第37話 恋愛小説を書こう
けれども適度な空間的時間的な距離を保つことは良好な関係を維持するために却って良い条件だとジュンは分かっていた。
分かってはいるのだけれども・・・
お風呂から上がって自部屋に戻ると古依からLINEの返事が返ってきていた。
古依:おやすみなさい
「・・・おやすみなさい、古依くん・・・」
ジュンはほんとうはもっと古依に話したいことがあった。
もっともっとおやすみなさいという言葉のほかに言いたいことがあった。
もっともっともっと古依がタップするシンプルな、けれども優しい言葉を読んでいたいと思った。
ほぼ下着に、ふわあ、と部屋着をひっかけただけの服装でベッドの上にうつ伏せになって、寂しくなどないはずなのに、どうしてだかじわりと涙が目の奥に滲んでいた。
ジュンが訪れたのは、
「さあ、どうぞ」
「いただきます」
三谷の淹れてくれたコーヒーはおいしかった。
「先生は恋愛のご経験は?」
「ありますよ」
「あの・・・今は?」
「今はフリーです」
ジュンは核心の質問をした。
「先生が賞をお取りになった、『醜い花』って、あれは先生ご自身の恋愛経験ですか?」
「・・・かないませんねえ、ジュンさんには」
「すみません」
「いいんです。はい。あれはわたし自身の、初めて付き合った彼との話ですよ」
「その彼氏さんとは」
「もうずっと前に別れたので・・・」
「すみません」
「いいのよ。でもジュンさんはそんなこと相談しにきたんじゃないんでしょう?」
「はい」
「書きたいのね?恋愛小説を」
ジュンはつくづく人間というものの非合理性を不思議に思い始めていた。
古依に告白されそれを受けた自分は晴れて彼と恋人同士になっている。あとは日常の触れ合いや時折挟み込まれるイベントなどの折に恋を実体験すればいいだけの話なのに。
なぜ恋愛小説を書きたくなるのか。
三谷のアドバイスは極めてプラクティカルだった。
「彼との恋愛で満たされない部分を探すの。つまり、あなたの恋愛のアラ探しをするのよ」
そして、その作業は驚くべきほどに簡単に進められたのだ。
「ジュンちゃん。お昼一緒に食べるの久しぶりだね」
「古依くーん。そりゃあジュンに失礼というもんだよ」
「ジュンは古依くんとふたりきりで食べたいんだからさ。それも学食なんかじゃなくてね」
「うん・・・わたし、古依くんとほんとに2人だけでどこかのカフェでお昼が食べたい・・・」
「そ、そっか。ジュン〜。ノロけちゃって〜」
そしてそのアラ探しは古依本人にも及んだ。
ただ、それはほんとうに偶然だった。
「ジュンちゃん、大丈夫?」
「ありがと、古依くん。抗生物質処方して貰ったから多分喉の痛みも治っていくと思うんだ」
ひどい風邪で寝込んで二日間お風呂に入れなかったので古依に会う前にと朝風呂に入ってからキャンパスに来たのだ。
朝ご飯の後、抗生物質を飲んだすぐ後に湯船に浸かり、急激に体温を上げて血液の循環が速くなったことで一気に薬の成分が脳に達したからだろう。
ジュンの脳が通常の何倍かの覚醒状態となって、二日ぶりに遭った古依の顔の頬の肌がまるでハイスペックの鮮明な画像を観るかのように、その毛穴や笑いジワのひとつひとつが詳細に見えてしまい、生き物としての人間の肌のグロテスクさを感じてしまったのだ。
刻一刻と老化し、醜く崩れ落ちていく生肉としてのキモさを感じてしまったのだ。
古依が勇気を出して熱を看てやろうとジュンの額に伸ばした手の甲を、
「
と払い除けてしまった。
「ご、ごめんなさい、古依くん。わたしそんなつもりじゃ・・・」
古依はうろたえはしなかったが悲しい目をして、じゃあまたね、と自分の学部の棟に戻って行った。
その夜、ジュンは自部屋の執務机ではなくベッドの上にうつ伏せになってスマホにコンパクトキーボードで書き始めた。
泣きながら。
タイトル:Lotus & Moon
作者 :ジュン
苦しいんだよ。
いつか遭えなくなるから。
それってどちらかが先に死んじゃうからってことじゃなくってさあ。
そんな簡単なことじゃなくってさあ。
たとえば、鴨が泳いでる水辺にさっきまで二本の足を川底に付けて立ってたアオサギがね。
ふわり、ってわたしが通りかかった瞬間に離水して、それで何度か翼を、ば、ば、ば、って羽ばたかせてね。
まるで車が道路のセンターをキープするみたいに上流に向かってまっすぐ飛びながら上昇して。
それで最後には空を旋回しながらいつの間にか別の川に飛んでいくの。
寂しい。
理由も何も全くわからないけど寂しいんだよ。
あなたといると、寂しくなる。
初稿をジュンはLINEで古依に送った。
ジュンは待った。
酷い女と思われて返事は返ってこないかもしれないとも思った。
それでも待った。枕に顔を埋めて。
ブン・・・
古依:
俺も寂しいんだ。
ふたりで話したりして君と別れた後も、一緒に居て話してるその最中もたまらなく寂しいんだ。
でもだからいつかそれを一緒に溶かしたい
ジュンはどうしてでもこの恋愛小説を書き上げようと思った。
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