第十話 『怪腕の夜』

「本当に良かったの?」


 現れた巨大な飛蝗をたおした後のこと。

 長約神社を去った俺達は市内の住宅街を歩いていた。

 オフィス街や繁華街のある中心部からは少し離れたところに広がっている、一般的な住宅街である。

 道の至る所に設置された街灯はしっかりと整備が施されており、明かりが切れかけていることや蜘蛛の巣が張られているようなことは滅多に見られない。

 水宮家による都市開発が進められて以降、治安や交通の便が非常に良いという理由もあって入居者は年々増加傾向にある。


 住宅街の東側に位置するスーパーにて、遅くなった夕飯の材料を購入した後、俺は智富世を伴って帰路についていた。


「良かった、とは?」


 智富世の言葉に小さくうなずく。


「今夜、ウチで泊まる事だよ。祈織にはもう連絡入れといたけれど、やっぱり会って間もない男の家に上がるのは不安じゃないの?」


 そう。先に気づくべきだったが、別世界から来た智富世はこの世界に寝泊まりする場所を持っていない。

 メッセージを送ってきた祈織の指摘により、急遽俺か祈織の家を宿泊先にすることが決まったのだが、智富世が選んだのは祈織のマンションではなく俺の自宅だったのだ。


 妙なつながりを覚えてしまっていたのと、濃密な一日過ぎて忘れかけていたが、俺と智富世は出会ってから一日と経っていない。

 別に俺は構わないが、智富世は女の子である。そういうの、気になるんじゃないだろうか。


「別に大丈夫よ。総汰の心はもう読んでしまっているから、下心がないことなんて分かってるわ」


 どうやら心配は無用だったらしく、智富世は諭すような口調で苦笑した。


「……下心そのものが無いとは言わないんだ」

「ん、心を声に出しても、いいの?」

「それは辞めてくれると助かる。恥ずかしいから」


 流石に俺も、そういう気持ちを当人から言語化されるのは堪えるものがある。


「ま、きみが良いならいいか」


 智富世が自ら望んでいる以上、俺の方から確認を取るのは、むしろ泊めるのを嫌がっているように聞こえるかもしれない。


「……そういえばさ、聞きたいことがあったんだ」

「……?」


 早々に話を切り上げ、別の話題を言葉にした。


「きみの能力についてなんだけど」

「能力……弓のこととかについて、かしら?」

「うん。なんとなくだけど、きみが人の記憶や心を読んだり、ビーム……光を放つ弓を召喚することができる何らかの力を持っているってことは理解できた」

「ええ」


 否定することなく、智富世は俺に話の続きを促した。


「始めて俺と出会ったとき、俺の意識を奪った力はそれらの力とは別の起源なんだっけ」

「そう。貴方と同じ、単存在の存在証明によるものよ」


 成程。智富世が髪を白く染めていた時に行使した力は、俺の持つ力と関わりの深い力であるようだ。

 しかし確かにそれも重要だが、今彼女に訊きたいことはそのことではない。

 

「それで、さっき神社で同じことを聞いたとき、きみが言っていたことが気になっていたんだ」


 そこまで言うと智富世も察しがついたらしく、小さく指を立てた。


「現像の種についてのことね?」


 彼女が元の姿のままで、瞳や髪に輝きを宿し行使した力について、である。


「そう、それ。それがきみのもう一つの能力の正体だって。あらゆる物語を作ったとされる果実の一部とかって言ってたけれど、俺にはそれが良くわかっていない。教えてもらえるかな」

「分かったわ」


 俺の要求に二つ返事で了承した智富世は、少し考えるようなそぶりを見せ、「どこから話せばいいかしら」と顎に手をやる。

 しばらく時間を置いて、智富世はおもむろに口を開いた。


「ちょっと信じ難い話をするわね」


 智富世が一度、忠告をしてくれる。もう俺が非日常な事態に慣れてきていることは智富世も理解しているはずなので、わざわざ言うということはそれほど眉唾に思える話なのだろう。


「物体や概念には、その定義や法則を決めたモデルケース、ありとあらゆる世界と世界の要素を作り出し、設定したモノが存在する。そしてそれが現像の種。そう言ったら、貴方は信じてくれる?」

「……」


 即座には返答できなかった。多元宇宙論やイデア論に近いような、いきなりスケールの大きな話が飛び出して来たために咄嗟に理解が追い付かなかったのだ。

 気付いた智富世が、俺に分かりやすく説明を始める。


「そうね……たしか総汰の世界って、機械を用いた遊戯道具があるはずよね?」

「……コンピュータゲームのこと、かな」


 一瞬、何を指しているのか分からなかったが、機械の遊戯道具という言葉のイメージからすぐに理解が追いついた。

 えらく規模が小さくなったな、とも。


「それで、ゲームがどう関係するの?」

「えと、ゲーム、が略称でいいのね……それで、たしかこの時代のゲームって、本来電気信号のオンとオフの切り替えでしかないもの。それに絵だったり性質だったりを与えることで様々な物体や現象を表現している……あってるわよね?」

「あー、うん。二進数とか十六進数とか、そんな言葉聞いた事ある気がする」


 ゲームについて詳しくは無い俺だが、流石に智富世の言わんとしていることは理解出来たので、曖昧に頷く。

 物語として俺達の世界を知っていたと話していたが、智富世は想像以上に俺達への世界の造詣が深い。

 読書好きと言っていたから、その中でいくつかこの世界の機械に関する考証とか、そういう類の本を読んだことがあるのかもしれない。


「例えばだとしたら、熱くて火傷をするとか煙に従うとか、基本的には赤い色だとか、そういう設定を与えることでプレイヤーと、そして世界そのものに『炎とは何か』を教えている」

「ええと、ゲーム製作時に炎の揺れるパターンとか温度の変動値とかそういうものを作ったり、割り当てるってことかな」

「ええ」


 智富世が軽く頷いて、続ける。


「それの現実版が現像の種ということよ。物体の在り方や、世界の法則を設定したもの。それが私の持つ知識の種を含んだ、現像の種の正体ね」


 言いながら、智富世は胸のあたりに手を当て、どこからともなく髪と同系色の紫苑色の小さな宝石を取り出した。

 よく見るとそれは月明かりとも、街灯の光とも無関係に色を放つ、本の形をしていた。


 つまりその本の宝石が、知識の種ということなのだろう。


「……言いたいことは、分かったよ」


 智富世の片手に収まる宝石、知識の種を眺めながら頷く。

 簡単に言えば、現像の種とは世界をデザインするゲームエンジンで、俺達が物理法則や素粒子の中で生きているという事実は全て、そういった概念や法則が誕生すると設定されたものということらしい。


 にわかに信じがたい、受け入れがたい話である。


 だってそれは、現実は創作物フィクションといっているようなもの。

 生命が観測する世界は全て本人の脳の中で作り出された幻想だという説があるが、そんなものとは比較にならない。


 リアルとフィクションの境界が物理的に曖昧になってしまう。


 それに、どうしてそんな、ものを智富世のような個人が所持しているのか。


 智富世が『知識の種を含む現像の種』と言っていたあたり、いくつか現像の種には種類があって、その物たちも誰かに与えられているのだろう。


 そんな代物を所持する者が何人もいるなんて、もし生命を司る種といったものが存在したのなら、意思ひとつで人類を変化させられるのではないか?


 そんな予想に、智富世は「そういうことになるかも」とまたも心を読んで首肯した。


「世界の法則を作ったのだから、同じ炎で言うなら不死鳥の炎だったり、冷たい炎だなんてものも世界に定義させられるはずよ」


 やっぱり淡々と智富世は話しているが、現像の種って想像以上に規格外な存在じゃないだろうか。


 心を読まずとも、顔に出ていたのだろう。

 くす、と智富世が仄かに笑った。


「そうね。だから当然持ち主になるには条件があるの。私の友人の話では、ある存在に気に居られた者だけが現像の種を与えられるとのことだそう。……その種を与えてくれる存在なんだけど……」


 そう言うと、智富世が口をつぐんでしまった。どこか彼女の表情に逡巡の色が漂う。

 俺を気遣ってのことだということが、心の線から伝わってくる。


「多分、話しても大丈夫だよ」


 続きを促すと、そっと一言。迷った末に智富世は誰かの名前を呟いた。


「……アイディル」

「あい、でぃる?」


 聞き覚えの無い言葉の響き。


 だが何処か少し懐かしいような心地がして、とくん、と腕の白い痣が脈打った。


「知らないのなら、良いの。私の杞憂。ともかく、そのひとのお眼鏡に叶った者だけが、現像の種を与えられるらしいわ」

「な、るほど……?」


 正直、疑問知らない人の名前を持ちだされて、その人物の一存で世界を作った規格外の物体を与えられると言われたところで、完全に納得することはできなかった。


 智富世の言うアイディルというひとが現像の種を、つまり世界を作ったということなのだろうか。

 どんな理由があって、個人に譲渡しているのだろうか。


 だがこの話題は智富世にとってなるべく触れたくない話題であるらしく、これ以上掘り下げて欲しくないというような感情が心の線からも伝わってくる。

 それ以上の追及は辞めることにした。


「それで次は私の持つ知識の種についてよね……あんまり、私は法則を作るみたいなことは出来ないんだけど……」



 ***


 話しているうちに随分と俺達は歩いていた様で、気付けば家の前に辿り着いていた。


「ここが?」

「うん。俺の家。祈織の家と違って普通の家だけど、まあ不便はないと思う」


 よく見られるタイプの二階建ての一軒家だ。夜でいまいち分かりにくいが、白色塗装の施された外壁と木目調のタイルの二色からなる外装は、日頃の掃除のかいもあって清潔的な印象を与える。玄関の横に駐車スペースがあり、そこに一般的な自動車と誕生日祝いで祈織に貰ったバイクが置いてあった。

 わざわざ祈織自ら国に許可を取って開発したオリジナルのバイクであるらしく、プレゼントされた際の喜びと祈織の満足そうな顔は今でも記憶に残っている。


「今、鍵を開けるよ。今日はさっき買ってきた材料で鍋にでもしようか」


 そう言って鍵を取り出し、ウッド調のドアに差しこんで捻る。ガチャリと硬質な解錠された音が鳴ったので、取手を手前に引いて中に入ろうとする。


 が。


「ひゆも部屋から出てくるといいんだけど……ってあれ」

「ん?」


「開かないな」


 扉が開くことはなかった。


「反対側に回していたわけ……じゃない。おかしいな。出てくるときは壊れてなかったはず」


 もう一度鍵を入れて捻ってみても、結果は変わらない。老朽化が進んでいる物件でもないので、施工不良でもなければこんなタイミングでドアが使えなくなるのは在り得ないはずである。

 三度、鍵を差して試そうとすると、智富世が隣から割って入った。


「ちょっと見せて……」


 言いながら、瞳に微かな輝きを灯した。どうやら人間以外の無機物にも知識の種の力……権限は適応されるらしい。


「このドア、壊れてないし、鍵も最初の時に空いてたみたいね」


 数秒もしないうちに呟いた。


「じゃあ、どうして開かないんだろう」


 見当が付かなかったので素直に尋ねる。


「……」


 なぜか、返事が返ってくることはなかった。

 不思議に思って、智富世の顔を覗く。

 すると智富世は何か良くないものを思い出したような、焦燥に駆られた顔で、


「総汰、ごめんなさい。もっと早く権限を使っておくべきだったわ」


 突然、謝罪を口にした。

 言葉とは裏腹に、彼女の声色には張り詰めた雰囲気が含まれている。


「何かまずいことで——?」

「あの……」


 俺の言葉に被せて、智富世以外の者の声が俺達の背後から響いた。

 聞き覚えのある、女性的な声。

 一言、声を掛けるにも自身が無さそうな、何処か震えた声音をしていた。


 気付いた俺と智富世が振り返る。


「あ、きみ、さっきの……」

「…………貴方」


 そこにいたのは、長約神社の境内で巨大飛蝗に襲われていた少女だった。

 見た目から察するに、高校生といった年齢だろう。

 艶のある瑠璃色の髪を切りっぱなしのミディアムボブにした、どこか内気そうな雰囲気を纏った少女である。


「無事だったんだ、良かった」

「……」

「何か、俺に用?」

「……」


 言いながら、彼女の方へ歩む俺への返事はない。

 一度声を掛けた後、沈黙を貫いたままで俺と智富世を観察していた。


「……あー、用があったら神社で消えたりしないか」

「……」


 依然として彼女の口から言葉は紡がれず、代わりにどこか乱れた息遣いだけが、俺への返答だ。


 怖がらせて、しまっただろうか。


 なら、人間として謝るべきだろう。


 だが、俺が謝罪の言葉を発する前に、ぽつり。


「ごめんなさい」


 今まで沈黙を保っていた少女の声が、夜闇に溶けていった。


 どうして彼女が謝るのだろう。

 謝罪の意図を図りかねた俺が、ン? と少女に次の言葉を促す。


 しかし、再び彼女の口は堅く結ばれてしまって、続く言葉はない。

 ちらりと、彼女の鈍色の瞳が覗いたのを、俺の視界が捉えた気がした。


「総汰っ、離れて——!」


 突如として背後で、智富世の叫ぶ声が耳に響いた。


 珍しく声を張り上げた彼女の声。

 驚きに肩を一瞬跳ねさせたあと、顔のみを背後に向けようとする。


 その直前。


 俺の瞳が、ある異常を捉えていた。


 俺の目には普通の人には見えない、物や人の繋がりを可視化する能力、心の線を視る力がある。

 夜になろうと視えなくなることはなく、むしろ他の物体の色が単純化するためにはっきりと映るようになる。


 当然、瑠璃色の少女からも心の線は伸びていた。


 しかも、周囲のもの全ての線にも同じ方向性を与える程に強い感情を、彼女の心の線は帯びていたのである。

 其れほどまでに強い感情。

 発見が遅れたのは、彼女の色が夜によく馴染む色をしていたから。


 夜は、暗い気持ちを隠すには丁度いい時間だ。


 明るい感情は良く目立つから、そこに人は集まっていく。

 代わりに明るい間目立っていた暗い感情は、宵に溶けて見えにくくなる。

 太陽の代わりのはずの星も月も、見て見ぬふりをしてくれる。

 神はそういえば、人の些事など気にしないが性質のモノが多いそうだ。

 帳が降りるとはよく言ったもの。

 だから、俺は、こんなに歪み尖った感情を、直前まで見失っていた。


 赤黒く染まった、混じり物だらけの殺意の感情を。


 そして瑠璃色の少女が、呟く命じる


【解放】


 一瞬、俺から見て彼女の左隣りの空間が、陽炎のように揺らいだ。


 しかし、視界でそれを捉えるころにはもう、遅い。


 心の線を視る瞳。

 それを持つ俺は、こと情報の送受信において通常の生命より圧倒的な反応性と感受性を持っていた。


 五感が捉えるより早く、発生した事象を察知し、言葉で伝えるより早く、相対するモノの理由を理解できる。


 自分の目や耳を当てにするより、思考に直接入り込んでくる情報を当てにした方が、確実で迅速だ。


 けれど、そのせいで。


 目で見るより先、音が届くより早く。


 俺は自らの左腕が吹き飛んだことを理解した。


「ア……」


 まずい、腕トんだ。

 そう確信したあとから、遅すぎる情報が身体に届く。


 視覚は攻撃が速すぎて、捉えられなかった。


 聴覚に届いたのは、俺の左隣りに吹いた突風の音。

 硬い物が激突し合い、弱い方の何か——俺の骨と肉が砕け散った鈍い音。


 人間であれば確実に死を迎える高さからの落下にすら、無傷で生還できた俺の身体が、いともたやすく破壊された。


 ここまではただの認識。

 続いて意識に届くのは、認識した事実を異常事態だと知らせる警鐘。

 過剰なまでの痛覚反応が意識に到達するわけで。


「ぐァっ——!」


 だが痛みを理解するより早く、突風の衝撃が俺を吹き飛ばした。


 ただの衝撃で、ここまで威力の出るものか。

 左肩がはじけ飛ぶと同時に、後方へ吹き飛ばされる。


 状況を捉えられないほどの速度。


 ブレた世界の中で背中が硬い物に衝突し、それを突き破る感触だけが、俺に届く唯一の情報。


 数度それが続いて、俺はアスファルトの地面に叩きつけられた。


「けほッ……」


 衝突の感覚に痛みはない。だが、反射のように肺から空気が一気に飛び出す。

 意識が一瞬眩んだ。


「う、ぐ……」


 すぐに立ち上がろうとしても、全身が痺れてうずくまってしまう。

 今更、左腕が無くなった情報が痛みとして伝わってきて、


「あ、ああ……、っぅううッ——!!!」


 絶叫すら上げられずに、奇怪な声だけが口から漏れだした。


 あまりの痛みに、握りしめるように傷口を抑える。

 爪が食い込んでいるのも理解できない。


 痛い。これは耐えられない。


 俺を吹き飛ばした少女のことなど、思考の埒外にしてしまうほどに、痛みという情報は鮮烈だ。


 それに、止まらない。血が、止まらない。


 濁流のように血液が噴き出すのを、右手が無理やりに塞いで、それでも漏れ出ていったものが地面に赤い池を作り出す。


 ねっとりした暖かい液体が広がって、俺の膝を濡らしていく。


 このままどれだけ血を流したら、俺は死、ぬ。どう、すれば。


 思考する、たびに痛、みが情報伝達を阻、害する。

 そ、の間にも、俺から血液は失わ、れていく。


 ばくばく、どくどく。


 思、考の優先度を変え、なければ痛みに飲まれてしま……う。

 まともな思考が、できな、くなる。


 このままでは、訳が分からないまま、俺は……くそ、どこまで、出るんだ、この、赤いもの……は!


 でも、俺の身体は、機械みたいに、情報を遮断することなんて、できない。


 俺の、能力は、情報を、受け入れるだけ。


 受け入れて、送り返す、だけだ。


 痛覚、が、さっきから、煩わしい。


 痛み、という、情報が、過剰すぎて、邪魔だ。


 …………。


 ……簡単、じゃないか。


 痛み、という、情報に、耐えられない、ので、あれば。


 もっと、多くの、情報に、飲ま、れて、しまえば、いい。


 絶え絶えの息の中、絞り出すように、自らに言う。


【接、続】


 この選択は、まとも、じゃない。分かって、いる。


 だがそれ以外に、俺は痛みを塗りつぶすなんていう、常識を逸脱ための方法を持ち合わせていなかった。


「あ——ハァっ……!」


 一言の詠唱と共に、身体から瞬時に痛みと痺れが引いていった。

 否、引いていくという表現は、間違っている。


 大量の情報で、痛覚が伝達されるのを、強制的に抑制しただけだ。

 事実、痛みが抑えられても、意識は鮮明になどならない。

 ぐちゃぐちゃで混濁したまま。


 ありとあらゆる情報が、感覚を埋めつくした。


 視界が捉える景色を人間以上の色彩で視てしまい、判別がつかなくなる。

 聴覚が受け取る音は、人間の可聴域を超えている。

 嗅覚がかぎ取る匂いは、遠くの山の匂いさえ受け取っている。

 心の線は、砂粒一つに至るまで、あらゆる方向へ飛び交っている。


 本来、人が不必要として捨象する過剰なまでの世界の要素。その全てを、俺は体一つで受け止めていた。

 しかし、それを受信する肉体の強度は、いくらばかりか頑丈な程度では、星の容量には足りえない。

 理解できない情報は、感じるだけでは痛いだけ。

 再び痛みとなって襲い掛かっていた。


 ただ痛んでいた時より質が悪い。

 だがこの程度なら、腕の痛みよりは、ましだ。


 だって、情報が押し寄せているなら、必要なものだけを意識すればいい。

 それ以外を遮断せずとも、必要な情報だけに方向性を決めればいい。


 イメージで言えば、集中状態のようなもの。


 瓦礫を押しのけて、無理に立ち上がる。


 必要な情報は、今の状況──それでは範囲が広すぎる。

 智富世、そして瑠璃色少女のこと。それだけを知れればいい。


 強く二人を意識する。


 次第に極彩色の景色が次第に色を失い、瞳で二人の姿を捉えられるようになった。


 二人の姿は、巨大な穴の開いた数件の民家の先にあった。

 さっきの軽い一撃で、俺は何十メートルも吹き飛ばされたのか。


「俺の家も……いや、そんなことより」


 巻き込まれた住宅の事はいったん後回しにして、二人に意識を集中する。

 空洞の道となった家々の先では、いつの間にか『知識の虹弓ケシェト』を左手に携えた智富世が、少女と渡り合っていた。


 智富世は弓の先から、紫色の光を瑠璃色の少女に放つ。

 紫の光は山で飛蝗を貫いたソレとは異質の、純粋なエネルギーに近い力の塊だった。


 対する少女はというと。


「浮いた……手?」


 彼女の身長ほどの大きさもある、宙に浮いた濃紺の物体を智富世に向けて振るっていた。


 よく見ると紺色の物体は、の形状をしている。

 人間の視界では捉え切れぬ速度と、夜に溶ける色で視認出来なかっただけで、あれで俺を殴り飛ばしたのだろう。

 濃紺の魔手が、智富世と少女の周囲を飛び交っていた。


「いつの間に、戦っている……!?」


 痛みに抗っている間、俺は置いていかれたということか。


 二つの拳が怒槌となる。慣性を無視したマニューバで縦横無尽に飛び回り、智富世に連撃を叩き込む。

 それを智富世は宙を蹴ることで、半ば空中を舞う形で避けていた。


 地上において、宇宙のような三次元戦闘。


 両者の激突の規模は、不死鳥の悪魔フェネクスと同様、人智を越えていた。


『接続』により、目に見える情報より多くのモノを見える今だからこそ、仔細の情報を飛ばして、視える。


 あれは、あの二人の戦いは、地球上で起こしてはいけない戦いだ。


 瑠璃色の少女の力は未だ不明。だが、何らかの概念を覆い一つの手の形にして、破壊不能の物体を生成していることは理解出来た。

 そして智富世の持つ知識の虹弓ケシェトは、純粋なエネルギーだけで世界を滅ぼす。


 現像の種を持つものは、己の意思で世界に法則を定義できると、智富世は言っていた。

 つまり、彼女達のどちらかがその気になれば、戦いの余波を世界に巻き込めるということだろう。


 自在で、危険な力。


 俺に介入できる余地など無いに等しい。


 だがこのまま見ているわけにもいかなかった。


 もしかしたら、智富世が俺のように『浮遊する拳』によって殺されてしまうかもしれない。


 行かなければ。

 事実として、今の俺に何ができるでもない。

 それでも一歩、踏み出した。


 左肩から血が流れ続けるが、それを無視して前に進む。

 ゆっくりにでも、倒れそうになりながらも足を動かす。


「なん……騒ぎ……れは!?」


 途中、穴の空いた家から声が聞こえた気がしたがそれも無視。

 駄目だ。今、何か別のものに意識を囚われては。

 だって、情報の全てを捉えきれる『接続』をした今でも、二人の戦いは速度が出過ぎていて、認識しても処理が追い付かなくなりそうなのだ。


 決着がついてからでは、遅い。


 ただ前のみを意識して、もつれてしまいそうなリズムで二人の方へ。

 大量に血液が失われているというのに、意識ははっきりとしていた。


「どうして君が俺達を襲うんだ……!?」


 二人の元へ駆けつけるなり、俺は瑠璃髪の少女へ叫んだ。


「……!」

「総汰っ、酷い怪我よ……!」


 気付いた二人が同時に俺の方を向いたことで、一時事態は膠着した。


「大丈夫。まだ、動けるから」

「そうよね、肉体の欠損程度じゃ、貴方は死なない。……でも、痛むでしょう……?」


 心の底から俺を案じるような声音で、智富世が俺に駆け寄る。


「痛みはもう埋め尽くした。だから心配しなくていい」


 強がりを言うと、智富世が眉を悲しそうに歪めて溜息をついた。


「痛みを、もっと多くの情報量で誤魔化しているのね。そんな状態で今ここに来ちゃ駄目よ、危ないから!」


 知識の種で俺の状態をらしく、半ば怒ったような口調で諭される。


「でも、俺の目からはきみとあの子が同じくらいの強さに見えた。それじゃ負けることだって──わッ!」


 言い訳は、智富世が俺の手を取り、横に飛び退いたことで中断された。


「──っ!!」


 今まで呆気に取られていた少女が、再び紺色の拳を俺たち目掛けて振りかざしていたのだ。


 大地を割らんとするばかりの轟音が、静寂を打ち破る。


 直前まで俺が立っていた場所には、巨大な拳が一つ叩きつけられていた。

 奇妙なことに、音とは対照的にアスファルトには傷一つ着いていない。


「……すまない。助かった」


 回避された事実を認識するや否や、拳は口惜しそうに少女の元へ戻っていく。

 近くで見ると、何故見逃したのか不思議に思えるほどに、少女の周りを浮遊する拳は巨大だった。


「今の攻撃にも、貴方は反応出来ない……っ」


 そしてふたたび、紫電を纏いながら連続して発射され、振り下ろされる二つの魔手の砲弾。


 弾速は、世界そのものへ『接続』してなお、認識困難といえる程のスピード。

 一つ躱すために跳躍すれば、即座に次弾が着地地点目がけて飛んでくる。

 光速に迫る程の規格外の速度で。通常であれば、余波だけで住宅街の一帯が吹き飛んでいるはずの衝撃を伴って。


 智富世と俺が回避し続けられているのは、智富世が少女の心を読み、先回りして回避行動を取っているからだ。

 本来であれば、躱しても次の砲弾に身を晒すか、それすら回避しても余波に殺される。そういう攻撃である。


「あのままあの場所で待っていれば、貴方は無事だったのよ……!」

「ごめん」


 俺は智富世に連れられるまま、自分では処理しきれない弾丸を認識することしか出来ない。

 彼女も俺を連れていることによるウェイトで、回避に余裕がなくなっていた。

 加えて、片手を塞がれているために弓を弾くこともできない。

 浮遊する拳は、そんな俺達を好機とばかりに縦横無尽に宙を舞う。


 ああ、これは完全に。


 分かっていたことだが、完全俺は足でまといだ。


 だが、目の前で智富世が戦っているのに、ただ安全圏で見てるだなんて、俺には出来ない。


 せめて、彼女の弾除けくらいには……。


「その心は嬉しいけれど、私はそんな事っ、しないし、っと。種を持つ者メレッド同士の戦いでは、通用しないわ!」


 声に出す前に、手出し無用と断られてしまった。

 当たれば終わりの即死の腕を必死に避けている、その合間に。

 それでもお前は足でまといだ、と言って俺を放り出さないあたり、彼女は底抜けに優しいのだ。


 しかしそんな優しさは今、彼女に牙を剝いている。このままではいつか、運命に追いつかれる。智富世に疲弊の色は見られない。

 だが、それでも実力が互角であれば、条件が不利な方が追い詰められられるのは自明なこと。


 何か策はないか。


 そう考えるうちにも、浮遊する二つの拳は前後上下左右の全方位から飛来する。

 次第に攻撃の頻度も加速していく。いつの間にか三つ四つと拳が増えている錯覚さえ覚えるほどになる。


「数が……増えた……っ!」


 智富世が苦しげに零す。


 魔手の数は錯覚ではなく、実際に増えていた!


 多数の方向から同時に、回避困難な砲弾が飛び交っていた。

 四方から、八方から、空と地中から。

 握拳、掌底、指差しと手の形すら、まばらになっていく。


「さすがにっ、総汰を連れたままじゃ、きついっ、わね」


 それでも智富世は、危なげではあるもののその全てを確実に見切っていた。


 幾ら数が増えようと、予測の奥の演算さえ読み切って、智富世は先の先の場所へ移動する。


「いい加減……いい加減ッ、当たってよ!」


 痺れを切らしたのか、少女が震えた声で絞り出すように吠えた。


 表情は不明瞭なまま。苛立ちと、どこか苦悩や悲痛の感情が混じっているように見えた。


「ボクだって嫌なんだ、こんなの!」


 再び、叫ぶ。

 本当に、今まで殺意のどこにこんな感情を隠していたのだろう。

 張り詰めた糸が切れた。そんな風に、怒涛の感情の色が溢れ出る。


 同時にそれまでバラバラに宙を飛行していた拳たちが、一斉に少女の元へ集まった。

 少女が増殖させた拳を頭上に移動させると、次第に濃紺の拳達は一点に圧縮されて融け合う。


天蓋ユミル


 優しく諭すような声の呟き命令

 自分自身に言い聞かせる声にも似ていた。


 徐々に融け合っていたはずの拳達が、一気に点に収まった。

 直径一立方センチメートルほどの、目を離さずとも見逃してしまうような、極小サイズの濃紺の球体に。


頭蓋スカル


 がちりと、濃紺の球体からひしゃげた音が響いた。

 重厚な扉に取り付けられた錠前に鍵を挿す音にも似ていた。


 がちり、がちり。


 音は、幻聴などでは無い。


 夜に音が響くたび、球体が呼応するように大きく歪む。

 何度も、歪んで、曲がって、ひしゃげる。

 いつしか歪みは、球より出でて、空間そのものに亀裂を生じさせた。


 がちり。


 拳の材料になった空間の器が、さらに孔いた空間を歪め、やがて濃紺の器となる。


【開け】


 がちゃり。


 夜が、割れた。


 突如として、星空の中に夜空が生まれた。

 濃紺のインク入りバケツを倒して塗りつぶした紙を連想させる、ねっとりとした星一つない空。


 星が無いのは当然のこと。


 空と見紛うほどの大きさをした、頭蓋の器。

 器が少女の背後の空間を割り、隕石のように降り注いでいたのだから。


「なんて大きさ……」


 智富世が気圧されるように呟く。


 まるで、夜が落ちてきているよう。

 天蓋頭蓋ユミルスカル

 祈織のもうひとつの故郷、ノルウェーの属する北欧地域。その地方の神話における天は原初の巨人ユミルの頭蓋骨によって造られたというが、まさにこれは、天というが落ちている。そう表現するのが相応しいと思えるくらいに、果てしない攻撃範囲と質量を有していた。


 街ひとつ呑み込む巨躯とは裏腹に、射出された器は補足した俺たち目掛けて急加速する。


 想像すらしなかった大規模質量攻撃。


 周囲一体すら巻き込んで、智富世と傍らの俺を踏み潰さんとしていた。


「──っ、ごめんなさい!」


 いち早く事態に気付いた智富世が、焦りを多分に含んだ声で叫ぶ。


 そして俺の腕をつかんだ右腕を強くひき、そのまま投げ飛ばした。


「智富世っ!?」


 華奢な体のどこに、そんな腕力が備わっているのだろう。

 軽く二十メートルほどの距離を作られた俺が名前を叫ぶが、ちらりと目やった後にすぐさま向き直る。


「さっさと、止めるべきだった……っ!」


 言う間に、咄嗟に投げ飛ばした方の腕で紫の光の矢を生成。


「矢じゃない、槍っ!」


投槍の知識ロンヒっ!】


 頭蓋の器が直撃する直前に、弓につがえることなく解き放った。

 槍投げの要領で、実体の光を投擲したのである。


 虹弓による調整もなしに解き放たれた矢、投槍は彗星の尾の如き不均衡な光を散らしながら直進する。

 急造の武器だというのに、その一投に含まれたエネルギーは膨大そのもの。一撃で視界一面を蒸発させるなんてヴィジョンを視てしまう。


「ぁ、まずっ」


 だが、不均衡な光は氾濫する力の現れだった。

 智富世が小さく呻く。


 宵の世界を、超輝度の光が呑み込んだ。

 巨神の夜空が、白に染まる。


 制御されないまま放たれた槍が自らの力に耐えきれずに自壊。溢れだすエネルギーが炸裂した。


「……っ」


 夜の只中に、太陽が現れたようなもの。

 その街に居る誰もが、眩さに目を瞑った。


 一面白銀の世界が、たっぷり七秒間。

 徐々に明るさが失われ、恐る恐る目を開けるとそこに巨神の頭蓋の姿は無かった。


 『天蓋頭蓋』と暴走した槍の力が相殺し合い、互いを喰らって消滅したのだ。


 無限にも思えた夜の器は、ただ一投の槍に消滅させられた。


 だが。


「やっぱり、まだ……っ」


 頭蓋の核となる部分。

 最後のを破壊しうることが叶わなかった。


「総汰っ!」


 遺された手の向かう矛先は、俺。

 咄嗟に後ろに飛び退るが、少女の意志によって操られる魔の手は、俺の鈍い動きなど容易に捉えている。


 避けることは、不可能だった。

 再び、不可避の腕が俺を貫く。

 今度は命の中心を目指して。


 命が終わる音が鳴る——。


「か、ふ——っぁ!」


 ——その刹那。目の前に、影が飛び込んだ。

 鈴が壊れたような、高い音。

 目の前に軽いものが現れて、すぐさま後ろに吹き飛んでいった。


「……?」


 視えてしまう。それは人の形をしていた。


 紫苑の花びらをほどいた長い糸。

 瞬いた碧い宝玉。

 細い腕に握られた、蛇の虹。


 智富世だ。


「ち、とせ……!」


 智富世が、俺を庇って、拳を、その華奢な体で、受け止めた。

 威力自体は光の槍によって緩和されている。


 それでも少女の身体をこわすなんて、簡単なことで。


 智富世は怪腕をその胸に受け止めたまま、地面に引き摺られる。


 何度も地面に打ち付けられて、何度も怪腕に潰されて、そこまでしてようやく掌は満足したように動きを止めた。


「……」


 しかし、俺を庇って拳を受け止めた時点で、もう手遅れ。


「ぁ、あ……なん、で」


 智富世はその場から起き上がることなく、糸の切れた人形みたいに力なく横たわっていた。


 身体に傷は一つとして見られない。

 だが意識はとうに失われていて。


「智富世──っ!!」


 絶対の少女の閉じた瞳が、警鐘を鳴らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る