第16話 ヘソでコーヒーを沸かそう
ルーシーのガスコンロには常に大振りのやかんが火にかけられている。
とろ火で熱湯に近い温度に保たれるそのお湯の使用方法は主に二種類。
まずはコーヒーのカップを温めるため。
お客さんのコーヒーをカップに注ぐ前にその熱湯を少量入れてそのままさっと捨て、熱でからっとさせるのだ。そこへコーヒーを注ぐ。
もうひとつの方法はそうして淹れたブレンドに更に湯を足してアメリカンにするためだ。
「マスター。ずっとそうしてたらガス代かかりますね」
「必要経費だから」
熱い湯を溜めておくならばポットなんかでもいいとジュンは思うのだが
「ホンモノのお湯じゃないとダメなんだ」
もうじき閉店の時間になる頃になって四人組のお客が入ってきた。
全員女性でアラサーかもしかしたらアラフォーの人もいるかな、という仲良しグループ。
「へえ。駅の隣なのに一度も入ったことなかったけど結構いい雰囲気の店だね」
「そうねー。キャハハハハハ!」
「ほんとだねー。ケラケラケラケラ!」
「ちょっとみんな声大きいよ。フッフフフフフフ!」
四人はブレンドをオーダーしてレジのて前のテーブル席に座った。
他に店内にいるのはいつもレトロな麻雀ゲームが組み込まれたテーブルでビールを一本飲んでいく常連の中年サラリーマンと、ベレー帽を被り競馬新聞の分析をする老紳士の常連客だけだった。
ジュンが女性四人のテーブルにブレンドを運ぶ。
「お待たせしました」
「あら。あなた、アルバイト?」
「はい。そうです」
「大学生でしょ?」
「はい」
「もしかして、この駅の?」
「はい。そうですけど」
「そっかー。あの大学じゃ家庭教師のアルバイトとか頼まれそうにないもんね」
「えっ・・・」
「ダメよー、そんなこと言っちゃ。失礼じゃない」
「あ。ごめんなさい。つい。キャハハハハハハ!」
「は、はははは・・・」
ジュンは力ない笑いでカウンターに戻る。唐沢が申し訳なさそうに言う。
「ごめんよ、ジュンちゃん。嫌な思いさせて」
「マスターが謝ることないです。ウチの大学がウダツが上がらないのは事実ですから」
「すまないねえ。ジュンちゃんは大人だねえ」
ジュンは大人の定義が分からなかったが、皮肉を言ったり無頓着に人を誹謗中傷するような振る舞いをしないのが大人だろうという知性と理性は持ち合わせていた。
それに、こういうことは世の中でよくあることだという寛容さも。
それにしても四人はよく笑った。
「でさあ、あのハゲツル部長がさあ、フワハハハハハ!」
「なになに?女子から完全無視?キャハハハハハ!」
「やーっぱり常識無いよねー、ウチの会社の上の連中は!ヒィヒヒヒヒヒ!」
「ホーホッホッホッホッ!」
「キョーホホホホホ!」
「あっ」
「うっ」
静かに麻雀ゲームに興じていたサラリーマンとベレー帽の老紳士が同時に声を上げた。
大切な常連客だ。ジュンはすぐさまふたりのテーブルに歩み寄る。
「どうされました?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
ふたりの話を聞いた後で四人のテーブルに向かう。
「あの、申し訳ございません。もう少しだけお静かにお願いします」
「あら?わたしらはお喋りしてるだけよ?だって喫茶店ってそういう場所でしょ?」
「すみません。静かにお過ごしになられるお客様もおられますので、ほんの少しだけ、お声を落としていただけませんでしょうか」
「ふうん。なに、あの二人、常連?」
「お客様の個人の情報をお伝えすることはできません」
「でも、差別よね。あの二人だって誰かと一緒に店に来れば大声で喋るんじゃないかしら?ぼっちだからそうできないだけで」
「・・・お気を悪くなさったのならば申し訳ございません。なにぶん当店は小さな個店ですので座席も近く狭い空間でご不便をおかけします。どうぞご容赦くださいますよう重ねてお願い申し上げます」
「ふうん。分かったわ。静かにすればいいのね」
「恐れ入ります。ありがとうございます」
そう伝えてジュンがカウンターに戻るとまた唐沢は感心した。
「いやあ。ほんとに大人だねえ、ジュンちゃんは。それに比べてあの方たちは・・・」
「いいえ。マスター。あのひとたちが今のスタンダードかもしれませんよ」
「だとしたら危機的状況だ」
四人はいったん静かになったが1分としない内にまた笑いに満ちていった。
「やーよねー。寂しく人生を終えていくぼっちは。フヒャフヒャフヒャ!」
「ほんとだよねー、わたしだったら耐えられないわー、グエへへへへへへ!!」
笑いのデシベルがMAXに振れ切った時、
「ああっ!」
「うおっ!」
常連の二人がさっきよりも大きな声で同時に声を上げた。様子が尋常でない。
ふたりは立ち上がってゆっくりと女子四人のテーブルに歩み寄った。
「すみません。僕、三年越しでもう少しでゲームクリアできそうだったのに、あなたの笑い声でミスってしまいました」
「な、なに?アンタ。だからどうしたっての」
「申し訳ないが・・・ちょうど天の啓示が降りてきそうだったのに、馬券の番号のイメージが消えてしまった。どうしてくれますか?」
「なに?馬券?な、なに言ってるの?そんなの知らないわよ!」
「そうよ!アナタたち、寂しくてこんな場末の喫茶店で麻雀ゲームやってるぼっち中年に、誰も老後の世話をしてくれない競馬狂いの孤独老人でしょ?キモ!」
その様子を見てジュンが早足で向かおうとすると唐沢が制した。
唐沢自ら6人の所に向かう。
「女性のお客様。お代は結構です。どうぞお引き取りください」
「なによ、アンタ」
「当店の店主の唐沢と申します。どうぞお引き取りください」
「な、なによ!こっちだってお客よ!客を差別するの!?」
「はい」
「なんですって!?」
「商売ですから。わたしの店はコーヒーやアルコールを飲みながら静かに一日を終えていただくために営業しております。四人様も当店にお立ち寄りくださったことはとても嬉しいのですが、スタッフのお願いを聞いていただくこともできませんでした。そして当店をご愛顧いただいている大切なお客様に乱暴な発言をなさいました」
「な、なによ!そのキモい男2人の方が大切だって言うの!?」
「はい。このお二方の方が大切です。そしてこのお二方は、ジェントルメンです。キモくなどありません」
「ツ、ツィッターで拡散するわよ!」
「構いません。お客様のご苦情を受け入れるのもサービス業の宿命です」
「ああ、気分悪い!いくら!?」
「さっきも申し上げたでしょう。要りません」
睨み付けるように振り返りながら四人は店を出て行った。
ベレー帽の老紳士が唐沢に頭を下げる。
「マスター、申し訳なかった。つい我慢がきかずに」
「いいえ。こちらこそ不快な思いをさせて申し訳ありませんでした」
「マスター、僕も申し訳ありませんでした。大人気ない行動をしてしまって」
「いいえ」
唐沢は間を置いてから静かに言った。
「自分の憩いの時間を守る。それはホンモノの大人に許される当然の権利です」
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