ep3 『きみのなまえ』

 その後、私をフィリアの屋敷で預かることに決めてから、三段のケーキスタンドの半分ほどをつまみ、議論は私の呼び名についての話題になっていた。

 いい加減「この子」や「君」呼びはよくないと、フィリアが提案したのだ。


「ふたりに、きめてほしい」


 その頃の自分は名前が重要なものだなんて思っていなくて、即決した私に、


「貴方が決めなさい、私が保護者になるわけではないので」


 きっぱりと、カトレアが断って、

 

「そっか。僕よりカトレアの方がこういうセンスはあると思うんだけど、そういう理由なら仕方ない」


 結局、提案した張本人であるフィリアが私の名前を決めることになった。

 とはいえ、すぐに命名なんてできるわけがない。


「困ったね。すっごく責任重大だ……」


 と紙を片手に悩み始めてしまった。

 うんうんと悩んでは、思いつくごとに紙に文字を記していく。

 紙に棒を転がしていくだけで記号が浮き上がる様子はまるで何かの不思議な力みたいに思えて、どういう仕組みなんだろうと眺めていると、カトレアが「これはペンという先端に小さな魔石の付いた簡易的な杖の一種で、頭の中に浮かんだ文字を自動的に紙に書いてくれるものです」と説明してくれた。

 

「えーっと、この名前は男っぽい……これは長すぎるかな……」

「よびな、そんなにむずかしい?」


 候補が挙がる頻度こそ多いものの、どんな名前も決め手には欠けるようで書いては消してを繰り返して、一向にきまらない。

 呼称して判別するだけの単語を決めるのに何故そんなに時間をかけるのかフィリアに尋ねると、それは簡単な理由だよと諭すように教えてくれた。


「名前は、ただ判別するためのものじゃなくって、意味を持っていることが多いんだ。たいてい、名前を付ける人が生まれてくる子供に向けた思いとか、願いとかを込めて命名する。だから国や風習によっては一度つけられた名前を変えられないこともあるし、そうでなくてもよっぽどのことがない限り、おいそれと変えていいものでもない。それだけに、名前はきちんと考えてあげなきゃいけないんだよ」


 付けられた名前に生き方を縛られる必要はないけどね、と付け足して。

 

「フィリアとカトレアにもいみ、ある?」

「もちろん。僕の名前は直訳すると愛情。けれど僕の母さんは、何の縛りにも囚われないで、沢山の人や人以外と分かり合ってほしいって昔話してた。普段そんな人じゃなかったのに」

「ふうん」

 

 「カトレアは、花言葉なんだけど……」と言いかけたところで、人の事情を勝手に話すものではないと窘められ、蘭という花の一種であることだけを教えられた。

 だが、私に説明するうちに何やらとっかかりがあったようで、再び紙にペンを走らせる腕が早まる。

 

「願い、か……」

 

 そうしてフィリアが名前を考えている間、私はカトレアにペンの説明の中で出てきた魔石という物の、元になった魔術という概念について教えられた。


 いわく魔術とは、大気に充満する『魔素』や身体に貯蓄される『魔力』といった、神の欠片のさらに残滓である『マナ』に干渉してその方向性を決定し、発火、凍結、転移といった超常現象を起こす技術のことであるという。

 

 講義は実演形式であり、丁寧な説明と共にカトレアが巻き起こす現象の数々は、極めて美しく、そして不思議な現象に満ちていた。

 特に思い出深いのは、水を生み出し光を巧みに操って仮初の水槽を作り出す魔術。 

 光で構成された海月たちがまるで生きているように空中の水を舞い、幻想的な光景を作り出すさまが、海月の存在を知らない私には沢山の星が生きているように思えて、手を伸ばしてつかもうとしたのを覚えている。

 

 今だからこそ分かることだが、最古の魔術師から魔術を教えてもらうなんてとっても貴重な体験だったと思う。

 

 いつのまにか、たっぷり一時間もの時間が過ぎ去り、お茶もお菓子もすっかり無くなっていた。

 ようやくフィリアも名前を決められたようで、ペンを動かす腕が止まる。

 

「ふう、決まったよ……って僕の分のケーキ無くなってる」

「また頼めばいいでしょう。で、どんな名前にしたのですか?」


 取っておいたのにと落ち込むフィリアだったが、カトレアと私に急かされたことで、仕方ないともう一つケーキを注文してから名前の書かれた紙を見せてくれる。

 意味があるもので、私だけのもので、目の前にいる人が精一杯考えてくれたものだと考えると、早く知りたくてたまらなかった。

 

 

「チトセ」


 

智富世ちとせなんて、どうかな」


 三文字の単語。

 見知らぬ記号で記された言葉が、私に付けられた名前だ。

 

「ち、と、せ」

 

 私だけの、言葉。

 

 反芻するように、名付けられた単語を繰り返して噛みしめる。

 

「チトセ……その響き、葦原アシハラの……いえ、今は扶桑フソウの言葉ですね」

「うん。素敵な言語だよね、文字の一つ一つに意味を込めれるなんて。まるでフサルクだ。東南の国の言葉で、すごい歴史のある言語でさ、たしか隣国の文字と元々の話し言葉を……ってそんな説明いらないか」 

「どういういみ?」


 二人の話はまた難解な言葉が飛び出してよくわからなかったけれど、文字の一つ一つに意味を込められるという部分が気になった。

 

「ああ、意味、知りたいよね。なんだか付けて急に説明するのはちょっと恥ずかしいけど……」


 気恥ずかしそうに、頬をかく仕草を取る。

 だが、期待に満ちた声で、彼はその思いを口にした。


「君には、世界をってほしい。昔僕が旅したように。僕の同類なら、きっと世界はとっても素晴らしい場所に満ちているはずだ」


 名前を語るその顔は、夢を語る少年のように、輝きに満ちている。

 

「君は、単存在だ。本当なら他者の存在なんて必要ない、宇宙にたったひとりしか存在しない、生と死という概念さえ存在しない、単独で完成された者」


 出会ったばかりの私に、彼はどれほど夢を抱いていたんだろう。

 単存在の、しかも彼の願いと真逆の性質を持つ私に。

 

「でもだからこそ。僕も智らない、沢山の世界と人と人でないものと繋がりあって、智っていって欲しいんだ」

「智る……」


 知ると智るなんて響きは同じで、違いなんてわからない私に、フィリアは笑いかける。

 

「きっと、今聞いてもよくわからないよね。けど、大丈夫」


 大丈夫なんて一言とは裏腹に、続く言葉は当時の私をさらに混乱させた。

 

「人は不完全なことに強みがある。自己や子供を変えるため、嫌なことを忘れたり慣れたりする。けれど、人を超えた人でなしは強大であること、完全であることが強み。だからずっと、人でなしは遠い過去を昨日の事のように思い出せる」


 あとで必ず意味は分かるなんていう、効率だけの思考。けれど——。


「だから智富世。君が世界を智った時に、自分の名前の意味を思い出してくれたらいい」

「……うん」

 

 言っている意味も、意図もわからなかったけれど、私はずっと心にとどめていようと思ったのだ。

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