Chapter 0 A.D.Yesod 2023

ep1 『全てが止まっていたなかで』

 二千年くらいまえ、私はこの世界に流れ着いた。


 きっかけは、なんてことは無い。

 いつからかは分からないが、私には自我というものが目覚めていて、真っ暗な景色と永久の凪が続く世界にいた私は、随分と退屈に悩まされていた。

 

 最近、本で知ったことだが、そこは超空洞と呼ばれる空間であったらしい。

 星空の向こうにある天ノ川のさらに向こう、たくさんの星々が集まる世界にぽかりと空いている、ほとんどが空っぽで埋め尽くされた世界。

 光も音も匂いも味もない、何にも触れられない世界。

 

 そんな世界に私は居た。

 自分の視界の真下に、黒しかない世界で唯一、色と呼べるものがあって唯一、動いている。

 紫色の細い糸、髪がゆらゆらと顔の近くで揺らめき、白、青、紫、薄橙と色分けされた形が己の意志に合わせて上下する。

 ずっとその正体が疑問だったけれど、いつの日だったかそれが自分の身体と衣服であると気づいた時に私は思ったのだ。

 なんで、私しかこの世界には無いんだろう。

 この動く色は、身体は、私以外には存在しないのだろうか。


 そんなことを考えた時、私は新しい世界に生まれていた。

 まるでもともと私はそこにいて、ただ見えていなかっただけであるというように。

 

 今覚えば、私はあのままあの場所に保存されているべきだったのだと思う。

 

 開かれたばかりの世界は静寂に包まれていて、最初、私は音というものが認識できなかった。

 

 それでも、世界にたどり着いたばかりの景色は色鮮やかで、それが私に新しい世界に来たんだと気づかせる。


 そこは、国内で唯一とされる博物館と呼ばれる場所であった。

 

 当時の私にはそれが何であるのかよく分からなかったけれど、そこにはたくさんの珍しいものがあった。

 例えばそれは、巨竜の骨。魔族の人の剥製。解けない氷。忘れられた神の契約板。

 蒐集され、展示されているものの多くが人々を魅了し、人によってはその生涯をかけて追い求めるであろう代物ばかり。

 

 けれど、目に映るものすべてが初めて見るものあった私は、その良否の関係なしに景色の全てに目を輝かせる。

 歴史の積み重なった展示物も、手入れの行き届いた大理石の床も、煌びやかなシャンデリアも、隅に残った埃でさえ、私にとっては素敵なものに思えていた。


 ひと際大きな展示物であった竜の骨が気になって、近づいてよく見てみようと一歩足を踏み出す。

 

 とんっ。


 響いた感覚を感じられて、びっくりして後ろに足を戻してしまった。

 とんとんっとまた響く。

 私の動きに合わせて高さの違う響きが感じられる。


「わ……! え、え?」

 

 今度は下の方ではなく、意識のある場所のすぐそばから何か響いている。

 宇宙に音はなかったから、その時はじめてそれが音が聞こえるという感覚であると、声をだすという行為であることを私は知った。


 目に映るもの、聞こえるものすべてが初めての、沢山の未知が広がる世界。

 生まれてからずっと求めていた、混乱するほどの情報の波。

 私が住んでいた世界はどれほど狭いものであったのだろう。

 私に生きるという概念があるのなら、生まれて初めて、情動と呼べるものに満たされていた。

 

 けれど、ひとつの違和感。

 

 色は沢山あるけれど、その何ひとつが動いていない。

 私だけが、右に左に、前に後ろに動いている。


 自分の体しか知らないために、色があるものは全て動くものであると思っていた私は、その認識のずれに困惑する。

 当時の感覚でいうなら、見上げるほど巨大な白い棒が、その連なった巨体を持ち上げないことに頭がごちゃごちゃとなる。

 白い衣服を身に纏う、私と同じくらいの大きさと姿をした褐色の形が、指先一つ動かさないことに不快感を覚える。


 それだけなら、昔の私が無知であっただけだろう。

 でも私が初めて見た世界は、普通の人からしても未知の光景であった。

 

 だって、本来ならば動いているはずのものすら、動いていなかったのだから。


 燭台に灯る炎は輝きこそすれ、揺らめかない。

 順路を歩く人々は展示されている彫刻のように、多様な仕草をとったままで静止していた。

 

 目の前のものすべての一切が、その動きを止めている。

 初めて訪れた世界は美しくも、既に異常に侵された世界であった。

 

 それが自分の手によるものであると知ったのは、ずっと先。


 世界とはやはり止まっているもので、動いているのは自分だけと思った私は少し、落胆する。

 だって世界に色があっても動きがないのなら、私はただ観測するだけ。そこに規則的な感情はあっても、不規則な心はない。

 何かを思って、行動できるものは私以外にはいないのだろうか。


 その疑問は私が世界に流れ着いたときと同じように、思ったと同時にすぐに払われる。


 きっとこの出会いさえなければ、私は今、この記録を残していなかっただろう。


 今の私がそう思うほどに、その出会いは私にとって大事なものであった。

 

 こつこつ、かつかつ。


 二つの響きが、展示室の角から近づいてきた。

 

「どうもこんにちは。……って急に声かけてごめん、びっくりさせたね」


 自分以外のものから音が響いたのが聞こえて思わず声を出してしまう。


 音が響いた方向を向くと、二つの形が音を出して動いていた。

 一つは、私より背の高い、短くて白い髪のもの。

 もう一つは、私より背の低くて、目にかかってしまうほどに長い薄紅梅ピンクの髪のものだ。


 私に声をかけたのは、白い髪のほう。どこか柔和で自然体という表現が当てはまるような雰囲気。

 

「僕はフィリア。この人はカトレア、僕の先生だ」


 フィリアと名乗る者から紹介を受けた薄紅梅の髪の方カトレアが、目を瞑って軽く会釈する。


 言葉というものを知らなかった私には声に意味があるなんて知らなかったけれど、声に合わせて体を動かすのを見て、私と同じように意識をもっている物体であることは理解できた。


つまり私はこの瞬間、色を持って動くものに、出逢うことが出来たのだ。


「この博物館にいる人たちが、全く動かなくなってるって聞いて来たんだけど、君は──ん?」


 言葉も知らない私にフィリアが優しく問いかけるが、当の私はそんな事は蚊帳の外。

 世界に辿り着いた時の感動さえ通り越す高揚が、私の心をいっぱいに満たしていた。

 だって、動いている者がいた。しかも二人も! 意思だって持っている!


 落胆から直後に訪れた邂逅に、少し心の中で舞い上がってしまう。


 そんな私の様子にフィリアもその言葉を止めて、少し訝し気に私を見ていた。

 多分最初に彼が私に抱いた印象は、奇妙な女の子であったと思う。

 

「その感情……顔には出てないけど、急にはしゃいで……?」


 でも、彼の反応もいささか普通とは違っていて、まるで出会って間もない私の心を見透かしたようなことを言ってくる。

 多分、私が最初から言葉というものが分かっていたら、すごく気持ちの悪い人だと思っただろう。

 

「未知に対して、だね。しかも、僕らを含めたすべてに……」

 

 しばらくまじまじと観察して、私がこのフィリアという白いものは止まったり動いたりするものなのかと勘違いするほどに考え込んで、ようやく何か合点がいったように、分かった! と大きな声を出した。

 誰も音を出さない博物館の中では、彼の声はよく反響した。


「フィリア、急に叫ばないでください。この子も驚いています」

 

 私の気持ちを代弁してくれたカトレアに咎められて「ごめんね、またびっくりさせてしまった」と謝ってくる。

 けれど、その顔に写っていた表情はさっきまでの私と同じ、初めて見たものに歓喜するように笑っていた。

 

「……でも、そうだよね。その感情と、この停止現象。それに、君に関わるものの心の線の乱れ」

「急に流暢に話し出したと思ったらさっきから何を一人で、口にする言葉は他人にもわかるようにしなさいといつも……」

 

 自分一人にしか伝わらない独り言を口にするフィリアに、カトレアがため息をつく。

 しかしその直後に何か言葉に引っ掛かりがあったようで、途中で説教をする口を止めた。


「貴方の心の線が乱れる、力を乱すほどの存在……この子が……?」


 今度は彼女もフィリアと同じように、驚嘆の色を顔に浮かべて私の方を見る。歓喜というより、目の前にいるものが信じられないといったふうに。

 

「つまり、もしかして……アイディルの……?」


 多分彼は、この日をずっと予感し待ち焦がれていたのだろう。

 カトレアに肯定する彼の顔は、世界を初めて知った私以上の、この上ないほどの喜びと期待に満ちていた。

 

「うん、この子がこの事件の犯人だよ。そして、母さんが言っていた僕の同類……」


「単存在だ!」

  

 数分にも満たない出会い。

 そんなことを言い放った男に、流れ着いたばかりの私の人生は、今に繋がる色を決められた。

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