月に吠える
その「神父さん」は、あなたと生活圏内が異様にかぶっている。
そもそも彼が「神父さん」なのかはあなたにはわからない。神父さんにしてはアレがナニでソレ過ぎるような気もするが、「神父さんの服」をいつも着ているので便宜上、心の中で、彼のことを「神父さん」と呼ぶあなたであった。
神父さんは非常に目立つ。そのせいで気づきやすいというだけかもしれないが、神父さんはあなたの行く先にちょくちょく現れる。本屋の店先でバイク雑誌を立ち読みしていたり、スーパーのレジに半額の弁当を持って並んでいたり。あなたの行きつけの喫茶店は神父さんの行きつけでもあるらしく、コーヒーをお供にゆったり文庫本などめくっていたり、そうかと思えば急いだ様子でサンドイッチをがつがつ食べていたりする。時間のある時でも、食前食後に祈りの文句は唱えないようだ。
あまりに頻繁に会うので、ある時なんとなく会釈をしたところ、神父さんも会釈を返してくれた。神父さんもあなたの顔を覚えていたらしい。
それからは顔を合わせると会釈をする関係性となった。だがまだあなたたちはお互いに、言葉を交わしてすらいない。
***
ある日の帰り道のことだ。
「ねえ、ちょっと」
夜道で急に肩を掴まれて、あなたは動転した。おもわず、ひゅっと喉が鳴る。
「おっと、ごめんね」
振り返ると――
(神父さん?)
違った。
暗がりで「神父さんの服」と見えたのはダークカラーのスーツで、神父さんとは違って短髪だった。
神父さんではない。
だが、顔と背格好は恐ろしく似通っていた。
「ボクの兄弟のことなんだけどね」
知っているだろう、と男がやや背をたわめて言った。チリカラ鳴る金属音。頼りない街灯の明かりを反射して、彼の耳にじゃらじゃら光るピアスの音だ。
(ああ、兄弟か)
それならそっくりなのも納得だった。ひょっとしたら、双子なのかもしれない。そのくらいに、似ている。
だけれど雰囲気はまるで違った。神父さんが石のように硬質な雰囲気を纏っているのに対して、彼のそれは柔らかかった。なんだか粘っこくて、触ったら沈んで行ってしまいそうな柔らかさだ。
「ボクの兄弟と、あんまり仲良くしないでくんない」
”兄弟”の部分を、甘いものでも転がすように彼は言った。
あなたはなんでまた、こんなことを言われているのかわからない。あなたはおはようもこんにちはも神父さんと交わしたことはないし、それどころか彼の声を「コーヒー」「サンドイッチ、具はB」くらいしか知らないのに。
当惑するあなたを置き去りに、彼は「ぜったいだからね」と一方的に念を押し、くるりと身をひるがえして道端の暗がりに消えた。
***
なんだか釈然としない気持ちのまま、数日が過ぎた。あの的外れな警告はずうっとあなたの脳裏にこびりついて、もやもやした気分を醸造している。
その気分のまま駅前の本屋に寄ると、真っ黒な長身が雑誌売り場に立っていた。一瞬、どきりとしたが、その黒い背中に束ねた髪がひと房垂れているのを確認して、あなたは心底ほっとした。
神父さんだ。
あのへんな男ではない。
バイク雑誌をぺろりぺろり、気のなさそうにめくっている神父さんの横に立ち、軽く会釈する。神父さんはそこで初めてあなたに気が付いたようで、ちょっと戸惑った様子で会釈を返した。
そさくさと目的の本の売り場に行こうとするあなたを呼び止める声。初めてあなたに向けられる、神父さんの声。
「兄弟が、悪いことを」
「あー……いや、その」
発する言葉に迷っているあなたの腕をやや強引にとって、時間はあるか神父さんが聞く。神父さんの困った顔は、初めて見る。どうせ用事もない。あなたは好奇心から、神父さんについていくことにした。
***
連れていかれた先はいつもの喫茶店だ。二人ともコーヒーを一杯ずつ頼んで、ウエイターが離れていくが早いか神父さんが身を乗り出し、眉を寄せた。
「兄弟にいろいろ言われたろう。すまんな、気にしないでくれ。あの野郎は少しここ(と、自分のこめかみをつつきながら)のネジが足りない」
夜道の彼とは正反対に”兄弟”を苦虫を間みつぶしたような顔で発音する神父さん。この兄弟、なんのかんのと確執がありそうだ。
「神父さんとのことを、誤解してたみたいですけど」
「正しく認識したうえでああいうことしやがるあたりが、ネジの足りない所以なんだよ」
この喫茶店は今時珍しく喫煙可だ。紫煙をくゆらせながら、神父さんは眉間を揉んだ。
「……おれのケー番、教えとくから、あのバカになんかされたら連絡くれ」
懐から出したメモ帳を一枚ちぎって、ボールペンで番号を書き留める神父さん。あの”兄弟”のせいで、彼の望みとは反対の方向に話が言ってしまった気が無きにしも非ずだ。彼があんなふうに突っかかってこなかったら、神父さんとはまだ会釈のみの関係だったに違いないのだ。それをわざわざ「関わらないで」と言ったせいで神父さんがあなたに謝罪し、今こうして食事し、連絡先まで渡されている。神父さんの外見のぶっとび加減ゆえに、漫画や映画の登場人物とお近づきになってしまったような気分さえある。
「わかりました……えっと、神父さんの名前もお伺いしていいですか」
言葉を交わしたのも初めてなのだから、仕方ない。神父さんはうっすらと笑って、メモ帳に「Nye」と書き記した。
外国人なのは見た目で分かっていたが、これはいったい何と読むのだろう。
「……ニー……さん?」
神父さんはくすっと笑って、さらに振り仮名を振った。
「ナイ。もしくはニャイ。呼びやすいほうでいいぞ」
あのけったいな兄弟が「ネフ」というのもついでに教えてもらった。
「ネフは本当に性根が腐っているし、そのくせへんなところで頭は回るし、ま、要するにサイテーだ。なるべく避けろ、関わるな」
ひどい言われようである。
兄弟だからって理由だけで仲の良さを求めるのもどうかと思うが、これは仲、悪すぎと言っても過言ではないのではないか。しかも一方的に。ネフのほうは、強引ではた迷惑な手段だったけれど、神父さんを案じて言っているのは間違いなく伝わった。
いろいろ考えてみても、あなたの中では「ちょいちょい会釈をする間柄の神父さん」のほうが「神父さんの兄弟を名乗るヤバげな男」より圧倒的に信用のおける存在である。
連絡先はありがたくいただいて、みっつよっつくだらない話をした後、あなたたちは解散した。
***
その後しばらくは何もなく過ぎていった。
神父さんと会うことがあっても今まで通り会釈どまりだったし、「兄弟」が夜道でいちゃもんをつけてくることもなかった。
もう「兄弟」のことなど忘れかけていた夜のことだ。非通知番号の着信をうっかり取ったら、
「来て」
とのことだ。
名前すら言わない。なんてやつだ。腹は立つけれど、別に、暇だし、場所や理由を聞き出してみた。理由は適当にぼやかして「とにかく、早く」とのことだったが、場所は微に入り細を穿ち、伝えられた。
そして電話の声を聴いているうちにあなたは気が付いた。
この、急いた感じはらしくないけれど。
神父さんの、声だった。
あの兄弟のことで何かあったのだろうか。
神父さんとは言葉を交わしたことこそつい最近だが、ご近所さん(?)としては長い付き合いである。助けを求められているということであれば、馳せ参じるのもやぶさかではなかった。
幸い明日は(すでに今日だけれど)休みだし、指定された場所は自転車を飛ばせば十分もかからないだろう。あなたは好奇心で胸を一杯にして部屋を出た。夜空は晴れていて、ほどよく散らばった雲の間にはちみつ色の満月が輝いていた。
***
指定されたのは、飲み屋街にぽっかりと空いた空き地だ。飲み屋街、とは言ってもそんなに都会ではないうえに平日なので、夜明け近い今の時間ではほとんどの店がシャッターを下している。
自転車を止めて空き地に入ろうとするあなた。入ろうとする努力はしたが――そこに足を踏み入れることはできなかった。
空き地ほぼいっぱいにのたうつ灰色がかった肉色の触手。細く白い毛でまばらに覆われた其れは、生まれたてのネズミの赤ん坊のようだ。全体に薄荷色の細い線で幾何学模様が描かれ、その模様はでたらめな順番で発光していた。手近な電信柱を越えて揺らぐ、途中で握りつぶした円柱のような器官(頭部だろうか?)。おそらくはそのあたりから空の果てへと放たれる、繊細な音楽に似た心地よい耳障りの――それでもそうと理解できる、咆哮。
絵面としては、怪獣映画に似ていた。
あなたはそれを、茫然と見上げることしかできなかった。
映画とスケールの差こそあれ、あんな名状しがたい巨大なものに、どんな反応をすればいいものであろう。
いつの間にか、怪物の咆哮は止んだ。
そしてその怪物は、あなたを見ていた。
どこに目があるのかもわからない姿だが、間違いなく。
これは、見てはいけないものだ。
遅すぎる確信に、あなたはがくがくする足を奮い立たせてここから逃げようと試みた。
が、駄目だった。
両肩を、がしりと誰かに掴まれたのだ。
「こんばんはぁ」
べたべたとまとわりつくような物言い。
それなのに、神父さんと同じ声。
顔は見えないが、兄弟に違いない。
肩から離れない手が、絡められたダークスーツの脚が、徐々に変貌していく。あなたの身体が沈み込むほど、柔らかく。
手も、足も、すでに触手の集合体だった。絡まり合った細い触手が休むことなく蠕動し、滲みだす粘液を吸ってあなたの衣服は不愉快に濡れた。
「よくごらん。これが罰だよ」
鳥肌の立つ感触でもって、さっきまで彼の腕だったものがあなたの頬に触れる。たちまちそれは耳と側頭部にまで伸びてきて、あなたの顔は完全に固定された。
今更ながらに思い出す。思い出してももう遅い。あの電話の声は確かに神父さんだったが、いやにねばりつくような発音ではなかったか。そしてこの兄弟は、神父さんにそっくりな声音で、絡みつくようなしゃべり方をする。
それは、つまり、あの電話は。
「兄弟としゃべった罰だよ。ほうら兄弟、君もお詫びをしなよ」
理不尽だ。
なにもかも。
そんな言いがかりのつけ方は理不尽だし、その結果こんな目にあっているのも理不尽だし、そこで神父さんにも謝れというのも理不尽だ。
ぼこぼこと音を立て、目の前の触手が膨れ上がっていく。何か丸みのあるものを、先へ先へと送っているような動きだ。その「何か丸みのあるもの」はあなたの目前で止まり、その触手が瞼のように裂けて開いた。
神父さんの顔があった。
ふくらみの状態から察するに、神父さんの頭「だけ」が今ここにあるいらしかった。触手の内側が絶えず分泌する生臭い粘液にまみれ、ねちょねちょになりつつも神父さんの「頭」は苦笑を口元に刻んだ。
「……うちの兄弟が、すまないね」
そこから何があったのか、あなたはまるで覚えていない。
***
あれからしばらく経つ。
結局あの晩は気づいたら自宅のベッドで寝ており、気のせいで片づけることもできた。
できたが、記憶として残る粘液の匂い、粘る音、床に脱ぎ散らかされた異臭を放つべとべとの衣類、そして特殊効果でも限界のありそうなリアルすぎる”悪夢”。
あなたはまだあの夜に関するスタンスを決めきれていない。なかったことにするのか、あったことにするのか。
それは先方も同じようで、神父さんもあなたも会釈するたび、口の端に困ったような微笑を浮かべるようになってしまった。
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