第十一話 『オリジンナイト』

 何を、やっている?


 目の前には、昏倒した智富世の姿。

 決着の近い戦場の中で、一人思う。


 今、智富世は俺を庇って倒れている。


 俺は分かりきった自認を繰り返しながら、動かない智富世の方へふらふらと歩んでいた。

 左肩から今も溢れる、致死量の血液も、魔手が再び振り下ろされるという懸念も意識の外。

 ただ智富世だけに、心が囚われる。


 全くもって、無かっただろう。

 智富世が倒れる必要なんて。


 有り得ないはずだったんだ。

 俺が彼女に、近づかなければ。


 今の俺には大きな隙が出来ているはず。それなのに、瑠璃髪の少女が拳を振り上げることは無かった。


 ほどなくして智富世の傍らに辿り着く。


「…………」


 俺は、彼女の目の前で立ち尽くしていた。


 それ以上、俺は智富世に近づけなかった。

 触れられなかった。

 無事を確かめるために、俺は彼女に触れなければならない。

 俺の力で治療を施すにも、形相の腕で彼女の身体を包まなければならない。


 分かっている。

 でも、俺が彼女に触れる資格など全くないなんて、思えてしまって。

 智富世のために、俺は余計なことをするべきじゃないんだ。


「ごめん……」


 俺が智富世を傷付けた。

 俺は出来ることなどないと分かっていたのに、わさわざ戦いに介入して、智富世の足を引いた。

 想いと実力とが釣り合っていないのに、何か協力できると思っていた。

 その結果が智富世を魔の手にかけることだなんて。


 なんだよ、それってただの邪魔者だ。

 フェネクスも言っていた。

 まだ都合が悪い、弱い、と。


 俺は選択を間違えたのだ。

 俺が超常の者達の戦いに介入するにはまだ時期尚早が過ぎていて、それでもどうしようもない事態に介入しようとした。

 未解明で不完全な形相の腕で。


 いや、どうだろう。

 本当に早すぎるのだろうか。


 だって形相の腕は世界で俺にしか宿っていない唯一無二の代物。

 ならばきっと、その力を引き出す鍵は己の中にある。

 何時や誰など関係なく、自分自身が見出さなければ、恐らくずっと弱いままだ。


 目の前の物語に干渉できない、ずっと流されるが儘の自分。

 何も変えられない、咲■に顔向けできない——。


 ——兎角、俺は事実として、現状の選択を間違えたのだ。


 前にも間違えた。


 俺は退けば良かったのに、悪魔と対峙したせいで祈織を守れなかった。

 はきちんと向き合わなかったから、智富世と離れ離れになった。


 いつだって、奇縁の単存在マリッジ=ユニは取り返しのつかない間違いを犯す。


 ああでも、ほら。


「……」


 後悔は、もう遅いか。

 死の巨人が、既に背後に来てしまった。


「訳あって、識という人の所に貴方たちを連れていきます。殺すことになるって言われたけど、今の貴方なら着いてきてくれますね」


 智富世を前に立ち尽くす俺の耳を、瑠璃色の少女の声が震わせた。

 背後で、巨大な掌が漂う気配。一切の抵抗を許さないとでも言いたげな、強い殺気が背を向けたままでさえ伝わってきた。


「連れて行って、どうするの」


 少女を刺激しないよう、静かに問いかける。


「ボクにそれは分かりません。でも、生死は問わないと言われているので、きっと……」


 結局は殺すことになる。

 直接少女が口に出さなくても、理解できてしまった。


「そう。……なら何故そうまでして、君は俺達をその人のところまで連れて行く?」

「……」


 少女が暫し沈黙する。どこか嫌気の差した感情を含んだ溜息をついてから、ゆっくりと口を開いた。


「……ボクの目的が、過去を変えることだから」

「過去を……変える?」


 予想外の答え。オウム返しした俺に、少女は、はいと頷く。


「その為に、貴方たちを観察しました。飛蝗をけしかけたのもボクがやったことです」


 確かに彼女自身が飛蝗を放ったのなら、近くに居て襲われたふりをしていたのだろうと予想がつく。

 変えたい過去があるのなら、血眼になって襲ってくるのも無理はない。あれほどの超常の力を持った少女。彼女も過去が風化しない類の者なのだろう。


 しかし、そもそも少女の目的は破綻している。

 過去を変えることが目的であると、少女は言った。


「俺が知っている中で、過去をどうにかできる力を持った者なんていない」


 前提として、少女の求めるような特殊能力の持ち主を俺は記憶していなかった。


「それに人違いじゃないにしても俺達を殺す必要なんて、ないよ」


 そしてもう一つ、少女には指摘ではなく、提案がある。


「過去を変える力があるにしても、ないにしても。力なら貸すよ」


 提案であるはずなのに、どうしてか声が懇願のように震えてしまった。


 別に命乞いというわけではない。

 少女に変えたい過去があるのなら、襲われていなくても俺は真剣に彼女の話を聞いていただろうし、今でも智富世の事を見逃してくれるのなら、喜んで協力する。


 でもやっぱり、どうとでも言える。智富世の事を見逃してくれるなら、と思うあたり命乞いもあるんだと思う。


 俺は、智富世を危険な目に合わせてしまっている。

 俺の選択と、強さがないことで。

 だから俺は、智富世を救うためにあらゆる手を尽くさなければならない。

 でも今の俺の最大限は、目の前の少女に助命を乞うことだけだった。


 強さがなければ相手の優しさに甘えることでしか、対話のチャンスなど得られない。

 その一縷の望みに縋っていた。


 でもそれが叶うのなら、始めから瑠璃色の少女は俺達を襲撃などしていないはずで。


「ごめんなさい」


 たった六文字の言葉で、哀願は否定された。


「今のボク、冷静になれなくって。貴方の話、にわかには信じられません。そんなことより早く、確実に、助けたくて」


 少女は初めから、個人に向けるにはあまりに大きすぎる殺意を抱いていた。きっと、変えたいという過去に苛まれて、擦り切れて、とうに狂っていたのだ。

 苦しい過去であることは、心の線で伝わってくる。悲歎から解放されたくて堪らなくなって、真偽さえ疑わずに殺人だって成し遂げる。

 少女は努めて理性を繕っていただけに過ぎない。表面上で会話が成立していると錯覚しても、少女の意思には願いをかなえることしか残っていなかったのだ。


 だから信用出来ない俺の言葉なんて、届くはずなかった。


「従わないのなら、強硬手段で終わらせます」


 視界の外で、巨人の腕が大気を揺るがす。地響きにも似た重く、くぐもった巨大な音。

 空から伸びる影の大きさで、俺と智富世を同時に呑み込むつもりであることは一目瞭然だった。


 終わってしまう。

 こんな愚かしいきっかけで、俺は智富世を終わらせてしまう。

 抗う術を持たず、戦う強さを持たない俺は何もできず、果てる。


 祈織に約束、破らせてしまう。

 智富世に何も、伝えていない。

 日優をまだ、■■■いない。


 そんなままで、彼女達との奇縁は停滞する。


「駄目だ……」


 それは、どうしても嫌だ。


 いつかこの身体にも智富世にも、何時かは終わりが訪れるのだろう。

 変わることの無い存在と言われながら、智富世はこの世界に来訪した。

 生死の無い存在と言いながら、俺には生前フィリアの記憶が眠っている。


 ならばそれは紛れもない有限の証明。

 続きの紡がれない物語の終幕は、未来に必ず存在する。


 でもそれが今であるだなんて、許さない。


 ずっと秘められていた、単存在の感情が拍動する。

 失われたマリッジ=ユニの回路に、火花が散る。


 というか終わりだなんて、本当は認めたくなんかない。


 智富世に終わり?

 嫌だ、在り得ない。


 俺の意識の内で、前の青年の激情が溢れだす。

 今までずっと、彼は意識の主導権が俺にあることに我慢していたのだろう。

 一度零れた感情は、とめどなく俺と彼の意識を混濁させる。


 智富世に死んでほしくなんかない。

 ずっと幸せでいて欲しい。


 この総汰にだって、続いてもらわないと嫌だ。


 だって、彼は僕の存在を受け継いでいる。

 もう僕は終わったものと諦めていたのに、彼が僕と智富世を再び出逢わせてくれたんだ。


 こんなチャンス、二度とない。

 僕は、俺は、智富世と物語の終焉も、一緒に見届けたい。


 だから智富世とはこれから永久とこしえ、一緒に居たい——!


 もうとっくに、俺は智富世に囚われていた。

 たった一日、それだけの関係。

 だというのに俺は、彼女と何千年と共にしてきた。そんな感覚を、確信している。


 とめどない、恋慕の情。


「……終わりにします」


 それを否定したのは、少女の宣告だった。

 逃げ場など与えないというように、一面に手で象られた牢獄が広がる。


 直上には、月夜より深い濃紺の戦槌。

 俺の独白など歯牙にも掛けずに、迷いだらけの一撃が振り下ろされた。


 認識する暇さえなく、俺は巨人の腕に潰されて——。


【証明】


 ——青く白い輝きが迸り、巨人の腕を迎え撃った。


「……う、そ——っ」


 狼狽の声は、少女のもの。

 当然だ。

 少女の放った最後の魔手は、決定的な一手であった。

 しかし、突如として生まれ落ちた光の球体が、遍くすべてを呑み込んで。

 破壊不能の空間の掌を押し戻さんとしていたのだから。


 まるで、突如として地上に現れた最輝度一等星シリウス


 光の発生源は、形相の腕を中心とした俺の身体。

 俺は光速に迫る速度の巨人の拳を、確実に認識していた。

 形相の腕から放たれ続ける光で、巨大な魔の腕を押しとどめていた。


 過去に類を見たことのない、強大で底無しの力が全身から超輝度で流れ出す。

 天井のように智富世と自身を覆い、絶対的な障壁が腕を押し戻す。


 物理を超越した権限と証明とが拮抗し、星の誕生スターバーストにさえ似た量子の奔流が両者の間隙から零れていた。


 そして変化は、一つにとどまらない。


 少女の放った拳によって失われたはずの俺の左腕。

 損なわれた左肩から、形相の腕と同質の糸が無数に伸びていく。

 腰元くらいにまで至ったところで糸達が互いに捩り合い、結び合い、新たな腕を形作る。


「う、でが……!」


 瞬く間に左腕を再生させた。

 圧倒的な力の塊を受け止めながら、自己の損傷を復元していた。


「……!」


 少女だけでなく、俺自身も言葉を失う。


 だって俺は証明だなんて御業を、行使しようとすらしていない。

 そもそもそんな力、知らなかった。

 知っていたのなら最初から使っていた。


 智富世達を守れる力も自分の身体を修復する力も、俺は最初から持っていて、使い方が分からなかっただけの愚か者ということか!


 なんなんだ俺の身体は。

 どうして智富世は教えてくれなかった。


 問いへの答えは、即座に顕わになる。


 世界の始まりの音だけが響き渡る、誰も言葉を使わない宇宙の中で、隙を伺っていたかのように、一つの声が俺の意識に反響した。


『ごめんね。僕は君を、僕の心に縛ってしまった』


 それは、邈焉ばくえんの過去、別世界からの叫びの残響。

 落ち着き払った、教会の鐘のような青年の声が語りかけてくる。


『だから君に、大事な人を守るための、僕らだけのやり方を教えるよ』

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