第2話 オーダーを取ろう

 ジュンの日常を過ごす場所がひとつ増えたわけだ。


 その喫茶店の名前は『ルーシー』だった。社交辞令でジュンは店名の由来を訊いたが、「言いたくない」というダンディに見える唐沢からさわから意外な茶目た返事が返ってきて、くすっ、と目立たないように笑った。


『実は「ルーシー」はマスターの別れたアメリカ出身の奥さんとの間にできた娘さんの名前で、別居しているルーシーの可憐さを思うあまりに恥ずかしげもなく店名にしたんだねきっと』


 ジュンはそういう妄想を頭の中に浮かべて、思わず微笑んだのだ。


「こんちはー」

「いらっしゃいませー」


 今日はジュンの出勤二回目だ。

 前回採用された日にいきなり店に出たが、ついぞお客さんが一人も来ずに自分は帰った。

 なのでこのお客さんがジュンにとっての第一号だ。


 まるい銀のお盆に、お冷やとおしぼりをのせ、唐沢から教わったようにお盆の重心をできるだけ体に近いところに持たせるようにすると、プロっぽく片手で持つことができた。


 会社帰りの壮年男性が座った奥のテーブルまで慎重に歩いて行って、注文を取った。


「いらっしゃいませ。ご注文を伺います」

「お。アルバイト?」

「は、はい」

「マスター!いい娘入れたねー!」


 カウンターの向こうで洗い物をしていたマスターがお客さんに返事する。


「東堂さん、あまりそういうこと言うとセクハラですからやめてくださいねー」

「おお、ごめんごめん」

「でも『いい娘入れた』っていうのは僕も思ってますよー」


 あら、なんだか嬉しい、とジュンが思ったところで東堂さんという常連ぽいお客さんがオーダーした。


「アイスコーヒー。ミルクちょびっと」

「はい?」


 ちょいちょい、と唐沢がジュンを手招きする。ジュンは唐沢にクレームするように言う。


「ミルクちょびっと、って言われました。アイスコーヒーなのに」

「合ってるよ。ウチはアイスコーヒーをサーブする時に、店員がその場でミルクを入れてあげるんだ」

「はい?」


 唐沢は銀の小さなミルクポットをジュンが持つお盆の上にことん、と乗せて待たせている間に、アイスコーヒーを入れた大きなペットボトルを冷蔵庫から取り出した。冷凍庫からはブロックの氷をひとかたまり取り出して、ピックで砕く。ワイングラスの様な形のアイスコーヒー用のグラスにカラコロと入れてその上からアイスコーヒーを注いだ。


「これはガムシロ入りのボトル」

「え。最初っから入ってるんですか?」

「そう。ブラックのボトルは別にある」


 かたん、とグラスもジュンのお盆の上に乗せて唐沢は彼女を励ました。


「さ。行っておいで。東堂さんはミルク一滴だから」

「い、一滴!?」


 ジュンは有無もなく東堂のテーブルにアイスコーヒーを運ぶ。

 と、とグラスを置いてその傍にストローを置く。

 それからゆっくりと指にかけるようにしてミルクポットを持ち上げ、グラスの上にかざした。


「い、いきます」

「おお。おいで」


 なんだか東堂とのやりとりをエロティックだなと感じながらジュンはミルクポットをかたむけた。

 ぐぐ、と肩と上腕二頭筋に力をこめ、肘から先はできるだけ柔らかに可動するよう努力した。


 きれいに磨かれた注ぎ口が功を奏した。


「うっ」


 ぽちょ。


「お見事!」

「どうもです」


 ジュンは初の接客で一飛びに一人前のウェイトレスになった気分だった。

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