

 それはあなたにとってもありがたかった。あの「展示場」を話題にされたら、絶対に、彼女の機嫌を損ねることを、言ってしまうに決まっている。それで空気が悪くなるのは目に見えているのだから、彼女のほうから避けてくれるのなら、願ったり、叶ったりだ。

 あなたも最近の仕事のことだとか、同僚の失敗談だとかを面白おかしく披露した。飲み放題の時間が終わったのでそそくさと帰り支度をして、タクシーに乗る彼女を見送る。

 よくあるデートだ。お泊りする時間が、ない時の。

 あなたはこういうデートを何度となく繰り返している。無論、彼女と。彼女との交際は長い。もう、結婚を意識するくらいには。

 次の彼女の誕生日あたり、指輪を買ってもいいかもな。

 と思うくらいには、あなたは、彼女のことが、好きだった。


 ***


 デートの翌日から、彼女と連絡が取れなくなった。職場。彼女の親。共通の友人。片っ端から電話をしたけれど、彼女の足跡を知る人はだれもいなかった。実家や友人あたりについては、繋がっている人間に連絡まわして探してあげる、というようなことを言ってくれたので嬉しいばかりだが、同時にそちらでも何かわかったら早急に連絡をくれとのことだった。

 気になるのは職場だ。行方不明だからって、何日も会社に連絡、寄越さなければ彼女は解雇されてしまうだろう。そのあたりの仕組みって、どうなのだろう。

 とにもかくにも、彼女にかかわるすべてのために、できるだけ早く彼女と連絡を取る必要があった。言うまでもなくあなたは、普通だったらストーカーで訴えられても文句が言えないくらい、彼女の携帯電話に電話をかけ続けている。留守番メッセージも間違いなく残す。これについてはバリエーションがないので「聞いたら電話して」で毎度毎度、終わってしまうのだが。

 同じ職場の人たちも心配しているらしく、人望のある素敵な女性を彼女にしたという喜びはあれど、それよりも重たい「今彼女は行方不明」という事実があなたの胸を押し潰す。

 あなたは煮詰まっていた。これ以上なく。周囲からも心配の声が上がっている。だけれど彼女を探さなくてはいけないのだ。

 そんな思いでいっぱいの頭で財布の整理をしていると、一枚、紙製のカードが滑り落ちてきた。

 あなたは息を呑む。

 それは、あなたが一向に理解できなかった「人魚展示会 」のチケットであった。


 ***


 どうしてそこに向かったのかはわからない。あなたがあれほど嫌な感じがしたあの場所に。

 だけれど勢いのまま守衛さんに「諸尾さんからの紹介で」というと守衛さんは相変わらず没個性な笑みを浮かべて「はいわかりましたよ、今日は一名様ね」と、例の小汚いエレベーターまで案内してくれた。そこから地下四階で降りるあなたに、もはや、躊躇はない。

 地下四階は相変わらずの様子だった。おしゃれで、気品に溢れていて、どことなく良い匂いがして。だけれどあなたはそれらの「ゆったりしたい気分」をぶっちぎって、早足に進み始める。あなたの、当たってほしくない憶測が正解ならば、ここで彼女に会えるはずだった。会えないほうが嬉しかったが、確認せずにはいられなかった。

 最初の水槽。

 違う。

 次の水槽。

 違う。

 その次の水槽。

 違う。

 次々に水槽の前を通っていくあなた。だが目的の水槽はなかった。このまま、このフロアを全部回ってしまうまで、「お目当ての」水槽に出会わなければいいとあなたは思った。

 そうして念入りな確認作業をしている間に、あなたはとうとう最後の水槽まで辿りついてしまった。その水槽にはまばらならながらも人だかりができており、ひっきりなしに中身を「評論」するお偉いさん気取りの台詞が聞こえる。

 あなたはその水槽をのぞき込んだ。

 そこには一匹の人魚が、縄で縛られたまま揺蕩っていた。真っ黒で鋭い爪をもつ、水かきのある手は後ろ手に縛られ、蛇にも似た鱗光る魚体には、飾り程度に縄が打たれている。目隠しこそあれ、口は自由なようで、意思の感じられない半開きのありさまを恥じらうこともなく見せつけている。


「――」


 あなたはそっと、彼女の名前をつぶやく。

 いくら変貌したといえ、結婚の約束までしかけた女を、あなたが忘れるはずもなかった。

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