第十二話 『変身』
夜空の腕を、恒星が受け止める。
その直下で俺は、青年の声と対峙する。
「声……あなたは?」
『ああ、声は出さなくてもいいよ。今の僕は君の器官に過ぎないからね』
どうやら声は俺だけに聞こえているらしい。
少女は防がれた腕を認識するや否や、次の拳を正面から解き放っていた。
その、動作がやけに遅く見えて——。
『今、僕らの意識は加速している。最短で教えるために、意識だけに絞って加速させているから、世界がスローに見えても、君自身は速くなっていないので注意してね』
僕はフィリア。
それ以上の説明は今は不要だよね? といった調子で付け加えて、声の主は俺の疑問を振り払った。
声は星の光を広げたような、蒼く白い髪の青年の姿を想起させた。
——俺に、この腕の痣の使い方を教えてくれるのか。
『もちろん。その為に君に声を掛けたんだから』
——どうしてもっと早く。出てきてくれなかった。
つい、己の一部と言ったフィリアに問いただしてしまう。
彼が力の使い方を教えてくれていれば、俺は智富世も祈織も守れたのに。
自分でも他人に責任を求めるのは、珍しいと思う。
しかしそれくらいに、俺は彼女達に傷ついてほしくなかったのだ。
『……ごめん。今の僕は、君の単存在としての一部でしかない。ずっと昔、智富世に心を縛られたフィリアという定義しか、君に残せなかった。だから君があの子を心の底から意識したのを契機にすることでしか、君と接触できなかったんだよ』
魂の奥からの謝罪に、返す言葉を失う。
彼に落ち度など何もなかった。
そもそも俺が無知であったせいで智富世や祈織を傷付けたのは、まぎれもない事実なのだ。
——あ。
同時に気づかされ、同じ力を持つものとして確信する。
フィリアは智富世という存在を、自身の定義に決定づけるくらいにはかけがえのないひとと思っていた。
なら彼が表層に現れる条件を満たすくらいに、俺は強い意思を抱いたということだ。
智富世を、強く想ったということだ。
——俺は智富世を、もうそんなに……。
『うん。いいね。久しぶりじゃないかい。君が感情らしいところをみせるのは』
青年の微笑の気配。
「この浮気者」だなんて祈織が睨んでくる想像をしてしまう。
いや、彼女なら「そのくらい人を愛して当然よ!」といった感じで豪胆に受け入れるか。
兎角、俺は既に智富世を幼馴染と同列に思ってしまう位には、強く意識している。
それがまだ友愛か、恋愛か、愛着か。何の感情かは分からない。祈織にだって、俺は男女として意識しているのか曖昧なのだ。
それでも俺は、智富世を決定的に愛してしまっている。
合縁奇縁というのだろう。
前・
ならば単存在の激情をもう、抑える必要はない。
むしろ彼の思いこそ、胎動の発動機として必要だ。
目前の敵対する少女の目を見ながら、心中で決意する。
——俺は、あの子を多少傷付けてでも、智富世を守る。
殺すだとか、そう強くは言い切れない、決まり決まらない覚悟。
それでも
『うん。優しい、でも芯の強い決意だ。カトレアは甘いって言うだろうけど、佳い継承者だよ。君は本当に』
ふ、ふ、と静かに笑ったあと、彼が俺の肩に右手を添えた——幻の感覚が伝わってきた。
『じゃあ、その思いを叶える手助けをしよう』
何をするつもり、と訊く前に、目の前が真っ白い景色に包まれた。
「……っな!」
【伝達しよう/君に/言葉でなく/情報として/意味記憶と手続き記憶の形式で】
驚きに声を上げているうちに、頭の中に大量の水が流れ込み、満ちていくような、無数の情報が無選別に入力されていく。
周囲の世界そのものと接続したときよりも、情報の密度や量そのものは膨大なはず。だというのに苦痛や衝撃は伴わず、情報すべてが自分専用にチューニングされた状態で書きこまれていた。
入力される情報すべてが、数多ある奇縁の単存在の力の使い方の数々。
フィリアの宣言通り、意識が思い浮かべるのは形相の腕を始めとした能力と技、そしてそれらの名前や意味たち。
実際に流れている時間では、一秒も掛からなかっただろう。
だが、周囲の事象すべてが遅くなっている世界の中では、その時間は無限にも感じられた。
『……これで君は単存在の力を最大限引き出せる』
自分の事なのに、知らないことが有り過ぎていた。
そもそも俺は『単存在』そのものがなんであるか、知らなかった。
情報の中で目の当たりにした力は、使い方を間違えれば世界そのものを呑み込んでしまうという確信を持てるほどの、単体で存在するモノとして申し分のない力だった。
——これが、マリッジ=ユニの本来の力、か。
『うん。力を使う時は最初に自らの証明を宣言するのを忘れないようにね』
フィリアの手が触れている感覚がふわりと消え失せる。同時に、彼の声や気配が遠ざかっていくことを、俺は感じ取った。
目的を達成した今、故人が無遠慮に現代に介入すべきではないとでも言うように、足早に自らの存在を消していく。
フィリアという青年の残滓であるはずの意識すら、もう不要であるとこの刹那の間に俺に託して。
──もう、行くの。
あまりに切り替えの早いフィリアへの問いに、青年はうん、と肯定した。
『さっきも言ったとおり、僕は君の器官でしかない。元々、単存在に魂は存在しないとされるけど、そこにフィリア本人の其れは無いんだよ』
優しく、そして残酷に諭される。
魂が存在しない者の最期に残した思いなら、それはきっと本当の願い。魂の代替足りえるもののはずだ。
だが、そんな俺の指摘を彼は首を振って否定する。
『フィリアの本当の願いは、君に託すことなんかじゃなくて……』
そこで彼は己への言及を止め、俺の背後である智富世の方向を、意識を介して指し示した。
釣られるように彼女に目を向ける。
『……それに、もうお姫様も目覚めてしまったから』
いつの間にか彼女は意識を取り戻しており、辺りを見回していた。
切札の残滓ような一撃では、彼女にショックを与えただけで、傷一つ追わせるに至らなかったらしい。
意識を失っていた原因は、戦いに慣れていなかったために味わったことの無い感覚に麻痺していたようだった。
良かった、無事で。
あとできちんと、謝らないと。
内心で呟いた独り言。
自分はどうやらもう勝てる気分でいるらしい。
恥ずかしい自覚に、消失寸前のフィリアから『僕も君も、それくらい自信家でいなきゃね』と背中を押された。
「おっ、と……」
声だけの存在であったはずなのに実際に足が前に進んでしまって、思わず押し出した腕が存在するであろう方向を振り返る。
無論、そこには誰もいない。
——。
なんてことはなかった。
——あんたが、フィリア。
目を向けた方向で、俺のイメージとそう変わらない、宝石の如き瞳を持つ青年と視線が交差した。
薄れゆく身体で俺を認識すると、彼はにこりとはにかんだ。
単純な表情に、とびきりに多くの感情を含めてしまっているのを、俺は視てしまった。
『ちゃんと守ってあげてね。あの子は物静かに見えるだけで、その実表情豊かな女の子なんだよ……!』
その感情の一端を言葉にして心の読めない俺に伝えてくる。
最後の言葉を言い終えると同時に、振り下ろされていた巨大な腕を完全に光に呑み込ませた。
そして魔手を呑み込んだ光さえ、力を失って夜闇に溶けていく。
街が再び、星空の映る世界に引き戻されたとき、そこにはもう彼の声も姿も跡形もない。最初から存在していなかったように、虚空へと消え去っていた。
「…………」
蜃気楼と会話していた、そんな錯覚さえ覚えてしまうほどに実体感のない、美しい青年。
意識では長く、現実では瞬きの間の邂逅であった。
彼の姿が世界から完全に消えたあと、最初に口を開いたのは智富世だった。
「もしかして……フィリア……」
その疑問に、いったいどれだけの思惑が詰まっていたのだろう。
彼の姿は見えていなかったはずの智富世の問いに、俺はわざと答えなかった。
嫉妬——? そういうわけではない。
彼女の言葉に反応する、その暇がなかった。
フィリアは俺の意識に話しかけた際、意識のみを加速させたと話していた。
つまり彼が消えれば、その時間加速は効力を失われる。
彼と言葉を交わす直前、瑠璃髪の少女は防がれた巨腕の次の一手として浮遊する拳を再び放っていたのである。
拳の速度は、以前の俺であれば視認不可能な速度までに加速していた。
それを。
「ふ——っ!」
俺は生身の両の腕で受け止めた。
衝撃を吸収しきれず、拳を受け止める俺の身体はじりじりと後退りしてしまう。
それでも前の様に腕が弾け飛ぶことはなく、フィリアの伝えた情報が確実に俺を堅くしていることを証明していた。
創世の力の一端と渡り合えるほどの強さを、俺は手にしてしまった。
「智富世。どうやら俺は誰かの願いとぶつかってでも、きみを守りたいらしい」
腕に防がれてもなお、勢いを増していく魔手。
渡り合える、と言っても俺にできるのは目の前の拳一つ受け止めるので精いっぱいだ。
背後の智富世を守りきるには、もっと強くなければならないのかもしれない。
相手を容易に斃せるほどの力が必要なのかもしれない。
でも、俺は。
「でも、俺は目の前のあの子を傷付けたくはない」
幾たびの交戦の中で、目の前の相手の感情を必要以上に視てしまった今だから、思考の仔細を読めずとも分かる。
彼女——違う。彼は今、誰かの為に自らの手を血に染めようとしている。
彼を苛む辛い過去。それを変えなければきっとその誰かは救われない。
何の勘違いかは分からないが、彼はその為に俺達の命を必要としている。
俺達に対する行為は、本来許してはいけないものなのだろう。
この世界において、敵対者への同情など、身を亡ぼす悪手なのだろう。
「譲れないものがあるのなら、争う道が道理だなんて分かってる。それでも、俺は……」
彼は、誰かのためを願っている。
悪意や快楽でなく、願いのために戦っている。
そんな人を敵だなんて、思いたくない。
何も知らないまま踏みにじって終わりだなんて、在り得ない。
「俺は誰も殺さず、誰もの願いを叶える。そのためになら、総てと繋がったっていい——!」
フィリアのように完全な奇縁の単存在ではないから、他者と繋がる本質のために効率的になれない。
想司の
俺は神在総汰だ。
智富世を守って、彼の願いにも寄り添う。
子供みたいな我儘でも、それが俺のやり方だ!
拳を両腕で食い止めながら、腕の痣に意識を込める。
形相の腕を行使する時のように、腕の痣が白い輝きを纏った。
己の力のみでは一つ防ぐので限界だというなら、誰かの力を借りる。
方法は
誰か——自らと強い繋がりを感じる誰かを思い起こせ。
智富世でも、祈織でもいい。
だが、思考に浮かべたその姿は二人のどちらでもない。
現状を変えられる力を有した者。
想起するは赤き髪。強き瞳。
正体不明の高い背の女性。
俺の記憶の中にその女性の覚えはなかった。
だが俺は確実に彼女の姿、そして心を捕えていた。
街の皆の為に、感情を
──叫ぶ。
【証明——解放!】
爆炎が、駆け巡った。
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