第39話 出版社へ行こう

「超絶零細出版社ですよ」


 三谷みたにはそう断って自分のデビュー小説を出版した会社にジュンを連れて来た。それは神保町の古本屋の並びの更に外れにあって、一階がチェーンではない個店の立ち食い蕎麦屋になっていて、その外付け階段でしか移動できないビルの二階にあった。本を取り扱うというのにエレベーターのない致命的な店舗だった。


 蕎麦が茹で上がった匂いと、単に空いているからという理由だけで自分以外の同じ会社の社員が絶対に来ないこの店に毎日やってくる常連客たちの汗の匂いとを嗅ぎながら、三谷と一緒に階段を昇り、キィ、とガラス扉を押し開けた。


「社長。ご無沙汰してます」

「おー、三谷さん。お待ちしてましたよ。三年ぶりぐらいですかねえ?」

「前回のオリンピック以来ですから四年ぶりですよ」


 スーツ姿のおそらく還暦は確実に過ぎているであろうその男は名前を黒木くろきと言った。


「黒木社長。景気はいかがですか?」

「三谷さんのデビュー作がヒットして以来、何もいいことないよ」

「また・・・良作をいっぱい出しておられるじゃないですか」

「良作がいい本じゃないよ。売れる本がいい本なんだよ」

「また・・・それじゃあわたしはいい本書けてないってことですよね・・・」


 三谷はそう謙遜したが、前衛的でマニアックで偏執的な作品ばかり出している割には彼女は結構な売れっ子だった。


「その子かい?」

「はい」


 ジュンは自己紹介した。自分の名前であり、ペンネームでもある『ジュン』と告げた。


「ふうん。ジュンさん。どうしてここへ?新人賞とか出さないの?」

「はい。葬られるのが怖いんです」

「葬る?」

「最初のところだけでいいですから、読んでみていただけないですか?」


 そう言ってジュンは持参したタブレットに自分の小説を立ち上げて黒木に渡した。


 行ったり戻ったりスクロールしながら、目を極限まで細めて焦点を整えながら多分、最初の10ページくらいを一気に読んだ。


「なるほど。これは、売れないわ」

「ダメですか」

「いや、その逆だ。小説はこうじゃないといけねえ」


 黒木は突然江戸っ子みたいな喋り方になって、ジュンをまじまじと見た。


「歳は?」

「19歳です」

「どうしてその若さでこんな年増みたいな文章が書けるんだ。なんか、やったのか?援交とか、万引きとか」

「社長。ジュンさんは誠実なご両親の元できちんとした躾を受けて育ったんですよ」

「おかしい・・・それならどうしてこんな他人の心にえぐり込むような書きぶりができるんだ。自己分析したかい?」

「い、いいえ。自分でもわかりません。ただ、書かずにはいられないままに書いているだけです」

「なら、天性か。確かにこれは矯正されちまったら勿体ねえ」


 三谷は満足した。

 マーケットの読者よりも、どの編集者よりも、どの賞の選考委員よりも、三谷は黒木の感性を自分の基準にしていた。


 本当に生涯を賭けた作品を書く際に自分以外の誰かに客観的評価を求めるとしたら黒木の感性だ、と三谷は決めているぐらいだ。

 ただし、黒木は繰り返した。


「でも、これじゃあ売れねえぞ」

「ダメですか」

「だから、ダメなんじゃない。すこぶるいいが、だからこそ売れねえんだ」

「社長。じゃあ、彼女の小説を出版するのは・・・」

「焦るなよ三谷さん。誰も本にしないなんて言ってねえ」

「じゃあどうするんです?」

「本にするけど売らないのさ」

「分かりません、おっしゃってることが」

「三谷さんでさえ分かってくれねえのか・・・売らずに置いとくんだよ」

「えっ。どこに?」

「露天に」


 黒木はジュンの小説の最初の1セクション、約10ページを会社に備え付けの印刷機を使って、5部、刷った。

 そうして2人いる営業社員が出払ってしまっているので社長である黒木自らが梱包作業用の小机を抱え上げて外階段を降りる。


 立ち食い蕎麦屋の前に、小机を置いて、その上に刷ったばかりのジュンの小説を並べた。


 そして声を上げ始めた。


「いい本あるよ。五分100円だ」


 どこに居たのか、年配の男2人と、アラサーほどに見える女性ひとりの計三人が寄ってきた。


 男の内の1人が念押しする。


「本当に損しない本だろうな」

「補償する。大サービスに、作者も来てる」

「どっち?」

「学生さんの方だ」


 男はジュンを値踏みするようにジロジロと見る。その内にジュンには見向きもしなくなって小説の小冊子を両手で開き、自分の目にくっつくぐらいの至近距離で読み始めた。


 眼球の動きが凄まじい。

 わずか2分で1万字を読了した。

 残り2人の男女も少し遅れる程度で読み終えた。


「どうだった?」

「久しぶりに『小説』を読んだ」


 どきぃ、とするジュンの胸。


 ほんとうだろうか、とジュンは思った。ただ、男だけでなく、残りの2人も同様のことを言った。


「最近は小説じゃなくて『物語』を読まされてる・・・難解だろうがなんだって良いからこのお嬢ちゃんみたいに『小説』を書いて欲しいわね、まったく」


 アラサー女子がそう言うと残りの男はまるでヘッドバンギングのようにうんうんうんうんと頭を揺らしていた。


「三谷さん、上々だ。ジュンさんよ」

「は、はい」

「これと同じものを『パイロット版』として俺は神保町で不特定多数の人間に読ませる。一週間後のネットニュースを楽しみにしていてくれ」


 ジュンは半信半疑だった。


 だが、一週間後、三谷から入ったLINEでに促されてジュンはネットの文芸記事ランキングを見て驚愕した。


 まだ出版もされていないジュンの小説が、問い合わせランキングのTOP10に入っていた。


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