楽しい時間

 鴻巣亜弓こうのすあゆみのことが気になりだしたのは去年の夏くらいだ。彼女は学校のカーストでは比較的上の方のグループに属していて、その日も仲の良い友達同士で昼休みにつるんでいた。

 その頃、学校では女子生徒の体操服が盗まれる事件が起きていた。そしたら彼女のグループの誰かが俺の仕業だと言い始めた。俺はもちろんそんな勇気はないから、欲望があったのは認めても、実行に移したことなどない。完全な濡れ衣だが、その言葉に反論しても盗み聞きしていたみたいで一層気持ち悪がられる気がして何も言えず、体を強張らせていた。すると彼女はこう言った。


「くっだらね。人を疑うのは勝手だけどさ、それを平気で声に出せる人の人間性のほうが疑わしいわ。無責任な言葉でもそれが膨れて本人を追い詰めることになる場合もある。クソみたいな噂流して問題をかき混ぜる方が面白いとか思ってんならさすがに引くわ。確たる証拠を出せとは言わないけど、雰囲気だけで言ってるならやめな、面白くないからさ」


 多分鴻巣は俺がその疑いの対象じゃなくてもきっとそう言ったのだろう。でも彼女はそのスタイルで常に仲間から愛されていたし、その発言で自分の地位を落とすことも嫌われることもなかった。俺は勇気を出して後で彼女にお礼を言った。


「あ、あの、さっき。あの、ありがとう。俺が疑われてるところを弁解してくれて。俺、あの、やってないから、助かって」


「ああ、そう。あのね、『疑いというものは、何か事を起こすにも殆ど勇気を与えてくれない。けれど、何もしないことの口実としては、あまり褒められたものではない』っていう言葉があってね。あんたも聞いてたんなら自分で否定くらいしろ」


 それが最初の思い出。彼女のハッキリとものを言う性格と、芯のある考え方に魅了された。俺は自分のアイデンティティを自分で収集した音楽や映画、美術の数で構成しているから芯などなく、ただサブカルチャーに於ける知識だけが支えになっていた。ところが彼女にはそういう物質に頼らない自我を感じたんだ。そして憧れになった。


 ある日、そんな鴻巣と付き合うことになった。


 あの日からずっと視界の端に置いて、視線に気付かれないように見ていた鴻巣から「付き合ってみる?」って言われて、俺は心臓が飛び出しそうになった。家に帰ってあまりの嬉しさに全裸になって鏡の前で斜め前を向いて立った。そしてちらっと鏡の方を向いてカッコつけながらこう言った。


「俺に言ってるのか?」


 そのあとベッドに飛び込んで唸りながら足をバタつかせた。俺が、あの、かわいくて、性格がねじ曲がっていて、ハイカーストの、鴻巣と、付き会う!驚きと喜びで顔がニヤけてしまう。部屋の窓を開けると俺は大声で叫んだ。


「地球~!!! ありがとう~!!! 女体!!!」


 するとガチャリと部屋の扉が空いて、姉が入ってくると、こちらが性器を隠す間もなく俺の頬をピシャリと張った。


「うるさい! もう夜でしょ! こちとら2日徹夜明けなんだ寝かせろ! あと服着なさい!」


「俺は自分の部屋では自由に全裸になる権利がある。それと扉はノックしてください」


「夜中に全裸になってクソでかい声で女体とか叫んでるやつに人間的権利なぞない!」


「説得力があるので、俺も何だかそんな気がしてきた。風呂入って寝ます」


 風呂に入って電気を消して横になってもまだニヤニヤが止まらない。何度も携帯を見る。俺からは勇気が出ないから、彼女からの連絡をずっと待ってる。そうすると少しずつ不安になってくる。あれはただの冗談で、俺のことは本当はキモいとか思ってるんじゃないかとか。彼女の気持ちを文字や言葉で確認したい。居ても立っても居られなくなって、布団から飛び起きる。頭を抱えながら部屋をうろうろする。


「やっぱり、勇気を出して鴻巣さんにメッセージ送ってみよう」


 そう思って携帯を拾ってメッセージアプリを開く。そこでやっと気付いたけれど、俺たちはお互いの連絡先を知らなかった。俺は膝から崩れ落ちてさめざめと泣いた。ちょっと大きめの声で泣いてみようと思ってウォンウォン言ってみたら、ドアが開いて姉が俺の顔面に蹴りを入れて去って行った。


* * *


 翌日、彼女が早退したので後を追って俺も早退した。俺は今まで無遅刻無欠席だったので、非常に勇気が必要だったが、彼女のことも気になったので行動に起こした。


「私、これから街に寄るけど一緒に来る? どうせもうみんなに付き合ってるのバレたし制服のままでもいいよ」


 その言葉に俺は歓喜した。それまで本当に付き合っているのかすら実感がなかったので、鴻巣がそう言ってくれたことに心から安堵と喜びが溢れ出た。


「はい! お供します!」


「ところであんたその髪型どうにかならないの?」


「朝起きたときのでき次第で毎日変化してる。バリエーションが豊か」


「起きたときの髪型まんまってことかよ。梳かしてあげようかとも思ったけど何か触るのやだからやめとくわ」


 彼女の案内で名曲喫茶に来た。名曲喫茶って以前姉に連れて行ってもらったリクエストとかで音楽を爆音で流してくれるバーみたいなのを想像してたけど、そうではなくて、静かにクラシックが流れている。ストラヴィンスキーの火の鳥だ。


 彼女の頼んだクリームソーダは鮮やかな緑色をしていて、少し溶けたアイスがメロンソーダと混ざって泡になる。彼女は携帯をいじりながらときおりストローを咥えて少しだけソーダを飲む。その様子をノートに顔を隠しながら眺めていた。その唇がとてもセクシーで、そしてその仕草がとても少女らしくて、俺はドキドキしていた。

 会話をしなくてはという焦る気持ちと、このまま無関心な態度で俺にその所作を眺める時間を与えてくれ、という感情がせめぎ合う。ところが沈黙を破ったのは彼女の方からだった。


「音楽とかも一緒に聴く人がいたほうが楽しいんじゃない?」


 これは急接近だ。俺は彼女のことを名前で呼びたいという抑えがたい感情に支配された。この接近のタイミングを逃したら他にはない。多分今彼女を名前で呼べないと一生「鴻巣さん」と呼ぶハメになる気がする。心臓がどくどくと脈打つ。心臓には鼓動できる回数が決まっているを聞いたことがある、俺は今恐らく10年分くらいの寿命を縮ませているに違いない。

 俺は深呼吸をする、いきなりで不自然にならないように、会話に返事をする形で。


「それって、今度からは私がいるよ! って意味ですか! 亜弓さん!」


 駄目だ、完全に取って付けたように無理やり名前を呼んでしまった。もう駄目だ、気持ち悪がられる。終わった。俺の恋。急激に不安になって視界が定まらないのを感じる。恥ずかしさで顔が焼け落ちそうだ。


「いきなり名前で呼ぶなよ! そういう意味でもなかったけど、まあそれでもいいや。今度オススメの音楽聴かせてよ」


 その言葉に心が踊った。彼女は名前で呼ぶのを容認してくれただけでなく、俺の聴く音楽に興味を示してくれた。趣味の知識だけが俺の拠り所だから、そこに頼ってくれたのは本当に嬉しかった。俺を必要としてくれるようで涙が出そうになった。


「う、うん、もちろん!」


* * *


 家に帰ると姉が有給で休みを取っていた。俺は姉を呼び止めて自分に彼女が出来たことを自慢する。


「は? 嘘でしょ? いや……、え? 嘘じゃん。」


「いや、信じてよ! 俺にも春が来たんだ!」


「マジで言ってるなら、まあ、おめでとう、俄には信じられないけど。だってもし耀司ようじが私の同級生でいたら間違いなく口利いてないもん。彼女、盲目の女の子とかなの?」


「実の弟にひでえ事を言うな! 学校のハイカーストの女子だぜ! 俺も信じられねえけど、本当なの!」


「あ、じゃあさ、ちょっと先の話で今度リップスのライブがあるんだけど、彼女と一緒に行く? 私の友達も一緒だけど、奢るよ」


「え! マジ!? 行く行く! ありがとう姉貴! 愛してる!!」


 部屋に戻って彼女へのメッセージを考える。気持ち悪がられないように長文はやめて、でも短すぎると冷たい感じになるし。というかメッセージ、本当に送って良いのだろうか。返事が来なかったらどうしよう。鴻巣は既読無視とかしそう。


「今日は亜弓さんのことをたくさん見れて楽しかった。いや、これはキモい。間違いなく通報される。今日は超話し盛り上がって最高だったぜ。いや、盛り上がってねえし。こんばんは、今日は学校サボってお茶飲んだのとか初めてで楽しかった。よし、これで行こう」


 送信ボタンを押す手が震える。これで返事が来なかったら、彼女は俺のことなんか実は全然意識していないということが証明されるようで恐ろしい。彼女が今俺と付き合っているのは気まぐれなのは間違いがないとしても、せめて彼女にとって、何かしらの意味をもつ男だったらと所願している。


「こんな願いを持つから、こんな希望を持つから傷付くのかも知れない」


 俺はそう呟いてメッセージを送らずに携帯を放り投げた。そしてレコードを再生する。すると、携帯がメッセージを受け取った音をさせた。びっくりして画面を確認すると鴻巣からだ。


「やあマラって何? ちんこ?」


 意味不明のメッセージに混乱して確認すると、さっき打ったメッセージが全て消えて、「やあマラ」とだけ書いたメッセージを送っていた。恐らくレコードを用意しているときに踏んでしまい、全選択削除からの、フリックなしの入力を行って送信まで完了してしまったということだろう。何という悲劇。初めてのメッセージで鴻巣をいきなりちんこ扱いするセクハラ行為を行ってしまった。


「いや、それはあの、打ち間違えで。忘れてください。本当は今日は楽しかったですって打ってた」


「何でそれがマラになるわけ? 意味不明」


 そりゃ信じてくれないよな。でも、返事が来た。良かった。無視されてない。ちゃんとメッセージが返ってくる。嬉しい。嬉しくてスクショを撮ってしまった。


「あのさ、今度姉貴がライブ奢ってくれるみたいなんだけど、一緒に行かない? 姉貴とその友達も一緒みたいなんだけど」


「何のライブ?」


The Flaming Lipsザ・フレーミング・リップスって古いバンドのライブ。姉貴が世界で一番好きなバンド」


「検索したら出てきた。全く知らないけど行ってみようかな」


 俺はガッツポーズをして服を全て脱いだ。激しい喜びの前では衣服は蛇足。俺は生まれたままの姿になって、ペニスでメッセージを打とうと試みたが、普通に考えて異常行動なので謹んだ。


 そして俺はもう一つの勇気を振り絞った。デートの誘いだ。最初はいずれ勇気が湧いてくるときにしようと思ったが、自然と勇気が湧くなどということは絶対になく、重度のストレス状態を越えてその上で行動するから勇気なのであって、家で怠惰に過ごしている人間が一生山に登らないのと同様に、俺も今ここで振り絞らないと、一生デートに誘えないと思ったのだ。

 それに彼女からデートに誘ってくれるようなシチュエーションは全く想像つかないので、俺が誘わない限り、永遠にデートに行く可能性はないと思われた。断られたら恐らく立ち直れないくらい落ち込むと思うが、今ここでやるべきだと自分を奮い立たせた。


「あとさ、今度の日曜日、ドイツの写真家の個展行かない?」


「いいよ。写真詳しくないけど大丈夫?」


「俺も別に詳しくないけど、見て感動することはできると思う」


「それじゃあ行こうかな」


 メッセージは誰にも見られないプライベートな会話という感じがして、凄く親密な関係にあるように感じられた。俺は最後に勇気を出して「好きです」と送ったが、既読が付いても返事が来なかった。それでも俺は嬉しくて携帯を握り締めながら眠った。


* * *


 日曜日、グルスキー展を見て回るが、その画面のパワーに圧倒される一方で、鴻巣と一緒にいるということに意識が行き過ぎて個展に全く手中が出来なかった。俺は彼女に意味不明で陳腐な感想しか述べることができなくて恥ずかしかった。それでも今回のノートの感想は長くなりそうだ。俺にはこの個展に立っている鴻巣のことで頭がいっぱいだから。


「俺、今日のこと忘れないでいたい」


「凄い写真だったもんね」


 そう、私服の鴻巣はすごく綺麗だった。俺は醜いけど、美しいものはわかるんだ。


「俺さ、亜弓さんのこと好きなんだ」

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