第四話 『胡蝶の夢』

 ——全てはゆめまぼろしの事。

 在り得ざる、懐かしい思い出。


 総汰の魂にも、想司の身体にも残存しないはずのフィリアの記憶。

 別世界ディアスポラの時代の、旧い記録アーカイブの再生。


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 ぼとり、ぼたり。


 灯りの消えた洋館の玄関。

 雪の溶けていく季節であっても、森の夜は酷く冷たい。


 然し、佇む青年の佇まいは夢か幻のよう。冷え切った世界でなお温度感を感じさせなかった。


 まるで、初めから在るだけで熱量など存在しない絵画のように。


 彼の目前に広がる、母親だったばらばらなもの。


 紫紺の糸、白銀の虹彩。

 華奢な機体、無機能の臓物。


 ひとつひとつが、美しい。

 十七分割されてなお、輝きを失わない少女。


 それでも、少女アイディルは死んでいる。

 青年の母親は死んでいる。


 理想の単存在は不可能とされる死を迎えていた。


 繋げなくちゃ。

 その分割された身体を。


 再稼働させなくちゃ。

 その冷たい鼓動を。


 完全な部品たちを縫合するために、単存在の力を乱用する。

 乱雑に切断されて欠損した部位を埋めるために、器の種を借用する。


 停止した命を蘇らせるために、命を代替する。


 不可能だった。


 それもそのはず。


 本質が理想な存在に変容など在り得ないのだ。


 壊れるはずのない部品は、一度壊れたら治す方法なんかない。

 理想の偶像に、代わりの部品なんかない。

 生死の概念の無い存在に、命という消費期限は与えられない。


 そもそも、彼女は単存在。


 世界を作った種の作用無しに物語に登場し、ただ単独で在り続けるもの。

 起源も終焉もなく、いつの間にかそこに居たもの。


 なにもかもと、他の存在との繋がりなど最初から無いのだ。


 一点限り。だから単存在。


 それでも、彼は納得などできなかった。


 奇縁の単存在マリッジ=ユニ、フィリアと名付けられた自分は、矛盾した自らの存在理由を証拠に、同族と分類される異種族を蘇せられるものと思って疑わなかった。


 けれど、彼と彼の母親はそもそも在り方が異なっている。

 哺乳類と岩石を同じ恒星や超新星の元素合成で作られたものだから同族であると分類するようなものだ。


 他者を繋げて離さないという、単存在にはあるまじき性質を持つ奇縁の単存在であれば、他者との繋がりから自らを復元できるだろう。


 しかし、それはフィリアというイレギュラーだから成し得る事。

 アイディルには不可能な芸当である。



 どうして、どうしてなんだ。


 自分には世界の総てを侵食するような力があるのに、どうしていつも大事なものを手放してしまうんだ。


 誰もが、知り合った全てが、己の手から離れていく。


 結局どこまでいっても単存在だってことなのか。


 嗚呼。ならどうして、母さんはあんなことを言ったんだ。


 ──貴方はいつか、愛さえる単存在になる。私が理解できなかった、心を手に入れて。


 ──まったく、羨ましいかぎりで、そして祝うべき事ね。



 全てはゆめまぼろしのこと。


 これは今を生きるものの夢の中。

 奇縁の単存在マリッジ=ユニが引き起こした、ただ一瞬の意識の交錯。


 今の青年そうたの意識が表層となる。



【夢から、覚める時間が来た】


【人称/変更】

【指定/主人公】

【神在総汰】


 ***



「……」


 酷い夢を見ていた気がする。

 まるで身に覚えのないはずなのに、妙にリアルで自分のことみたいに哀しくなってしまうような、そんな夢。


 後味の悪い夢を最後まで見届けさせられてから、は昏倒した意識を現実へと引き戻された。


「……っ!」


 気が付くと、孔に取り込まれる前の景色に戻っていた。


 相変わらず車も人通りもない橋の光景に。

 鋼橋と石橋とが無理やりに混ぜ合わされたような境目のある橋。

 遠くの方を見れば、御伽のくにに変貌してしまった九十九市の城壁が見て取れる。


 違うことがあるとすれば、もう日が昇ってしまっていることと、気を失う前には存在していたノイズのような靄がなくなっていることくらいだろうか。


 どうやら、随分と長く橋の上に立ちっぱなしで眠っていたらしい。


 ということは、昨日の女の子は夢?


 こうして路上に立っていたということは、俺が見た孔の中の世界やその中にいた少女は全て眠ってしまった後に見た夢の中の存在で、実在しない幻ということなのだろうか。


 夢としては申し分ないほどに現実離れした風景だったことは覚えている。

 突然取り込まれた孔。その先には声も出せる海があり、水の中に沈んでいるはずなのに本棚に固定されたままの書物が並んでいた。

 そして、海月のような紫苑色の髪の少女と彼女と過ごしていたという身に覚えのない記憶。


 その日は常識離れした出来事が起きすぎていたせいで受け入れられていたが、冷静に考えてみると、あの光景は別世界だとか悪魔だとかの情報を抜きにしても現実と乖離しすぎている。


 橋に訪れる前に見せられた映像にもノイズや孔は映っていたと記憶しているが、恐らく見間違いの類であるのだろう。


「……あんな所に女の子が一人でいるわけないしな」


 そう自らを納得させて、一度忘れることにした。


「そんなことより、だ」


 ならば次にやるべきである、現在の状況確認をしようとスマホを取り出し、チャットアプリを起動する。


 祈織の状況が心配だった。

 もう日が昇っているということは、祈織と離れ離れになってから相当な時間が経過している。

 意識を失う前、もう一人の幼馴染である悠に電話を掛けたことは記憶しているが、無事に彼は祈織を助けてくれただろうか。


 彼らの現在位置を把握するためにももう一度電話をかける必要があると判断し、祈織の番号を選択。

 通話ボタンに指を滑らせる──。


「おーいっ」


 ──寸前に、聞き慣れた声が耳に響いて動きを停めた。

 よく通るハリのある綺麗な声。かつかつと硬質な靴の音が近づいてくる。祈織のものだ。

 心配は杞憂だったようで、どうやら彼女は無事に助けられたらしい。


「なんだ、すぐ近くにいたんだ。ならもっと早く声をかけてくれてもいいのに」


 呼び掛けに応えながら振り返ると、軽く腕を振りながら歩み寄ってくる祈織の姿が目に映る。


「な──」


 言葉を失った。

 予想は正しかったのに、である。


 確かに、振り返った先には幼馴染の少女が金髪を海風に揺らされながら手を振っていた。


 言葉を失ったのはその隣。

 己の瞳は、祈織の隣にもう一人の少女の姿を視界に捉えていた。


 海月みたいな形の紫苑の艶やかな髪。形のいい勿忘草の蒼い瞳。現代的とも異国的とも取れない、緑や紫の宝石や瞳型の装飾をあしらった衣服。


 現代的な街並みを背景に、とまりが歩みを進めていた。


「智富世……」


 少女の名前を口にする。孔の中に取り込まれていた時に口にした名前だ。


「気づいたのね、総汰。……大丈夫?」


 祈織が気遣う言葉をかけてくれるが、普段の自分なら逃さないはずの言葉さえ忘れて、意識は智富世という少女に捕らわれていた。


 夢ではなかった。

 否、この光景そのものが夢であるのか?

 夢でないのだとしたら、彼女はなぜ目の前にいる?

 祈織といつ知り合った?

 そもそも彼女は誰で、あの場所にいた?


 次々と疑問が浮かんでは頭を埋め尽くす。

 智富世の瞳を見詰めたまま思考を膨らませていると、突如ぺしっと額を軽く叩かれて現実に引き戻された。

 いつの間にか目前まで迫っていた祈織が、少し怒ったように「まったくもう」と整った眉を歪ませている。


「はぁー。総汰、あんた綺麗な女の子に見蕩れて我を忘れるようなやつじゃないでしょう。なにぼーっとしてんの」

「う、ごめん。でも、驚いたんだ。夢の中の出来事だと思ってたことが現実だったなんて」


 無意識とはいえ、彼女の言葉を無視してしまったことを謝罪して、言い訳も少し付け足す。


「俺が橋の上に落とされたあとにいつの間にか水の中にいて、彼女がそこに居たんだ」

「そこらへんの話、もうあたしも聞いたわ。あんたが昏倒してから今まで八時間も経ってる。どんな目に遭ったかは智富世に聞いたもの」

「そうなのか」


 それは話が早いと安心すると同時に、それほど長く意識を失っていたこと、その間に彼女たちが知り合っていたことを理解した。


「あれ。悠は……悠はどうしたの?」


 そして総汰が意識を失っていた間、フェネクスから祈織を守っていたであろう幼馴染の姿が二人の近くに無かったので、彼の行方を祈織に伺う。

 いつもの悠であれば、祈織が傷つけられたとあれば、彼女を襲う脅威が去るまで、すぐ側で過剰なほどの警戒態勢をとっているはずだ。


「あー、悠なら今、あんたを落としたあの焼き鳥男フェネクスの行方を追ってもらってる。何かあったら連絡するよう頼んでるから、心配しないでいいわ」

「納得。そっちに傾いたのか」

「あいつが炎くらいで死ぬわけないし、もしかしたらそのまま倒してくるかもしれないわね」


 祈織の言うことには従順な悠らしい行動だ。祈織の要望もあって、彼女を守る事より、傷付けた者に制裁を下しに行ったらしい。

 後から怒りの矛先を、祈織を守り切れなかったこちらに向けて来ないだろうかという不安はあるが、彼に対する心配事は解消された。


「そんなことより……」


 総汰が納得するのを確認したあと、祈織は今まで二人の会話を黙って聞いていた少女、智富世に視線を向けた。


「彼女、あんたに謝りたいことと頼みたいことがあるらしいわよ」


 言って、一回り背の低い彼女に発言を促す。


「あ……ええ、ありがとう、ございます」


 そっと祈織にお礼を言って、智富世が一歩前に出た。


 そして彼女は、おもむろに小さな口を開いた。

 俺を停止させたあの時のように、今度は見上げるように目を合わせて。

 この世のどんな音より透明な声で。


「フィリア……じゃなかった。総汰」

「ん?」


「カトレアが言っていたの。貴方が、私に全てをくれるって」

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