第29話 女子ふたりでお泊まり会をしよう

「こんにちは。小寺こでらと申します。これ、皆さんでどうぞ」

「あらあ、小寺さん。いつもジュンがお世話になって」


 小寺がジュンの家を訪ねたのは初めてだった。ふたりは大学で初めて知り合ったので一年少しの付き合いだが、ずっと連れ添ってきた恋人同士のように阿吽の呼吸で理解し合える親友同士だ。

 小寺は如才なくジュンの母親にもすぐに気に入られた。


「じゃあ、小寺ちゃん、どうぞ」

「では、失礼するよ」


 ジュンは自部屋に小寺を案内する。

 フローリングのジュンの部屋を見て、ただ一言。


「システマティック」

「それってどういう」


 小寺はジュンの作業机の前の椅子に座る。


「文字通りの意味。たとえばこの机。ノートPCの置き方も機能的の一言に尽きるよ。ジュン、これってオーディオ用のインシュレーションだよね」

「うわ。小寺ちゃん、どうして分かるの?」

「はーん。ウチのお父さんがオーディオ好きでね。アンプにもわざわざ別売のインシュレーションを買ってきてくりくりと装着してるんだよ」

「うわわ。小寺ちゃんのお父さんも?わたしのお父さんもそうなんだ。だから余ってる小さいインシュレーションを分けて貰って」


 インシュレーションとは音質追求のためにオーディオ機器が振動しないように土台として置く緩衝用のアクセサリーだ。ジュンはそれをノートPCの下に置いて小説を書く時のタイピングが静かにできるようにしているのだ。


「それから机から目を天井に向けると、はい!まさかの座右の銘が!」

「あ・・・それ、小寺ちゃんが来る前に外そうかとも思ったんだけど」

「ううん、素晴らしいよ、ジュン」


 天井に一枚の色紙が貼ってある。ジュン直筆の毛筆でこう書かれていた。


『根性』


「恥ずかしい・・・わたしの柄じゃないんだけどな、ほんとは」

「ううん。ジュン。普段とても大人しくて目立たないようにしてるけど、あなたは熱いココロを持った女子さ!」


 ジュンには大願がある。その本当のココロの奥底にある願望は小寺にも話していないし、それは願が叶うまでジュンのココロの中に秘めたままにしようと決めているものなのだが、何がなんでも成就させようと、夜寝る前にこの『根性』という色紙を見つめながら一日をリセットし、目が覚めるとまた新たな生を受けたようにその大願を目指して一日をスタートさせるのだ。


 そういう意味で小寺が『システマティック』と評したジュンの部屋で、小寺が持参したお土産をさっそくふたりは頂いた。


「アンリ・シャルパンティエのフィナンシェ!わたし大好きなんだ!」

「おー。ジュンはさすがに贅沢娘だねえ」

「意地悪しないでよ、小寺ちゃん。世間の人たちがギャンブルやら不純異性交遊やらに使う金額から見たらかわいいもんでしょ」

「うん?これって不純同性交遊じゃないのかな?」


 けらけらと笑い合う女子ふたり。

 そして現役の文学部生らしく小寺はジュンの本棚もチェックする。


「へえ・・・ジュンは結構古臭いものばっかり読んでるんだねえ」

「古臭い?ちっ、ちっ、ちっ。この小説の衝撃を超えるような作品はそうそうないと思うよ」


 そう言ってジュンが自慢げに披露したのは新潮文庫の大江健三郎の作品たちだった。ブックカバーが茶色で統一されたその作品群はタイトルからして異次元の発想を思わせた。


「『死者の奢り』『芽むしり・仔撃ち』『個人的な体験』『性的人間』『見るまえに跳べ』『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』」

「カッコいいでしょ」


 小寺は大江健三郎の、特に初期の小説が深甚な沈み込むような深みと、フィクションであるはずなのに圧倒的な現実感を持ち、読むものを本当に作品たちであることを、文学史の観点から知っていた。

 けれども、そういう作品を深く理解しながらも『カッコいいでしょ』と一言で表現するジュンの感性を小寺は人間的に尊敬すらしていた。いや、尊敬を通り越して、


『だから、ジュンが好きなんだ・・・』


 そういう感情を親友に対して持つことを小寺は止めることができなかった。


 小寺もお気に入りの小説を持参していて、ふたりは短い午後をジュンの部屋のフローリングで寝そべりながら、互いが所有する小説を読みふけり、疲れたら文学論に興じた。


「いらっしゃいませ」


 ジュンと小寺が夕食のために訪れたのは、ジュンの家の最寄り駅にある小さなイタリア料理の個店だった。

 ジュンの母親は手料理で小寺をもてなそうと訪問前から何度もジュンに打診していたのだが、


「わたしがホストで大切なお客さんを迎える時は絶対『ドン・ペドロ』」


 と頑として譲らなかったその店はジュンが子供の頃から家族の祝い事の際に訪れて来た店だった。


「ジュン。イタリア料理店なのに『ドン・ペドロ』って違和感あるんだけど」

「ごめん。わたしも店名の由来は知らないんだ」

「ずうっ、と通ってるのに?」

「うん。常連振るのも嫌だし、ミステリアスな部分を残しといた方がドラマ性もあるし」


 それはジュンの本音だった。

 だから『純喫茶・ルーシー』の店名の由来も敢えて唐沢からさわに訊かずにいる。


「お嬢様は今年で二十歳になられるのでしたね」

「はい。ですのでわたしはアップルタイザーを。この子は成人しているので何かおススメのワインを」

「えー。わたしだけ?いいの?」

「どうぞ。当店はわたしがイタリアのワイナリーを実際に訪れて直接空輸して貰っているんです。もしわたしの目利きを味わっていただけるなら」

「わ。それならお言葉に甘えて」

「では」


 若き二代目の女性オーナー・シェフが小寺に勧めたのは白ワインだったが、甘口ではなくビターなそれだった。


「じゃあ、乾杯」


 アップルタイザーとワインのグラスを触れ合わせるふたり。

 料理もふたりの会話を邪魔しない絶妙なタイミングで運ばれてくる。


「ねえ、ジュン」


 コースも半ばになったころ、程よく酔いを楽しんでいる小寺が不意に言った。


「何かあったの?」


 酔っていないジュンは、しばらく黙ったままで小寺の目を見つめ、踏ん切りがついたところで返事した。


「うん。あった」

「なに?」

「・・・ごめん。言いたくない」

「そっか・・・」


 ジュンの『あった』というそのことは、ショッピング・モールのフード・コートで見ず知らずの男にスマホで書いていた小説のタイトルを盗み見られて罵倒された出来事だったのだが、フラッシュバックになるほどジュンを傷つけていた。


 辛いので、口に出すことはできなかった。


「ジュン・・・大丈夫?」

「うん・・・うん、大丈夫。小寺ちゃんが居てくれるから大丈夫」

「ありがとう。ねえ、ジュン」

「なに」

「わたしたち、男と女なら良かったのにね」

「え・・・」

「引いた?」

「ううん。そうじゃなくて。どっちが男でどっちが女だったら良かったのかな、って」

「そりゃあもちろん」


 小寺がそう言った時に、パスタが運ばれてきた。


「お嬢様がお小さい頃からお好きだった、バジルのパスタです」

「へえ、そうなんだ!?」

「な、なに?小寺ちゃん」

「いやー。バジルだなんて、かわいいね。やっぱりわたしが男かな」

「どっちでもいいよ」


 ゆっくりとディナーと夜を楽しんでふたりがジュンの部屋に戻ったのは夜も更けた時間帯だった。


「お風呂頂きましたー」

「はいどうも」


 パジャマ代わりのTシャツでくつろぐふたり。小寺はいつもの軽いメイクを落とした素顔になり、逆に普段からすっぴんのジュンは火照った頬が化粧をしたように映えている。


「ジュン〜」

「わ!エッチ!」


 きゅっ、と小寺がジュンに抱きつく素振りを見せた後、嘘嘘、とつぶやいてジュンの頭髪をぽんぽんする。


 フローリングに来客用の布団を並べて仰向けになるふたり。照明を消した天井に『根性』の色紙がぼんやりと浮かび上がる。


「ジュン。嫌なことは言いたくないだろうけど、『大願』は教えてもらえるもんかな」

「・・・じゃあ、小寺ちゃんにだけ」


 ジュンは部屋にいる何か目に見えない精霊か霊魂にでも漏れ聞かれたらまずいと感じたのか、ふたりきりのはずなのにそっと小寺の耳許で囁いた。


「あのね・・・・・・・・だよ」

「うおっ!」


 小寺が、ばっ、と布団の上で起き上がる。


「す、すごいよ、ジュン!」

「まだ、スタートラインにすら立っていないよ」

「いーや。そういう大志を抱くだけですごい!わたしも応援する!っていうか、わたしもジュンほどの志を持って小説を書くよ!」

「うん!書こう!」

「・・・ジュンとは恋人同士になれないのがなんだか寂しかったけど・・・でも、いいや」

「・・・どうして?」

「女同士だから、『同志』になれるさ。色恋抜きで!」


 くすくすくす、と笑い合いながら、大いなる安心感に包まれてふたりは眠っていった。



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