第38話 一心不乱に書こう、走ろう

 古依こよりに初稿を送ってからジュンはほんとうに小説の中の住人になってしまったかのように一心不乱に書き続けた。いや、小説の中、ではなく、自分の書いているその恋愛小説を現実の中にまざまざと顕現させるぐらいの気概を持って書いていた。


『古依くんが居てくれる・・・』


 事実、ジュンにとって古依の存在はもはや『彼氏』という限定的なものでは無くなっていた。

 まだキスどころか手すらまともに繋いでいない間柄なのに、精神の深い部分で分かり合って繋がりあっている感覚が常にあった。


 それはある時には父母のように、この間ジュンが母親に初めてのデートを告げたように義務と信頼とで成り立つ関係。


 それはある時には小寺こでらのように真の願い、本願を打ち明けられるような心やすさと厳格さとが混在した親友のような関係。


 それはある時には唐沢からさわのように、社会の一員としての自分を意識させてくれる一個の大人としての関係。


 そして、三谷みたにのように、自分が進むべき方向をその専門的知識と冷静な判断で持って導いてくれる存在。


 古依はすべての面を持ちうると感じた。そして今自分が書いている恋愛小説の完成が、ふたりの間柄を決定づけると感じていた。


「ジュン、どう?執筆は?」

「うん。まるで自分が書いているんじゃないみたいに書けてる。まるで自動筆記みたいに書けてる」

「そっか。何かが降りてきてるって感じ?」

「小寺ちゃん。本当にそういう感覚なんだ。でも・・・」

「でも?」


 専攻科の授業が終わった中教室でジュンと小寺は、パキン、と割った板チョコを摘みながら近況報告をし合っていた。ジュンが順調な執筆状況を報告しながらもためらったこととは。


「オチが、見え見えなんだよね」

「オチ?小説の?」

「うん」

「・・・そのオチって、今聞いてもいいの?」

「いや!いくらバレバレだからって、小寺ちゃんにだってまだ話せないけど・・・」

「うーん。恋愛小説だもんね」

「そうだよ」

「ジュンが書きたいのってつまり、何?」

「え?」

「恋愛のときめき?」

「ううん。違うと思う」

「じゃあ、恋愛の切なさとか胸の苦しみとか?」

「そういうのともちょっと違うなあ」

「分かった!古依くんの魅力だ!」

「まあ、本音でそれはあるけど・・・どう言えばいいんだろう。『走る』んだよね」

「走る?」


 ジュンがそう言うのには根拠があった。

 古依はバドミントン・プレーヤーだ。

 そしてバドミントンは実はとてつもなく走るスポーツである。

 古依がジュンにこう言っていた。


「俺の尊敬する実業団の選手なんだけど、コートにいる時間を2としたらそれ以外の8の時間はひたすら走るんだって」


 瞬発力と同時に持久力が求められる過酷なスポーツなのだ、バドミントンは。


 だから、ジュンの恋愛小説は、走る恋愛小説となっていく。


「主人公の女の子は高校生なんだけどね、小・中・高といじめに苦しんできてるんだ。で、同級生の女子たちは律儀にその子がいじめに遭っていることを『引き継ぎ』していく。中学に上がろうが、高校に上がろうが、彼女の属性を『いじめられる子』という部分から外してくれない」

「うんうん」

「そんな中で彼女は隣の県に住むやっぱり高校生の男の子と出会う」

「古依くんだ」

「まあ、そうなんだけど。男の子と女の子は夏休みを男の子の街で過ごす。女の子が無理やりその街に住み込みでアルバイトしに行くことになって」

「ちょっとその展開、無理がないかな」

「あのね。いじめる側の子たちの計略で無理やりアルバイトさせられに行く、っていうシチュエーションなんだ」

「うーん。ギリギリ説得力あるかな」

「そこで男の子と出会って、ふたりは遠出をしたり、近場の川でおにぎりを食べたりする」

「そういう具体的なエピソードをもうジュンは考えてるわけだね」

「夏休みが終わって女の子は自分の街に戻る。当然またいじめに遭っている高校に新学期の朝から通わないといけない・・・そこで女の子はとうとう一級河川の橋から川に飛び込むことを決断する」

「それで男の子が助けに来るのがクライマックスなんだ」

「・・・ノーコメント」

「いいよ。で?そういう展開がもう読者に途中で分かり切ってしまうんじゃないかと?ってこと」

「まあ、そうね」

「ジュン。いいんじゃない?バレバレでも」

「えっ」

「だって、ジュンは推理小説を書くわけじゃないんでしょ?男の子と女の子の恋の物語を書くわけでしょ?」

「もちろん」

「いいじゃない?バレバレで。大体人間だったらオチは全員バレバレなんだから」

「え?』

「人間は遍く全員、死ぬ。これ、バレバレ」

「・・・・・そっか。そういえばそうだ」

「ジュン。書きなよ。そのバレバレのまんまで。だって、わたし知ってるもの」


 え。

 何を・・・?


「ジュンの書く小説は、その文体や雰囲気がわたしはとても好き。ジュンと同じように」

「あ、ありがと」

「聞こえた?ジュンと同じように好きなんだ、ジュンの小説が。それに小説を読む時に結末とかストーリーだけが知りたい読者ならネットで見ればいいだけの話だよね」


 こういう日々はジュンにとって不思議な感覚だった。


 古依とジュンの日々の営みがジュンのてによって小説に描かれ、その小説を下読みするふたりは、まるで小説をなぞらえるようにして恋人同士の一歩一歩をクリアしていく。


『き、昨日は古依くんが部活の帰りにコインランドリーで洗ったユニフォームを畳んであげたから、今日はハンカチとかアイロンかけてあげようかな・・・』


 そういうオクテな営みではあったが。


 そうしてジュンは順調に書き進め、ついにそのバレバレのクライマックス・シーンに到達した。


 女の子が決意を持って立ちすくんでいる橋の上へと男の子が向かうシーンだ。


 走って。


「ねえ、ジュンちゃん。そういうシーンなら、一緒に走らない?」

「えっ・・・・・・」

「俺は、ジュンちゃんと一緒に走りたい」


 ジュンにしてみればそのシーンで走るのは男の子なのだから古依がひとりで走ればいいのでは・・・と一瞬だけ、ほんの一瞬だけそう思ったが、当然ながらジュンは古依の提案を受けた。


「ど、どうかな・・・」

「へえ・・・」


 ジュンはその走る出で立ちを、まずは小寺に披露した。


「いいじゃない。かわいーよ、ジュン」

「へへ・・・」


 North Faceの薄い白でノースリーブのランニングウェアにAdidasの薄いピンクのランニングパンツ。

 ランニングシューズは今流行っているNew Balanceの水色。

 それにくるぶしまでのUnder Armorのソックスを着けて、大学の正門前に立つジュン。


 今日は部活が早上がりの古依とそのまま合流してランニングに出かけるのだ。


「ジュン、コースは?」

「大通りを走って山を頂上まで登ってそれで降りてくるコース」

「山?って、あの300mほどの標高の?」

「そう」


 小寺が指差した、不動尊がある、このエリアのちょっとした観光スポットになっている山だった。


「距離は?」

「往復で7kmだって」

「ジュン、大丈夫?」

「多分」


 大丈夫、とは言えなかったが、なんとかジュンは古依に着いて行った。


「はっ、はっ、はっ」

「もう少しゆっくり走ろうか」

「ううん。このままでいいよ。だって、ゆっくりだと長く走らなきゃいけないもん」

「確かに」


 平地はなんとかなったが、その里山というほどの上りに入ると、ジュンは露骨にへばった。


「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ、ふっ」

「ジュンちゃん。歩いてもいいんだよ?」

「ううん・・・なんだ・・か、歩いちゃったら、今までのことが、ぜ・・・んぶ、はあはあ・・・リセットされちゃうみたいで」

「全部?」

「う・・・ん・・・古依くんと出会ったこととか、ぜ・・・んぶ、はっはっはっ」


 スピードはほとんど歩いているのと変わらなかったが、ジュンは最後まで走った。


「うわあ!」


 びゅん、とジュンの髪が麓から吹き上げてくる風になびいた。


 お不動さまのおられるお堂は、最後のまるで回廊のようにてっぺんが見えない坂道をこれでもかこれでもかと走り切ったその上に、突然現れた!


「はっ、はっ、はっ・・・見て!古依くん!」


 お堂の脇を過ぎた標高の場所から下に湖が見えた。


「海みたい!」


 ジュンの描写は決して間違っていなかった。


 湖の色は木立の緑ではなく、晴れた空の色を反映して青かった。そして湖面の淵がいい具合にせり上がって水平線のように弧を描いていた。

 水質調査の中型船も浮かんでいたので、ほんとに海みたいだった。


 お堂の入り口でお不動さまに手を合わせて、再び湖を見下ろすふたり。

 ジュンが古依に言った。


「わたし、古依くんに何かしてあげたい」


 ジュンはほんとうに自分が小説のヒロインになったような大胆さで言った。


「古依くん。キスしても、いいよ」


 ほんの少しだけ古依の瞳孔が驚きのために見開いたけれども、ゆっくりと目を閉じて首を振り、『お不動さまが見ておられるから』という意味でお堂を指差してにこりとした。


「じゃ、じゃあ、古依くん・・・ぎゅっ、てして」


 ジュンは古依の目から視線を外さなかった。外さないままに言葉を続けた。


「わたしがして欲しいの」


 ほんとうに自然に古依はジュンに数歩、近づいた。


 そっと手をジュンの後ろに回し、左手で背中を、右手でジュンの髪を撫でるようにして柔らかく抱き寄せた。


 ジュンはただ、とっ、とおでこを古依の胸にくっつけるだけ。


 それだけ。


 けれども、汗のにおいがした。

 ふたりとも、互いの汗のにおいを感じた。


 ランニングで上がった心拍数のふたりの鼓動が、もうひとつの、ときめきという要素でシンクロする。


 しっとりとした汗の感触を触れている肌の小さな面積でもって、しっかりと確認し合う。


 身体の近さ以上に、ふたりのココロは溶け合い繋がった。





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