第31話 働くひとを讃えよう

 職業に貴賎はない。


 こういう言葉がほんとうに浸透する世の中を。


「ちょっと!すみません!」

「はい」


 ジュンは速歩きでお客のテーブルに向かった。


「はい。いかがなさいました?」

「このコーヒー、ぬるいですよ」

「あ・・・大変申し訳ございませんでした。もしよろしければ熱いものを淹れ直します」

「そういう問題じゃないですよね!」


 ではどういう問題なのだろうとジュンは内心思っているが、先般のフード・コートでの男の罵倒で耐性がついている。全く笑顔を崩さずにいわゆる神対応を続けた。


「申し訳ございません。お客様の大切なお時間でしたのに・・・では、当店の新メニュー、『苺ブレンド』をもしよろしければご試飲頂けませんか?」

「なっ・・・『苺ブレンド』?」

「はい。ドリンクにフルーティーなテイストをアディショナルとしてお客様にフレッシュなモメントをサジェストさせていただくのがカフェのトレンドですので。いえ、もちろんわたくしどものニュー・カマーのトライアルにコ・オペレイトしていただくわけですから、これは当店のプロモーションのためにコントリビュートいただくスタンスですので。そしてオピニオンをいただけたら当店は誠に助かります」

「ふ、ふうん・・・そちらの都合でのたっての申し出なら受けない訳にいかないわねえ・・・」

「サンキュー!マスター!『苺ブレンド』ワン、プリーズ!」


 唐沢からさわはカウンターの向こう側でつぶやいた。


「なんだそれは・・・」


 ジュンは二十歳前の女子ではあるが時に老練な発想と決断で窮地を切り抜ける。決して流行っている店ではないからこそ、こういう『前例のない』トラブルへの対処も、まるで自分が小説を書く際の自由で楽しい発想を、本気で現実に当てはめてみるのだった。


「でもジュンちゃん。なんであんなにカタカナばっかりで喋ったんだい」

「お客様に考える隙を与えないためです」


 ジュンが三谷みたにの授業で今月出された課題小説は、『ほんとうに大切な仕事とは』だった。

 ジュンは自分の両親がふたりとも民間企業での勤め人として働いてきたその履歴をとても尊敬しているし、ジュン自身もごく普通に仕事をすることそのものが実はどんなに大変で、それを大過なく勤め上げてきていることそれ自体がとても尊いことであると感じるようになっていた。


 アルバイトという形でルーシーでお金を貰うようになって特に意識するようになった部分でもある。


 そういう自分の体験を元に書いてもいいのだが、ジュンは初めて『取材』をしてみようと思った。


 土曜日の午後、自分の街にある『地域包括支援センター』をアポ取りして訪問した。


「こんにちは」

「こんにちは。文学部なんですってね」

「はい。今日はよろしくお願いします」


 地域包括支援センターはいわば介護の駆け込み寺のような場所で市町村というよりはエリア毎に細やかに設置されている機関だ。既存の介護施設の中に併設されていることも多く、そこにケアマネージャーが常駐し、介護に関わる様々な相談に乗っている。それだけでなく、相談者の実際の介護プランを策定するにあたって医師・介護施設・介護用に自宅をリフォームする際の建築業者、といったところまでコーディネートのために八面六臂の活躍をしてくれるのだ。


 今日、ジュンがインタビューのアポをとったのはケアマネージャーの井口いぐちだった。女性で30代前半、幼稚園に通う子供がいるという。


「さあ、なんでも訊いて、小説家さん」

「あの・・・ワナビ、ってやつです」

「ふふふ。デビューしてなくても書いてるなら小説家さんよ」


 ジュンから見た井口の第一印象は『頼りになるひと』だった。なんとなくこういうのを大人と言うんだろうな、と感じながらインタビューを始める。


「お応えいただける範囲で結構です。利用者さんのとても繊細なご事情もあるでしょうから」

「はい。嬉しいわね、誠意を持って取材してもらえると」


 ジュンが示した質問事項は次の三点だった。


 ①お仕事していて心身両面で『キツい』と感じるのはどんなことですか?

 ②『利用者』と『介護者』のどちらの立場に立ちますか?

 ③もしお許しいただけるのなら『死生観』をお訊きしたいです。


「へえ・・・ジュンさん。あなた本当に文学部生?」

「はい。コテコテの文学部ワナビです。どうしてですか?」

「いえね・・・質問①②は介護の本質を突く部分だからよ。福祉系学部の学生でもここまでズバッと踏み込んでくる子はいないわね」

「ええと・・・お褒めいただいてるんですか?」

「ええ、もちろんよ。さすが文学部。『人間』を描きたいのね、あなたは」

「はい」

「ならば、わたしもケアマネージャーという職業人として、そしてひとりの人間として真剣に答えさせてもらうわ」


 パーテーションで仕切られた面談スペースで井口とジュンの対峙が始まった。井口がまず口を開く。


「まず①。色々あるけど、ケアマネージャーとして一番キツいってなるとね。コーディネートした案件が破綻した時だわね、やっぱり」

「破綻、ですか?」

「そう。ほら、先月この街で起こった殺人事件のニュースがあったでしょう?」

「ええと・・・確か40代の娘が70代の母親を殺したって事件ですよね」

「あれ、わたしの依頼人」

「えっ・・・」

「わたしがコーディネートして小規模多機能型居宅介護、っていうのを利用したんだけどね」

「あ。地域密着介護サービス、ですね」

「ええ。偉いわね、きちんと事前勉強してきてる」

「インタビューの相手への最低限の礼儀ですから」


 井口はジュンの言葉に満足そうに微笑み、紙カップコーヒーを一口飲んでからその『衝撃的』な案件を話す。


「報道記事の『公知情報』として差し支えない範囲で話すわね。娘は地元の税理士事務所で会計補助として働いていて独身。後期高齢者の母親とふたり暮らしだったけど母親がある病気によって認知症となった。『ある病気』は機微情報だから伏せるわね。特別養護老人ホームに入所させたいと娘は考えたが施設の空きもなく、空いてても高額所得者向けのグレードの施設しか無かったので止むを得ずデイサービスと訪問介護を中心としたプランをわたしは立てたのね」


 井口の目を見て話を聞きながら、手元は見ずにペンでメモを取るジュン。


「でね。わたしはその娘さんがとても『明るい性格』なので大丈夫だと思った・・・ここはわたし個人の感想、という風に聞いて」

「はい。心得ています」

「ありがとう。娘さんは音楽が好きでね。お気に入りのロックバンドのコンサートが地方で開催される時にね・・・ほら、東京公演だとチケットがなかなか取れないらしいのよ」

「なんとなく分かります」

「で、娘さんが行きたいな、って迷う時もね、わたしは『お母さんをショートステイでお泊りさせて、行ってらっしゃいよ』って勧めてあげて。利用してる施設の方も丁寧に対応してくれてコンサートにも行けてね。気晴らしもできて無理ない介護プランだった、ってわたしは安心してたんだけどね・・・」

「なにか、問題があったんですか」

「ええ。娘さんは、『恋』をしていたのよ」


 あ・・・

 と、ジュンは思った。


 恋・・・


「娘さんのお相手は?」

「同じロックバンドのファンの男性でね。相手も40代。まあどうも告白も何もしていなかったらしいから始まってもいない恋だったんだけどね」

「どうなったんですか?」

「どうなったと思う?」


 ジュンは、自分がこれまで読んだり書いたりしてきた小説のキャラ達のココロと言動を総動員して答えた。


「『付き合えないのはお母さんのせいだ』って思ったんですか」

「すごいわ。その通りよ」


 井口は紙コップを両手の平で握り込み、半分ほどに減っていたコーヒーの液面が溢れそうになった。


「もちろん、男性が娘さんの想いに応えるかどうかなんて分からないわ。でも、たとえばデートをしようとする度に母親のデイサービスの時間を延長しないといけない。もし、男女の間柄になるようなことがあったら自分たちがホテルへ行くために母親のショートステイの手配をしないといけない。独身の男女同士だから不義でもなんでもない。けれども、娘さんにしたら、何か人間として自分がいけないことをしてるんじゃないか、って気分になったんだろうと思うのね」


 ジュンはもう一度自分の経験した小説を一気に脳内でリサーチした。


 だが、井口の発する言葉の重みに答えるに足る小説を自分が読んでもいないし、ましてや書けてもいないことを思い知らされた。


「後悔している。どんな手段を使ってでも彼女の母親を特別養護老人ホームに入所させるべきだったと思っている。彼女の母親を殺したのは彼女じゃない」


 ジュンは、井口の人間としての迫力に、圧倒された。


「わたしよ」


 井口の言葉が終わると同時に隣の面談ブースから声が上がった。


「ワシが介護すると言っとるんじゃ!どうしてワシの女房を姥捨山に持って行こうとするんじゃ!」


 それは痰のからんだ老人男性の嗄れ声だった。ほとんど叫んでいる声だった。


「ごめん。ちょっと失礼するわね」


 バタン、とドアを閉めて隣のブースに走る井口。


 ジュンは聞くつもりはなかったが、隣のブースにいる人間全員の声が、怒りに満ち満ちて大きくなっている。


 すべて、ジュンは聞いた。


「オヤジ!在宅介護するなんつって料理どころか皿洗いもしたことないクセにどうするつもりだよ!」

「うるさい!やると言ったらやるんじゃ!」

「お義父さま。わたしも昼間は勤めているのでお義母さまのお世話やお義父さまのお世話を十分にはできないんですよ」

「ワシの世話だとおっ!?」


 カン!カン!という音がして、ガシャン、と物が落ちる音がする。

 どうやら息子夫婦が母親を介護施設に入所させる決断をしようとする場面らしいが、父親の方が激昂して杖を振るって暴れているようだ。


 何人もの怒声が交錯する中、音量は大きいが、冷静で、滝の流れのような声が聞こえてきた。


 井口の声だった。


「ご主人。わたしは当センターの責任者としてあなたに進言します。奥様には特別養護老人ホームに入所していただくべきです」

「なぜだっ!?」


 父親の怒声にも、井口は静かに告げた。


「あなたに任せたら奥様が死んでしまうからです」


 うおおおっ!と父親が嗚咽する声が建物じゅうに響いた。


「ごめんなさいね。聞こえた?」

「はい」

「今のが、②の答えよ・・・」


 ジュンはそのあと、介護という仕事に関する質問だけでなく、井口という人間の根源を知りたくて、様々な質問を繰り返した。


 井口の幼少期。


 井口が遭ったいじめのこと。


 井口の初恋。


 井口自身の生家が姑が嫁をいびる前近代的な家庭であったこと。


 その嫁である井口の母親が、姑である井口の祖母が認知症になったと同時に報復のように介護放棄をしたこと。


 祖母の息子である井口の父親が不倫をし、自分の母親も、自分の妻も、自分の娘をも見捨てたこと。


 まだ高校生だった井口が祖母の介護を手続き面でも実際の介護作業の面でもすべて担わなければならなくなったこと。


 介護問題をなんとかしないと日本の家庭という家庭が崩壊してしまうという志を持って、ケアマネージャーの道を選んだこと。


「井口さん」

「うん」

「③の答えは・・・?」


 井口は、本当に満面の笑みでその最後の回答をジュンにしてくれた。


「簡単に死ねないって、辛いものね」


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