第七話 『長い約束のあとち』

 皿に盛られたお菓子を平らげ、食器を食洗器に放り込んでから、俺たちは祈織に続いてマンションを後にした。


 理由は単純で祈織の忠告に素直に従ったため。


 それに、俺の勘と予想が正しければ、彼女は暫くこの世界に滞在することになりそうだったので、俺たちの住む長約市の施設やスポットの案内も兼ねてのことだった。


 祈織のマンション付近の中心街は、九十九市がディアスポラの街に変貌した影響で、人も交通も大混乱状態。

 警察が規制を強めていたため、俺たちは早々に中心街から外れた場所を目的地として行動した。

 巡った場所は大まかに分けて三つ。大型複合商業施設に、懇意にしている後輩の実家が営む喫茶店。彼女の希望で図書館や古書店にも連れて行った。

 一つ一つが智富世にとって既知の未知であったが故、彼女の好奇心を刺激し、長く時間を食ったことであまり数を回ることはできなかったが、智富世は満足してくれたようで、気付けば時刻は十七時すぎを指していた。


 それらの事はおいおい話すことにする。


「この階段。長くはないけど、一段一段が結構高くて結構きついんだ」


 そして俺たちが最後に向かったのは、この街の中で最も古い歴史を持つ神域だった。


 長約市北端の山の入り口に置かれている朱を塗られた木造の門。

 門の先には石造りの階段と石畳の道が伸びている。


 夕方の人の通りは多くない。

 しかしかつては多くの人が訪れていたのだろう、門も道も幅が広くとられていた。


 なにより目を引くのは、道沿いを彩る群生した桜の木々である。

 開花の季節を迎えたことで、本来薄暗いはずの参道は夕方であっても白く鮮やかに光を返し、その様は参道の最奥に鎮座する神性を顕しているようにも感じさせた。


 一直線に伸びる石段を上っていけば、舞い散る花びらの匂いは濃度を増していき、天を貫くが如き黒い巨岩が視界に映ってくると、枝垂桜の神木が出迎える。


 そこは長約神社。

 木花之佐久夜毘売このはなさくやひめ石長比売いわながひめ木花知流比売このはなちるひめの三柱を祭神に奉る、広い敷地を有した神社で、その名は俺たちの住む街である長約市の由来にもなっている。

 例年、正月や花火大会を伴う夏祭りが開催される時期には、多くの参拝者が訪れていた。

 とはいえ観光シーズンでもない四月の夕方から、わざわざ神社に足を向ける人などおらず、境内の桜の木の葉が揺れる音と俺と智富世の歩く音だけが辺りに響いていた。

 長約神社の位置する神山は古来より、数多くの種類の桜が群生していることで有名であり、確か、ここに長約神社が建立している理由も、桜が木花之佐久夜毘売の象徴であったからだと記憶している。


 何故ここに来たのかと言えば、彼女がこの世界、特に俺の住む国と関わりの深い神々の神殿を一度目にしておきたいと提案していたからだ。

 魔術やモンスターの存在する世界なら神々の存在など当然のことなのだろうと思えたが、マナの存在しない世界で神がどのような在り方をしているのか、それを知りたいとのことだった。


「すっかり夕方だし、参拝したら帰ろう」

「そうね……それと、本当に良かったの?」

「ん?」


 鳥居を抜け石段を上る途中、智富世は遠慮がちな声音で俺に問うてきた。


 理由は彼女が身に包んでいる衣服に原因がある。

 現在、智富世の服は白を基調としたブラウスと、青いロングプリーツスカートという、現代的なもの。

 異国風な装飾や煌びやかな宝石に包まれた衣服では、髪色も相まってよく目立つという理由から、商業施設のブティックで真っ先に智富世の衣服を見繕っていたのだ。

 センスを求めるのは勘弁してほしい。女性の私服を選んだ経験なんて、祈織や後輩の買い物に付き合っていたことくらいしかないのだから。妹はずっとパジャマ数着をローテーションしているだけであるし。


 上下一着ずつに靴一足。ついでに鞄も購入したので出費は大学生の財布にとってそこそこ痛かったものの、俺は大して気にしていなかった。

 それでも智富世には気がかりであるようで、服を買ってからというもの、何度か俺に本当に買ってもらってよかったのかと尋ねていたのである。


 俺の服選びのセンスは置いておいて、夕映えした桜を背景に隣を歩く智富世の姿は、どうも浮世離れした空気をあたりに放っていて、永遠に人を引き付けてしまうような魅力に満ちている。

 そう思うと、むしろ得しかなかったのではないかと柄にもなく破廉恥な思考に陥りかけたので、強制的に意識を戻した。


「ああ、全然いいよ。俺、お金とか碌に使わないしさ」


 実際、俺はお嬢様である祈織と育った影響か、あまりお金に執着するタイプの人間では無い。

 それよりも、目の前にいる智富世はこの服を気に入ってくれただろうかとか、そういうことを考えてしまう人間であった。


「それより、ほら」


 指を、さす。

 俺達は話をするうちに石段を登りきり、いつの間にか拝殿の目前まで達していた。


「凄い……」


 感嘆の声は、智富世のものだった。

 丹塗りの鳥居をくぐり、参道の行き止まりの奥まで辿り着くとそこには長約神社の拝殿がそびえている。

 千木ちぎ鰹木かつおぎの取り付けられた檜皮葺ひわだぶきの屋根と丹塗りされた壁、極彩色の彫刻に彩られた木製の社は鮮やかさの中にどこか落ち着きのある佇まいを印象付けた。


「まるで、扶桑のカムヤシロね……」

「へえ、智富世の世界にも神社みたいなものがあるんだ?」

「ええ。あの門も、周りのもそうだけど、ここは私の世界に合った宗教施設と酷似している。違いがあるとすれば拝殿らしきあそこに、お金なんて入れる場所はなかったくらいかしら」


 外国人が日本の伝統的な建造物を目にして興奮することがあるように、智富世も楽しそうに少々ながら、辺りを見渡していた。


 だが、不思議なこともあるものだ。互いの世界を創作だと思っていたはずなのに、どうやら神社は共通概念であるらしい。カムヤシロという名前だって、ジンジャの読み方が違うだけだ。


「なるほどね……私の世界で神にささげるものと言えば、作物や贄の他は体内の魔力だったから、そう。マナがない世界だとそれがお金になるのね」

「神にお金を払って何になるんだって話ではあるけれどね。何か宗教上の問題とかなかったら、参拝もしておく?」

「ええ、大丈夫。私、神は知っているけれど無宗教だもの」


 それじゃあ、と手水舎の方へ智富世を促した。


 水盤を流れる水はまだ四月ということもあって、酷く冷たい。

 柄杓を右手に取ると、まず左手を清め、持ち換えて右手を清める。

 もう一度持ち換えて左手に水をためた後、その水で口をすすぐ。

 その後に、左手を再度清めることや柄杓の柄に水を流すことを忘れてはならない。

 俺の作法を見ていた智富世も真似して手水をとっていたが、手にためた水を口に含んだ際、んっ、と身体を強張らせて、「すごく、冷たいわ」とありきたりだが可愛い反応をしていた。


 手水で手や口を清め終わると、拝殿に戻ってくる。


「ここで一度軽く礼をして、お金を賽銭箱に入れるんだ」


 言いながら、智富世に五円玉硬貨を手渡した。


「この硬貨。何か意味があるの?」

「まあ、一応。ご利益とかは変わらないんだけど、語呂合わせで縁起がいいんだってさ」


 渡された五円玉を不思議そうに見つめる智富世に聞きかじりの知識を語りながら、ふと考えた。


 捧げるお金の量でご利益に影響はないというのに、縁起の良い悪いで投げる硬貨にはこだわった方が良いと言う。

 五百円ではこれ以上の効果はないと言いながら、一万円では円満になると言うあたり、結構現金なものだ。

 結局のところ、信仰というものは大半の現代日本人にとってはほとんど無意味で、気休め程度の問題。

 そもそも神に人類文明の産物である金銭など必要のないはずのもので、もともと賽銭自体が祈願成就の感謝のしるしであったらしい。それをわざわざ求めるということは、そこに人意が混ざっているということ。


 それでも人々が神社に訪れ、お参りをしていくというのは、もしかしたら境内や神山そのものに秘められた神意によるものではないかだなんて、思わずそんな妄想をしてしまった。


 そうして智富世に語り終えると、俺も財布から自分の分の硬貨を取り出し、一度礼をしてから賽銭箱に五円玉を入れた。

 智富世が続いてお金を落としたことを確認してから、二度深く頭を下げ、二度柏手を打つ。

 俺達の他には社務所の神職以外の誰もいなかったので、手を合わせる音がよく響いた。


 柏手を打った後、手前の位置に置いた右手を戻し合掌しつつ、祈りをささげる。


 祈りといっても、俺には大した願いも無かったため、友人たちが平穏でありますようにといった程度のことしか願えない。

 それでも一瞬目を閉じて祈ってしまうほどには、確かな願いではあった。


 そんなことを考えて閉じた瞳を開けようと考えた、その時のことだった。



 ——もしここに来たらのために、私の姿を残しておくよ。



 突如、声が聞こえた。


 智富世のものと思ったが、違う。彼女の持つ、落ち着きのある透き通った声ではない。

 綺麗な声であることは同じであるものの、声音には智富世と真逆の活力に溢れた雰囲気を纏っていた。


「なんだ……?」


 正体不明の声に返事をすると、目をつぶって何も見えないはずの視界に、少女の姿が映った。


 快活な表情でにこやかに笑いかけてきた少女は、和装が特徴的な少女だった。


 月の光を糸にして編んだような、優しい煌めきを含んだ白い髪。


 何層にも重なっているはずなのに、重さを感じさせない桜を思わせる十二単。


 彼女の持つすべてが重なって、ふわりと世界に浮かんでいるような少女だった。


 智富世の時と違い、俺はその少女に覚えは無い。

 しかし彼女はまるで俺を知っているかのように、懐かしいものを見るような瞳で、俺のことを眺めていた。


 どうしてか、俺は彼女に月を連想する。

 おそらく真っ黒な視界の中でも透き通る程に白い少女の髪が、暗い夜を照らす月光を思わせたのだ。


 少女は最初に俺に語り掛けて以来、何も言わずに俺のことを見つめている。

 そもそも、あの一言は目の前の少女の口から紡がれたものであったのだろうか。


「君は……この神社の神様、とか?」


 問い掛けに答えは無い。


 ふと少女の右手が静かに動いた。

 手を伸ばせば届く距離。

 少女はそのまま、俺の頭に手を伸ばして──。


『ソータ』


「……総汰っ」

 

 ──突然揺さぶられるような衝撃に襲われて、俺の意識は現世に戻った。


 衝撃の方向を見やると、智富世が俺の肩を緊迫した様子で揺すっている。


「あっ、気が付いた。どうしたの? 数秒間だけだけど貴方、拝殿の方へ話しかけていたわ」


 なんなのだろう、今日は……。


 突如として現れ、名前さえ分からないまま消え去った、俺を知っている誰か。

 今日はもう訪れはしないだろう思っていた、突発的な出来事。


 状況を確認しようと俺が智富世に訊こうとする。

 その前に彼女が「それよりも」とどこかを指さした。


 指をさす方向は拝殿から見て背後の左にある社務所の方角。

 智富世が切羽詰まったような表情をしていたのは、その方向に対してのものだった。


「神域って、やっぱりこの世界でもああいうモノが出る場所なのかしら」

「……どういうこと?」


 智富世の言葉に首を傾げつつ、指の方へ振り向く。


「な……っ」


 言葉を失った。


 俺が目を瞑っていた数秒間の間に、何があった。


 数秒前の俺の混乱は、たった今目にしたソレによって、塗りつぶされる。


「なん、だ……アレ……っ!」


 ソレは、何処にでもいる生物だった。


 丸く、長い形をした胴体。

 緑色の外骨格に包まれた節構造の全身と、真っ直ぐ後ろに前肢が伸びている。

 胸部からは三対の脚が付いており、そのうち一番後ろにあるものが最も長く、身体に折りたたまれ、跳躍の際には役立ちそうだ。

 顔には二つの大きな複眼と鋭い顎を持ち、頭の先から長い触覚が二本、弧を描くように生えていた。


 飛蝗である。

 この神社の草むらでも、探してみれば簡単に見つかるくらい、何処にでも存在する生物。

 何も警戒することの無いはずの、基本的には無害な昆虫だった。


 だが、それが変哲の無い飛蝗であったのなら、俺も言葉を失うこともない。

 智富世も神域であれば存在する、なんて言うことはない。


 つまり、確かな異常があったのだ。


「飛蝗、だけど……」


 飛蝗は今にも餌にありつこうと、大きな複眼で睨めつけている。


 草食のイメージがある飛蝗であるが、キリギリスのように中には同じ虫や、小動物を餌にする肉食種、雑食種のものも存在し、人に噛み付くこともあるという。


 今、目の前に対峙するソレも、肉を喰らう種類の飛蝗であったらしく、目の前の小動物を棘の付いた前脚で捕らえようとしていた。


 大きな顎で、尻もちを着いた小動物を。


 そう、その小動物が問題なのである。


 自身より巨大な存在に真上を取られ、恐怖のためか身動きが取れずにいる小さきモノ。

 どうにか動こうと力んでも足は動かず、悲鳴も満足にあげられない小動物。


「……ぅ、あ」


 その小動物とは人間であり、喰らおうとする飛蝗は三メートルを越える巨体を誇っていたということだった。


「襲われてる……っ!」


 理解してから、すぐさま俺の身体は硬直から解放され、一直線に飛び出した。


 目標は、もちろん今に襲われそうになっている同族を助ける為。

 リスクなど考える暇なく、智富世の制止も耳に止まらずに、ただ走り出した。


「……くそっ!」


 巨大飛蝗との距離は三十メートル程。運動に自信が無い訳では無いが、先に動かれてしまえば間に合わない。



 ……神社に来るだけで、どうしてこう、不思議なことが起こるんだ!



 正常な思考であれば、そう文句を言っていたかもしれない。

 しかし、誰かを助けると意識した瞬間、混乱も無駄な思考も脳から切り捨てていた。


 いまにも飛蝗は、動けない少女の肩口にその大顎を突き立てようとしているのだから。


 両腕の痣を意識する。

 それだけで全身に熱が宿る感覚、体に力が漲る感覚が俺を包んでいく。


 これなら……!


「ふ、ッ──」


 一呼吸と同時に、右足で思い切り地面を蹴った。

 跳躍したのだ。


 後ろで舞上げられた桜の花びらが、猛スピードでどこかへ飛んでいくのを感じる。


 それもそのはず。俺は三十メートルの距離をたった一度の踏み込みで跳躍し、巨大な昆虫の目前まで迫ったのだ。


 原理は分からない。だが、小五の時、祈織を襲った何処かの組織の人間から救い出す際、咄嗟に使えるようになった技だった。


「……ッ!」


 間近で捕らえた緑の巨躯は、容易に人を恐怖させる。

 ぎ、ぎ、と歯の擦れる音に、人の顔ほどもあるような眼の集合体、そして緩慢に怪しく動く触覚。

 そもそも通常サイズの昆虫ですら苦手な人も多くいるのだから、それが自らを食べてしまえる大きさともなれば、完全なる異形としか思えない。


 だが、その恐怖を噛み殺して、俺は跳躍の勢いを殺さずに飛蝗の頭と前脚の隙間に滑るように潜り込んだ。


 少女の両肩を持つ。


「悪い、飛ぶぞ!」


 方向を切り返して、後方へ二度目の跳躍。

 智富世の居る方へ、少女を抱えたまま、真っ直ぐに。


 間一髪、大顎は少女の肩に傷つけることなく、俺のズボンの右足を引き裂いて空を切った。


「……っぶな!」


 何とか智富世の右隣辺りに着地し、少女の両肩から腕を離す。


「大丈夫か、きみ」

「……」


 降ろしたばかりの少女に無事を問うが、返事は無い。

 黒い髪の少女は、次の行動に移ろうとしている飛蝗の方を青ざめた顔で見つめるばかり。


 一先ず、状況が落ち着くまで話は伺えなさそうだと判断して智富世の方に向き直る。


「智富世、あんなでかい虫、この世界にはいない!」


 一瞬近付いただけで、飛蝗は巨象程の体躯を有していると理解できた。

 そんな生き物、ファンタジーの世界でもなければ存在しない。

 現実にも大昔、虫がメートル単位まで育つ時代があり、体長一メートルの巨大なセミや二・六メートル程にもなるヤスデが存在したというが、現代では大気中の酸素量の問題だとかで、虫がそれほど大きく成長する事が不可能なはずである。


 しかしその定義は、智富世の一言で否定される。


「あれは、貴方の世界で生まれた飛蝗の怪物のはずよ」


 祈織の記憶を読んだ時と同じように蒼い瞳を輝かせた智富世が、巨大飛蝗を観察しながら断言した。


「ディアスポラに生息する生命はどんな形であれ、鼓動から微量の魔力を生む。けれどあの飛蝗は魔力を全く帯びていないの。だから、アレはたぶん、この世界のものだと思う……わ」

「そういうもの、か」


 魔術や魔力といったものを直接目にした事の無い俺には、教えられた情報をそのまま理解することしか適わない。


 しかし、だからといって目の前に在る超常の異形を現実で誕生した存在と受け入れるには、しばし時間を必要とするのも事実だった。


 だが目の前に顕在する巨大な捕食者は、自らの存在を理解させる時間など、与えてくれはしない。


「……っ、来るわ!」


 ぎぎぎぎぎ、と翅を擦り合わせ、轟音を掻き鳴らす。

 巨大な捕食者が、お返しとばかりに今度は俺達目掛けて飛翔した。

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