第32話 小説を書こう

 ジュンは小説を書くために初めて『取材』をした。

 前衛文学論の担当教授にして小説家である三谷みたにが出した課題小説のテーマ。


『ほんとうに大切な仕事とは』


 ジュンの取材対象は地域包括支援センターで働くケアマネージャーの井口いぐちであったが、けれどもジュンが書いたのはケアマネージャーという仕事そのものではなかった。


 タイトル:ひそかに生きてる

 作者  :ジュン


 泣きたいことばかりの毎日をそっと癒すためにわたしがたどり着いた場所は、灯台の麓だった。


 対岸、と呼んでいいのだろうか、海の向こう岸は大きな国だ。

 もっと大きな話を考えてみる。


 宇宙のことだ。


 宇宙の果てはないだとか、太陽と同じ星は宇宙にいくつも存在しているはずだ、とか誠しやかにスケールの大きな話が繰り返される。


 でも、わたしは土曜日の夕方に訪れた丘の上の灯台の麓にある砂浜の、その砂に目を落として見る。


 砂がある。


 この砂浜は全長が200mほどで、わたしの他に夕暮れの寂しい海のそのほとりを何人かの人が悲しみの眼差しで歩いている、そんな砂浜だ。


 犬の足跡がある。


 おそらくはリードを外して疾駆させたのだろう、犬の爪が深く砂に突き刺さり、更には数十センチにわたり爪のフォロースルーが描いた直線が残っている。


 その足跡を辿って歩いていくと、最後の地点に、『ありがとう』と砂に書かれた達筆の文字が残されていた。


 書くために使ったのだろう、巨大な流木の一部だと思われる白く乾燥した小枝が文字の隣に添えて置かれていた。


 わたしは思うのだ。


 スケールが大きいと思われている大宇宙の星の数は。


 多分、この砂浜の砂一粒一粒の合計よりも少ないに違いない。


 わたしの隣にあるこの砂浜。


 ある、凛々しくも繊細なひとりの人間がこう呟いた。


「簡単に死ねないって、辛いものね」


 わたしは、死ぬためにこの海に来た。


 冬の海の温度は、優しくわたしを死へと誘ってくれるものだろうと思っていた。


「簡単に死ねないって、辛いものね」


 物理的にも、ココロ的にも、やっぱり死ねないのだ、わたしは。


 死ねないならどうする。


 働くさ。


 なにをして?


 そうだね。


 小説に書けるような何かをして。


 そうしてわたしがわたし自身の仕事を、遍くすべての人に正々堂々と語れるように日々を重ねたその暁には。


 ありとあるひとの、ありとある仕事を小説に書くんだ。


 そう。


 書くんだ、小説を。

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